明訓一班抄抄録 / 夷狄を近付べからざる事・蝦夷地の備えと平時の防備の必要性
大猷公以來長崎の方は黑田鍋島へ防禦の事永續被仰付たる上にも、事有候時は其節に臨み能武將を撰び被遣事見へたれども、裏門の蝦夷に於ては實に御手薄き事とて、非常の節良將を被遣迄持こたへ、何も安心守らざる事也、昔は蝦夷の北は無人なりしが、今は昔と違ひ、魯西亞も廣大に成り、且はカンサツカへも能湊出來、ラツコ島まで奪れたれば、昔の御見通しにては大に異なるべし、されば文化の明斷を繼給ひて、蝦夷の地は公邊にて處置し給ひて、蝦夷地中便宜の土地を撰びて本城を御出來、郡村迄も追ゝに御おき、何事も無之內に人數も繁衍すべきやう御仕向け、海岸平路の地へは出城にても所々へ出來、大筒人數共常ゝ夫ゝ備え給ひて、萬々一の時も此方より御人數出し給ふまでもなく、小事は防ぎ留べく、又大事に成候ても御人數着至迄の持こたへ位は成るべき也、北狄の模樣昔と違ひ强大に成りて、且又、蝦夷の離島も追ゝ奪れたる上は、大猷公にて、黑船よりも明は近きに寄て御油斷不相成との尊意を以考ふれば、今は明よりも魯西亞の方はるかに近ければ、長崎よりは蝦夷の方御油斷なりがたき事に思ひ侍るなり、上意に、異國みだると聞ば云々との御諚乍憚御尤至極の御事にて、異國亂るゝよし聞たらば嚴重御備被遊べきは勿論なり、扨又日本は海國故、いつ何時夷狄押寄來らんも難計ければ、常ゝ浦々津々油斷すべからざれども、別て北狄の戰爭無之靜謐の時も防禦の備へ怠るべからず、是昔と今と敵國の模樣替りたる故也、扨近來浦賀等の海岸夫ゝ御手厚に備へ給ひしが、愚考にては未御十分には不奉存を、何れよりの建呈にて二ヶ年も不立內に、
新字:大猷公以来長崎の方は黒田鍋島へ防禦の事永続被仰付たる上にも、事有候時は其節に臨み能武将を撰び被遣事見へたれども、裏門の蝦夷に於ては実に御手薄き事とて、非常の節良将を被遣迄持こたへ、何も安心守らざる事也、昔は蝦夷の北は無人なりしが、今は昔と違ひ、魯西亜も広大に成り、且はカンサツカへも能湊出来、ラツコ島まで奪れたれば、昔の御見通しにては大に異なるべし、されば文化の明断を継給ひて、蝦夷の地は公辺にて処置し給ひて、蝦夷地中便宜の土地を撰びて本城を御出来、郡村迄も追ゝに御おき、何事も無之内に人数も繁衍すべきやう御仕向け、海岸平路の地へは出城にても所々へ出来、大筒人数共常ゝ夫ゝ備え給ひて、万々一の時も此方より御人数出し給ふまでもなく、小事は防ぎ留べく、又大事に成候ても御人数着至迄の持こたへ位は成るべき也、北狄の模様昔と違ひ強大に成りて、且又、蝦夷の離島も追ゝ奪れたる上は、大猷公にて、黒船よりも明は近きに寄て御油断不相成との尊意を以考ふれば、今は明よりも魯西亜の方はるかに近ければ、長崎よりは蝦夷の方御油断なりがたき事に思ひ侍るなり、上意に、異国みだると聞ば云々との御諚乍憚御尤至極の御事にて、異国乱るゝよし聞たらば厳重御備被遊べきは勿論なり、扨又日本は海国故、いつ何時夷狄押寄来らんも難計ければ、常ゝ浦々津々油断すべからざれども、別て北狄の戦争無之静謐の時も防禦の備へ怠るべからず、是昔と今と敵国の模様替りたる故也、扨近来浦賀等の海岸夫ゝ御手厚に備へ給ひしが、愚考にては未御十分には不奉存を、何れよりの建呈にて二ヶ年も不立内に、
書き下し
大猷公以來長崎の方は黑田鍋島へ防禦の事永續被仰付たる上にも、事有候時は其節に臨み能武將を撰び被遣事見へたれども、裏門の蝦夷に於ては實に御手薄き事とて、非常の節良將を被遣迄持こたへ、何も安心守らざる事也、昔は蝦夷の北は無人なりしが、今は昔と違ひ、魯西亞も廣大に成り、且はカンサツカへも能湊出來、ラツコ島まで奪れたれば、昔の御見通しにては大に異なるべし、されば文化の明斷を繼給ひて、蝦夷の地は公邊にて處置し給ひて、蝦夷地中便宜の土地を撰びて本城を御出來、郡村迄も追ゝに御おき、何事も無之內に人數も繁衍すべきやう御仕向け、海岸平路の地へは出城にても所々へ出來、大筒人數共常ゝ夫ゝ備え給ひて、萬々一の時も此方より御人數出し給ふまでもなく、小事は防ぎ留べく、又大事に成候ても御人數着至迄の持こたへ位は成るべき也、北狄の模樣昔と違ひ强大に成りて、且又、