明訓一班抄抄録 / 諫言を用べき事・鏡を投げ捨てた青山伯耆守
御傅靑山伯耆守忠俊、御前にて其頃躍を御慰故御たてを被遊御髮を上らるゝ時御鏡二つにて御粧を御繕被成ける所ゑ伯耆守參り忽ち御鏡を取て御庭へ投捨て天下を知し召御心にかやう成はての搔き事勿躰なし是亂の端なりと申されければ其無禮を御答め遊され御前遠慮被仰付候て其後諸臣の諫重り、御明君の御譽れありしに、伯耆守諫言尤至極に思召し、遠慮御赦免仰出され召させられ候へども、伯耆守御答に御前の思召さへ御直り遊されて、拙者申上候處を能とさへ思召は罷出るに不及、我等罷出れば却て御誤り改て御爲によからずとて、終に出ずして終りしなり、
新字:御傅青山伯耆守忠俊、御前にて其頃躍を御慰故御たてを被遊御髪を上らるゝ時御鏡二つにて御粧を御繕被成ける所ゑ伯耆守参り忽ち御鏡を取て御庭へ投捨て天下を知し召御心にかやう成はての搔き事勿体なし是乱の端なりと申されければ其無礼を御答め遊され御前遠慮被仰付候て其後諸臣の諫重り、御明君の御誉れありしに、伯耆守諫言尤至極に思召し、遠慮御赦免仰出され召させられ候へども、伯耆守御答に御前の思召さへ御直り遊されて、拙者申上候処を能とさへ思召は罷出るに不及、我等罷出れば却て御誤り改て御為によからずとて、終に出ずして終りしなり、
書き下し
御傅靑山伯耆守忠俊、御前にて其頃躍を御慰故御たてを被遊御髮を上らるゝ時御鏡二つにて御粧を御繕被成ける所ゑ伯耆守參り忽ち御鏡を取て御庭へ投捨て天下を知し召御心にかやう成はての搔き事勿躰なし是亂の端なりと申されければ其無禮を御答め遊され御前遠慮被仰付候て其後諸臣の諫重り、御明君の御譽れありしに、伯耆守諫言尤至極に思召し、遠慮御赦免仰出され召させられ候へども、伯耆守御答に御前の思召さへ御直り遊されて、拙者申上候處を能とさへ思召は罷出るに不及、我等罷出れば却て御誤り改て御爲によからずとて、終に出ずして終りしなり、
現代語訳
お守り役の青山伯耆守忠俊は、御前で、そのころ踊りをお楽しみのためにお勤めになろうとして、御髪を上げられるとき、御鏡を二つお使いになってお身づくろいをなさっているところへ参り、たちまち御鏡を取って御庭へ投げ捨て、「天下をお治めになる御心に、このようなお身づくろいにかかずらうのはもったいないことです。これは乱の端です」と申し上げました。その無礼をお咎めになり、御前遠慮(出仕停止)を仰せつけられました。その後、諸臣の諫めが重なって、御明君というご評判が立ちましたので、伯耆守の諫言をもっとも至極と思し召し、遠慮のお許しを仰せ出されて召し出させようとしましたが、伯耆守はお答えして、「御前の思し召しさえ直られて、私が申し上げたところを良いとさえ思し召すのであれば、罷り出るには及びません。私が罷り出れば、かえってお誤りを改められたことがお為によくありません」と言って、ついに出仕せずに終わりました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』桓公八年 速杞の戦い八年春、翼を滅ぼす。隨の少師寵有り。楚の鬬伯比曰く、「可なり。讎に釁(すき)有り、失ふべからず」と。夏、楚子諸侯を沈鹿に合す。黃・隨會せず。薳章をして黃を讓めしむ。楚子隨を伐ち、漢・淮の間に軍す。季梁之に下らんことを請ふ、「許さずして後に戰ふは、我を怒らせて寇を怠らしむる所以なり」と。少師隨侯に謂ひて曰く、「必ず速やかに戰へ。然らずんば、將に楚の師を失はんとす」と。隨侯之を禦ぐ。楚の師を望む。季梁曰く、「楚人は左を上ぶ。君必ず左にあり。王と遇ふこと無く、且く其の右を攻めよ。右に良無し、必ず敗れん。偏敗るれば、眾乃ち攜(はな)れん」と。少師曰く、「王に當たらずんば、敵に非ざるなり」と。從はず。速杞に戰ひ、隨の師敗績す。隨侯逸(のが)る。鬬丹其の戎車と其の戎右少師とを獲たり。秋、隨楚と平ぐ。楚子將に許さざらんとす。鬬伯比曰く、「天其の疾を去れり。隨未だ克つべからざるなり」と。乃ち盟ひて還る。冬、王虢仲に命じて晉の哀侯の弟緡を晉に立てしむ。祭公來たり、遂に王后を紀に逆ふ、禮なり。
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『甲陽軍鑑』品第六我れ十七歳より十九歳の六月願成就して其年の暮迄四国を順礼す、廿歳の夏伊予土佐讃岐三ヶ国の士卒と船軍有し時に、我旗下の船をもつて第一の先をかけ、敵を船中におさへ、自身長刀をもつて手下に十二三人きりふせて合戦にかつ、其後も三ケ国と数度及合戦一終に讃岐を手に入れ、伊予土佐をもと言ひしかど家老の者の諫言に、伊予土佐の者共長曽我部さいわうじ河野字都宮を始め、悉く安芸の元就の旗下に成たりと云ふ、
