明訓一班抄抄録 / 夷狄を近付べからざる事・裏門の備えを手厚くすべきという斉昭の意見
齊昭謹で按ずるに、土地とても異國より日本を窺ふの患あり、故本文のごとく武內大臣を筑紫差置れ、又、三代將軍家御代には異國船の沙汰も今の如くには無之に、大猷公黑田鍋島等へ被命、防禦永續被仰けるは、深遠に御仕置と奉感も、餘り有る事也、扨、又、大猷公上意の趣、明は日本へ近き國なれば黑船よりも御心許なく被思召よし、愼ながら御尤至極なる御事也、然るに明國も其後北狄より攻めとられ、今淸國と改めたれば、其土地は昔も今も日本へ近きは違ることなかれ、長崎の押は今以嚴重に戒め給ふ事當然の事なれ共、蝦夷狄は至て北狄へ近く、且昔と違ひ北狄強大になりて、追ゝ蝦夷地を蠶食すれば、此儘差置れなば末終に大患となるべし、本朝は四面海なれば、何れの浦々津々とても同樣ながら、譬へば長崎は表門にて、蝦夷は裏門の姿なり、長崎には黑田鍋島のみならず、隣國も大名多ければ、自然の事有之ても、御手厚なれども、蝦夷の地は嚴寒麁土地なりとて、町人風の一小島南方に城郭を搆へたるのみなれば、北狄渡來るにおゐては、一戰もなく只渡し遣候樣可相成、昔はカンサツカ迄日本の地の由なりしが、今はラツコ島カラフト島の北邊は皆夷狄に被奪たりと聞、本文の如く東照宮御意にも異國亂るゝと聞ば、九州に能武將を撰び異國を押させよとの御事なり、此御遺圖を續せ給ひ、
新字:斉昭謹で按ずるに、土地とても異国より日本を窺ふの患あり、故本文のごとく武内大臣を筑紫差置れ、又、三代将軍家御代には異国船の沙汰も今の如くには無之に、大猷公黒田鍋島等へ被命、防禦永続被仰けるは、深遠に御仕置と奉感も、余り有る事也、扨、又、大猷公上意の趣、明は日本へ近き国なれば黒船よりも御心許なく被思召よし、慎ながら御尤至極なる御事也、然るに明国も其後北狄より攻めとられ、今清国と改めたれば、其土地は昔も今も日本へ近きは違ることなかれ、長崎の押は今以厳重に戒め給ふ事当然の事なれ共、蝦夷狄は至て北狄へ近く、且昔と違ひ北狄強大になりて、追ゝ蝦夷地を蠶食すれば、此儘差置れなば末終に大患となるべし、本朝は四面海なれば、何れの浦々津々とても同様ながら、譬へば長崎は表門にて、蝦夷は裏門の姿なり、長崎には黒田鍋島のみならず、隣国も大名多ければ、自然の事有之ても、御手厚なれども、蝦夷の地は厳寒麁土地なりとて、町人風の一小島南方に城郭を搆へたるのみなれば、北狄渡来るにおゐては、一戦もなく只渡し遣候様可相成、昔はカンサツカ迄日本の地の由なりしが、今はラツコ島カラフト島の北辺は皆夷狄に被奪たりと聞、本文の如く東照宮御意にも異国乱るゝと聞ば、九州に能武将を撰び異国を押させよとの御事なり、此御遺図を続せ給ひ、
書き下し
齊昭謹で按ずるに、土地とても異國より日本を窺ふの患あり、故本文のごとく武內大臣を筑紫差置れ、又、三代將軍家御代には異國船の沙汰も今の如くには無之に、大猷公黑田鍋島等へ被命、防禦永續被仰けるは、深遠に御仕置と奉感も、餘り有る事也、扨、又、大猷公上意の趣、明は日本へ近き國なれば黑船よりも御心許なく被思召よし、愼ながら御尤至極なる御事也、然るに明國も其後北狄より攻めとられ、今淸國と改めたれば、其土地は昔も今も日本へ近きは違ることなかれ、長崎の押は今以嚴重に戒め給ふ事當然の事なれ共、蝦夷狄は至て北狄へ近く、且昔と違ひ北狄強大になりて、追ゝ蝦夷地を蠶食すれば、此儘差置れなば末終に大患となるべし、本朝は四面海なれば、何れの浦々津々とても同樣ながら、譬へば長崎は表門にて、蝦夷は裏門の姿なり、長崎には黑田鍋島のみならず、隣國も大名多ければ、自然の事有之ても、御手厚なれども、蝦夷の地は嚴寒麁土地なりとて、町人風の一小島南方に城郭を搆へたるのみなれば、北狄渡來るにおゐては、一戰もなく只渡し遣候樣可相成、昔はカンサツカ迄日本の地の由なりしが、今はラツコ島カラフト島の北邊は皆夷狄に被奪たりと聞、本文の如く東照宮御意にも異國亂るゝと聞ば、九州に能武將を撰び異國を押させよとの御事なり、此御遺圖を續せ給ひ、
現代語訳