蝦夷の離島も追ゝ奪れたる上は、大猷公にて、黑船よりも明は近きに寄て御油斷不相成との尊意を以考ふれば、今は明よりも魯西亞の方はるかに近ければ、長崎よりは蝦夷の方御油斷なりがたき事に思ひ侍るなり、上意に、異國みだると聞ば云々との御諚乍憚御尤至極の御事にて、異國亂るゝよし聞たらば嚴重御備被遊べきは勿論なり、扨又日本は海國故、いつ何時夷狄押寄來らんも難計ければ、常ゝ浦々津々油斷すべからざれども、別て北狄の戰爭無之靜謐の時も防禦の備へ怠るべからず、是昔と今と敵國の模樣替りたる故也、扨近來浦賀等の海岸夫ゝ御手厚に備へ給ひしが、愚考にては未御十分には不奉存を、何れよりの建呈にて二ヶ年も不立內に、
現代語訳
大猷公以来、長崎の方は黒田・鍋島に防御のことを永続して仰せつけられ、そのうえ事があれば、その時に臨んで良い武将を選んで遣わされるという取り決めは見えますが、裏門の蝦夷においては実に手薄で、非常の時に良将を遣わされるまで持ちこたえることは、どれも安心できないことです。昔は蝦夷の北は無人でしたが、今は昔と違い、ロシアも広大になり、またカムチャツカにも良い湊ができ、ラッコ島まで奪われたので、昔のお見通しとは大いに異なるでしょう。そうであれば、文化年間の明断を継がれて、蝦夷の地は公辺で処置されて、蝦夷地の中で便宜の良い土地を選んで本城を置かれ、郡村までも追々に置いて、何事もないうちに人数も繁栄するように仕向けられ、海岸の平路の地へは出城でも所々に作り、大筒や人数なども常々それぞれに備えられ、万が一の時もこちらから御人数を出されるまでもなく、小事は防ぎ止められ、また大事になっても御人数が到着するまでの持ちこたえくらいはできるでしょう。北狄の様子は昔と違い強大になって、また蝦夷の離島も追々奪われた以上は、大猷公が、黒船よりも明は近いために油断はならないというご尊意で考えれば、今は明よりもロシアのほうがはるかに近いので、長崎よりも蝦夷のほうが油断できないことと思います。上意に異国が乱れると聞けば云々と仰せになったことは、憚りながらごもっとも至極のことで、異国が乱れたと聞いたら厳重な御備えをなさるべきなのは言うまでもありません。さて、日本は海国なので、いつ何時夷狄が押し寄せるか計りがたく、常々浦々津々で油断してはいけませんが、とりわけ北狄が戦争のない静謐のときも防御の備えを怠ってはいけません。これは昔と今とで敵国の様子が変わったためです。さて、近ごろ浦賀などの海岸をそれぞれ手厚く備えられましたが、愚考では、まだ十分とは存じませんでしたが、どこからかの建言で二年も経たないうちに、
解説
この章句が説くこと
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・裏門の備えを手厚くすべきという斉昭の意見齊昭謹で按ずるに、土地とても異國より日本を窺ふの患あり、故本文のごとく武內大臣を筑紫差置れ、又、三代將軍家御代には異國船の沙汰も今の如くには無之に、大猷公黑田鍋島等へ被命、防禦永續被仰けるは、深遠に御仕置と奉感も、餘り有る事也、扨、又、大猷公上意の趣、明は日本へ近き國なれば黑船よりも御心許なく被思召よし、愼ながら御尤至極なる御事也、然るに明國も其後北狄より攻めとられ、今淸國と改めたれば、其土地は昔も今も日本へ近きは違ることなかれ、長崎の押は今以嚴重に戒め給ふ事當然の事なれ共、蝦夷狄は至て北狄へ近く、且昔と違ひ北狄強大になりて、追ゝ蝦夷地を蠶食すれば、此儘差置れなば末終に大患となるべし、本朝は四面海なれば、何れの浦々津々とても同樣ながら、譬へば長崎は表門にて、蝦夷は裏門の姿なり、長崎には黑田鍋島のみならず、隣國も大名多ければ、自然の事有之ても、御手厚なれども、蝦夷の地は嚴寒麁土地なりとて、町人風の一小島南方に城郭を搆へたるのみなれば、北狄渡來るにおゐては、一戰もなく只渡し遣候樣可相成、昔はカンサツカ迄日本の地の由なりしが、今はラツコ島カラフト島の北邊は皆夷狄に被奪たりと聞、本文の如く東照宮御意にも異國亂るゝと聞ば、九州に能武將を撰び異國を押させよとの御事なり、此御遺圖を續せ給ひ、