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『晏子春秋』雑下・景公祿晏子平陰與槁邑晏子願行三言以辭景公晏子に禄するに平陰と槁邑とを以てし、市に反る者十一社なり。晏子辞して曰く、「吾が君宮室を治むるを好み、民の力弊れたり。又盤遊玩好を好みて以て女子を飭り、民の財竭きたり。又師を興すを好み、民の死近し。其の力を弊らし、其の財を竭くし、其の死を近づく。下の其の上を疾むこと甚だし。此れ嬰の敢えて受けざる所以なり」と。公曰く、「是れ則ち可なり。然りと雖も、君子独り富と貴とを欲せざらんや」と。晏子曰く、「嬰聞く、人臣為る者は、君を先にして身を後にし、国を安んじて家を度り、君を宗として身を処くと。曷為れぞ独り富と貴とを欲せざらん」と。公曰く、「然らば則ち曷を以て夫子に禄せん」と。晏子対えて曰く、「君、漁塩を商し、関市は譏して征せず、耕す者は十に一を取り、刑罰を弛め、死に若たる者は刑し、刑に若たる者は罰し、罰に若たる者は免ぜよ。此の三言の若きは、嬰の禄にして、君の利なり」と。公曰く、「此の三言は、寡人事とする無し。請う、以て夫子に従わん」と。公既に若の三言を行い、人をして大国に問わしむ。大国の君曰く、「斉安し」と。人をして小国に問わしむ。小国の君曰く、「斉我に加えず」と。
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『春秋左氏伝』隠公五年 公、魚を棠に観る五年春、公將に棠に如きて魚する者を觀んとす。臧僖伯諫めて曰く、「凡そ物の以って大事を講ずるに足らず、其の材の以って器用に備ふるに足らざれば、則ち君舉げず。君は、將に民を軌・物に納れんとする者なり。故に事を講じて以って軌量を度る、之を『軌』と謂ふ。材を取りて以って物采を章らかにする、之を『物』と謂ふ。軌ならず物ならざる、之を亂政と謂ふ。亂政亟々行はるるは、敗るる所以なり。故に春蒐・夏苗・秋獮・冬狩、皆農隙に於いて以って事を講ずるなり。三年にして兵を治め、入りて旅を振ひ、歸りて飲至し、以って軍實を數ふ。文章を昭らかにし、貴賤を明らかにし、等列を辨じ、少長を順にし、威儀を習ふなり。鳥獸の肉俎に登らず、皮革齒牙・骨角毛羽器に登らざれば、則ち公射ず、古の制なり。夫の山林川澤の實、器用の資、皁隸の事、官司の守の若きは、君の及ぶ所に非ざるなり」と。公曰く、「吾將に地を略せんとす」と。遂に往き、魚を陳ねて之を觀る。僖伯疾と稱して從はず。書して「公魚を棠に矢ぬ」と曰ふは、禮に非ざればなり、且つ地の遠きを言ふなり。曲沃の莊伯鄭人・邢人を以って翼を伐つ。王尹氏・武氏をして之を助けしむ。翼侯隨に奔る。夏、衛の桓公を葬る。衛亂る、是を以って緩し。
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『慎思録』巻之四堯舜湯武の天下に王たるや、其の政治豈に過失有らんや。然れども堯に敢諫の鼓有り、舜に誹謗の木有り、湯に司過の士有り、武王に戒慎の鞀有り。猶ほ自ら其の過ちを知ること能はざらんことを恐る。且つ其の臣に禹稷契皐陶伊尹萊朱周公太公望散宜生の諸聖賢有りて、輔相無しと為さず。然れども其の広く其の過ちを聞知せんと欲すること此の如し。今の学者の如きも、亦た当に博く聞き広く覧ることを要すべし。己の見を主として、其の聡明を掩蔽すべからず。
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『不動智神妙録』諫言 其二 好む所の病然れば幾千人ありとても、自然の時、主人の用に立つ物は一人も不可有之、彼の一旦気に入りたる無智若輩の悪人は、元より心正しからざる者故、事に臨んて一命を捨てんと思ふ事、努々不可有、心正しからさるものゝ主の用に立ちたる事は、往昔より不承及ところなり、貴殿の弟子を御取立て被成にも、箇様の事有之由、苦々敷存候、是れ皆一片の数奇好む所より其病にひかれ、悪に落入るを知らざるなり、人は知らぬと思へども微より明かなるなしとて、我心に知れは、天地鬼神万民も知るなり、如是して国を保つ、誠に危き事にあらずや、然らば大不忠なりとこそ存候へ、

人生を、一行の式にしてみた。
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