斉昭が謹んで考えますに、土地というものは異国から日本を窺う患いがあります。だから本文のように武内大臣を筑紫に置かれ、また三代将軍家の御代には異国船の沙汰も今のようにはなかったのに、大猷公が黒田・鍋島らに命じ、防御を永く続けるよう仰せられたのは、深遠な御仕置と感じ入ることは余りあります。さて、また大猷公の上意の趣は、明は日本に近い国なので黒船よりも気がかりにお思いになったということで、謹んでごもっとも至極のことです。ところが、明国もその後、北狄に攻め取られて今は清国と改まったので、その土地が昔も今も日本に近いことは違いません。長崎の押さえを今も厳重に戒められるのは当然のことですが、蝦夷は極めて北狄に近く、昔と違い北狄が強大になって、次々と蝦夷地を蚕食していますので、このままにしておけばついには大患となるでしょう。日本は四面が海なので、どの浦々津々も同様ですが、たとえば長崎が表門ならば蝦夷は裏門の姿です。長崎には黒田・鍋島のみならず、隣国にも大名が多いので、万一のことがあっても手厚いのですが、蝦夷の地は厳寒の粗い土地というので、町人風の一小島の南方に城郭を構えただけなので、北狄が渡来するときは、一戦もなくただ渡してしまうことになるでしょう。昔はカムチャツカまで日本の地であったとのことですが、今はラッコ島、樺太島の北辺はみな夷狄に奪われたと聞きます。本文のように、東照宮の御意にも、異国が乱れると聞けば九州に良い武将を選び、異国を押さえさせよとのことです。この御遺図を続けられ、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『呻吟語』外篇・聖賢・其の餘は明らかなる所有れば必ず昏き所有り堯・舜・周・孔の道は、九達の衢の如く、通ぜざる所無し。代明の日月の如く、照らさざる所無し。其の餘は明らかなる所有れば、必ず昏き所有り。夷・尹・柳下惠は清・任・和に昏く、佛氏は寂に昏く、老氏は裔に昏く、楊氏は義に昏く、墨氏は仁に昏く、管・商は法に昏し。其の心向かふ所有るなり。譬へば鵑鴿の南を知るがごとし。其の心厭ふ所有るなり。譬へば盍旦の夜を惡むがごとし。豈に純然として一家の人物と成らずや。競に是れ偏氣なり。
-
『呻吟語』内篇・存心・靜を主として動を慎む動く時は只だ發揮し盡くさざるを見る、那裡にか錯るを覺えん。故に君子は靜を主として動を慎む。靜を主とすれば、則ち動は靜の枝葉なり。動を慎めば、則ち動は靜の約束なり。又何の過ちかあらん。
-
『呻吟語』内篇・養生・魚は餌を見て鉤を見ず夫れ魚は餌を見て鉤を見ず、虎は羊を見て阱を見ず、猩猩は酒を見て人を見ず。見ざるに非ざるなり、美とする所に迷ひて顧みるに暇あらざるなり。此の心一たび冷ゆれば、則ち熱鬧の景入る能はず。一たび淡ければ、則ち豔冶の物動かす能はず。夫れ能く困窮・抑鬱・貧賤・坎坷の詳爲るを知らば、則ち與に道を言ふ可し。
-
説苑・雜言太公は田すれども種を償うに足らず、漁すれども網を償うに足らざれども、天下を治めては余りある智有り。文公は米を種え、曾子は羊を架し、孫叔敖は楚に相たりて、三年軛の衡の後に在るを知らず。大を務むる者は固より小を忘る。智伯の廚人は炙の●を亡いて之を知れるも、韓魏の反くを知らず。邯鄲・子陽の園人は桃を亡いて之を知れるも、其の亡ぶるをば知らざりき。小を務むる者は亦大を忘るるなり」と。
-
『韓非子』觀行第二十四古の人、目は自ら見るに短なり、故に鏡を以て面を觀、智は自ら知るに短なり、故に道を以て己を正す。
-
『智囊』得情・韓億韓億、洋州に知たり。大狡の李甲、財を以て郷里に豪たり。兄死し、其の兄の子を誣いて他姓と為し、里の嫗の貌の類せる者に賂いて、認めて己が子と為さしめ、又其の嫂を酔わせて之を嫁がせ、尽く其の貲を奪う。嫂・姪、州に訴うること、積むこと十余年、竟に未だ其の冤を白らかにする者有らず。公至り、又出でて訴う。公、前後の案牘を取りて之を視るに、皆未だ嘗て乳医を引きて験と為さず。一日、尽く其の党を召して庭下に至らしめ、乳医を出だして之に示せば、衆皆罪に服し、子母復た初めの如くに帰す。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る