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・災害と防備は平時の備えが決める又ゝ是を止め給ふ事、如何成御懷合かは知らざれ共、殘念至極なる御事也、たとへ蠻夷の船艦不渡來にもせよ、大城に近付海岸御備ゑ無と申は如何也、且出火と兵亂はいつ何時有候や、前日より分たる事計は有之間敷、何れもなき靜謐なる時に御備有りてこそ御用心とは申べけれ、前日より分りたる事ならば如何樣にも所置の術有べけれども、常ゝの備無之時は火急に臨て何程心のみ御爲を思ひたりともその甲斐有間敷、萬一出火あらば箇樣々々の張紙帳面等には一より十までさしつかへ無樣に掟を定め置給ひても、火急の場合に臨みぬれば掟通りには屆ざる故、大城御火災とても一夜に數百人死亡せしと、増て出火は折ゝ有候事にて、殊に時ゝ御世話もありて、人に心を用ゆる事にてさへ如此、況や其節に臨み水籠はしご等造らむには、不殘燒失ぬる迄も、階子等は出來がたかるべし、蠻夷の船浦賀にて何程に防たりとも、或は汐或は霧深く或は夜中抔順風にて乘込たらば、迚も浦賀の防禦計にては覺束なし、されば浦賀は勿論、先年追ゝ被仰付たりし御臺塲手厚く備ひ給ひて、其上にも濱御殿をはじめ、左右の大名屋敷々々へも夫ゝ臺塲被仰付、濱御殿へ大筒方に彼屋にても御設け、常ゝ守護被仰付、大小名御屋敷々々に臺塲を設け自分〱の筒指へはりしならば、萬々一不慮に異船來、浦賀等にて禦かね乘入せたりとも、御濱を初羽田其外左右の大小名にて打拂ひたらば、禽獸にひとしき夷人等に府下の地は踏せまじき也、たとへ異船來らざるにもせよ、常ゝ海上より見渡せる處の浦々嚴重に見ゆる時は、自御備の有無は夷人の膽にも響き、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・島々を奪われた場合の悪循環を想像する萬一佐渡隱岐對馬大島八丈松前蝦夷琉球は彼が手に入て津々浦々に寄來りなば、堅牢の船艦有りたりとも六ヶ敷可有之、況船艦なくしては如何にして是を取返し給ふべきや、海上より來れる異船を陸より防禦するさへ不容易に、ましてや彼島々を奪て、彼を陸より手薄く船にて攻入取返さん事甚難からずや、嚴命だにあらば武士の持前故如何樣の船にても出船はすべけれども惜き勇士を莫太死凶せしめむ事、御卓見無之事とて永世議し奉るべきのみならず、其後に至りては國なくては叶はぬ事とて、御船を初、いづれの國々にも出來ぬる勢、今より鏡を掛たるが如くなれば、一日も早く見拔給ん事至願に堪ざる也、其筋の職に廣く議し給ひ、自分〱只今蒙命、彼が奪ひし島々を取かえさん爲に出船するも、實意に考へ、其上にても堅牢の船不宜との事ならば、又右樣の節の良策をも難問し給ひ、衆評其儀尤と申事も候はゞ、右樣の節は箇樣ゝゝと定置給ひて、三家は勿論、大小名迄に其心得を知らせ給ふべし、又何れの道大小の艦船無之て不相成とのことならむには(掛りの御役人出時の舟にて大島なりとも又は我部河湊邊にて成りとも乘掛ておもひやるべし外海は壘の上の了簡とは又相違することなり)公邊にても御手繰次第多く製造し給ひ、海岸の大小名へも製造をゆるし給ふべき也、每度申事なれども、府下の人は諸國の米穀を賴みて命を續く事なる事前文のごとし、島々の中何れか異人出張をかまへ所々の海洋にて運送を妨げ、時々浦賀等へ帆影を見せ大筒にてもならしたらんには、府下の人民鼎沸し、米穀は不足、如何にも手を下しやうあるまじき也、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・制度の見直しと許容の限度を考える御深意有之儀とは恐察し侍れ共、貳百餘年の御恩澤にて、三家、御普代大名は勿論、外樣迄も異議有之間敷、たとへ萬々一心得違の者有たり共、此方大名の船位を御防ぎ不相成程にては、とても異船千萬艘押來りたるをば、如何にして防禦し給ふべきや、されば公邊は格別、三家共初は本船の分數を以定りて成りとも製造をゆるし給ひ、常ゝは其領主自分船の事故(三家は本船三十艘位其外大名右に順て夫ゝ御濟を可然、小舟之儀は數の定りなくて可然)公邊御船の外、御失費も無是、非常の節は大小名に命じ給はゞ、直に御用に立べき也、其上公邊にも大名にも戰艦なきは、双方有之も同樣にて、萬々一只今にも心得違の人有之浦賀より乘込むとする日に至ては、やはり是迄の船にても乘込べし、大名を御氣遣ひの爲海防迄麁にし、船の製造御免無之、遺憾といふべし、異國船の患薄き時は兎もあれ、近頃の勢にては右船の制度變通し給はずんばあるべからず、くれ〱も堅事は船双方に無之双方有之と同樣にて、大名へ掛念し給ふ所にも當らずして、唯異國船防禦御手薄にのみ當れるは國家の長策にあらず、何分にも明君の明斷を奉仰所也、扨又近頃紅毛本國より便船差こせしより、戰爭の仕組と見へざれば、定て難題申上たるべけれど、一切許容し給はざるにしかざるべし、先年打拂の御止め命令有し時、本異國渡來の患みへきよし乍不及建白せしが、如案日本國武勇衰へたるを見拔て來りし事と見へたり、(打拂止めてより漂流人お前にて受ず又浦賀にて受ず)たとへ此の度も來り種々願出るとも、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・情勢の近さを見て備えを決める今明も靜ならず候へば異國の押は仰付らるゝは尤至極に存られ候と申ければ、利勝申は、公方樣其通り聞召れ候故、異國の押を仰付られたるは、名譽不例の上樣にて、昔を今にくりかへし末をしらしめて思召るゝ上は、誠に明君にて候、今日異國より兵起り來るとも、黑田鍋島先達て戰ひ申さば、關の戶が越へ申間敷、定て此兩人衆油斷成間敷也、自然の事有て、御人數を西海へ遣さる共、此兩人萬事手遣手配等心掛の事なれば、俄に仰付られ遣さる御人數にても、掛引勝負人數立大形合點仕ることに候へば是又御爲也、何としても其役人なれば自餘の衆とは格別なりと申されければ、道春申は、誠に學の前に書成るにて候間、其段は大に違ひ申べしと申ければ、利勝申は、上樣に思召さるゝは、御制禁仰付らるゝ黑船よりも、明を心許なく思召さるゝは、明は日本へ近き國也、故に斯の如し、長崎津內に是ある唐船どもは、懷中の毒蛇と少も油斷は成まじき事と思召るゝ、に依て、石火矢數多御預り指置れしぞ、其上日本中の事はたとへ戰負ても其一家のおくれ也、異國の押の儀能すれば日本の譽なり、惡敷する時は日本の恥辱也、是によりて長崎御番人は勝れて大儀と上樣にも思召候、まことに明よりは日本を望みたる事度々なり、云々、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・船艦の制度を時勢に応じて変える必要嚴重の所へは先づは近づくまじき也、たとへば盜賊にても堅固なる處よりは入ざる道理なれば、大城に近き海岸はいづれも嚴重御備有りて可然事と存侍る也、凡夷狄を防禦するは大銃大船を第一とすべし、船艦の事は齊昭每度建白せしが、御法度に荷船の外大船無事に有候故製作不相成よし御沙汰ありけれども、公邊御船にては天地丸とか唱(御關船とも云)を第一の御大船とする由なれども、寬政年中(蝦夷騷動の時なり)故越中守老中の時御試として伊豆の邊まで遣されしに、引船三十艘計に引せ(櫓三十挺程打損じ)漸ふからき目をして往來せしよし、かゝる造作にては御用には迚も難叶ければ、(海船にて海乘すは御手入のみも無益の費なり)大小有、是の船艦兎角丈夫に出來、大銃を打ても敗れ沈む患なく、帆にて自由に取廻すべき樣に製造あらまほしき事也、たとへ所々運送はゆるし給はずとも、上の御船は浦賀より御川內をかぎり、海岸有之大名共は自分領分の海上にて漁獵等に事寄せ乘馴したらば、非常の備へにも成りぬべき事にて、是皆天下の御爲なり、(建政五丑三月の達しにて可恐)乍憚東照宮上意にも、指したるかはりもなきに本よりの法を替ることは不宜よしの御意にて考るに、敵國の模樣三代將軍家の御代とかはりたるにも御かまひなく、昔のまゝの御法を用ひ給はんより、敵の國の事情をも斟酌し給ひて、末長く天下を守るべき御事ならずや、執法の役々御法度を守るは其役目にて尤至極の事なれども、御舊法さへかへざれば戰爭に負ても宜敷といふ程は有間敷ければ、乍憚將軍家の御卓見にて變通の御決斷を希ふ所也、

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