明訓一班抄抄録 / 奢侈を禁ずべき事・家康の麦飯と衣類への戒め
云々、東照宮三河におゐて每歲夏中御麥飯なり、御近侍の人潛に白米の御飯を御椀の底に入上に麥飯少許おほふて出しければ、御覽有て、汝等我心をさとらず、我はおしむとおもへるか、今戰國の時にて兵杖勤かぬ年なし、士卒煩擾にして寢食を安ぜず、我獨なんぞ飽食に忍んや、且我一身の奉節を儉約にして軍用に給はせんとす、百姓を勞して自分ゆたかなる事をせずと仰られければ、聞者皆悅服せり、薩摩守忠吉十五歲初陣の時、純子のごとく綾紋ある唐機に、背に壹尺四方銀金絲にて圓を縫、內に同絲にて孔雀に縫たり、東照宮其奢を戒給ふにより、家老小笠原和泉守自分の陣羽織高宮にて作りしを忠吉へ着せ參らせ、孔雀の陣羽織は和泉守に給り、今小笠原三郞左衞門調子が家に在りと、云々、東照宮駿府に御在城之節御膳之御給仕に御小性罷在候處、其者着し袴を御覽被遊夫は何と申物ぞと御尋被遊候得ば、彼者茶宇と申物のよし申上候得ば、おのれにくきやつかな、天下久敷亂に及び漸此頃少靜に成萬民も安き樣に見へし處、我等も不知程の衣類を着したること、天下の奢を始、亂のはしを發す、不屆者なり、御前を退候得と、以の外御機嫌損じ、夕御膳を不被召上候故、御近臣ども種々に御機嫌を取、漸夜に入御膳をすゝめたるとぞ、御遺戒に、大小名は不及申、平日奢停止分限相應は勿論、直參陪臣に至り、高知の面々とても、知行の時一分は軍役、一分は領分救米除置、常々儉約を不忘所帶續くべき事、國郡在々常に分限を見定め可置、凶年飢饉の節救民の施行見遁すべからざる事、直參たりと言共、百石以下の士着用結衣不可用、公私兩樣木綿にて可相濟事、東照宮御鷹野に被爲成刻御泊り掛と申は格別にて、御日歸り御鷹野の節御辨當被仰出は稀のことにて、大方は御燒飯を御持せ被遊、野にても二度三度も被召上、其儘にて御歸被遊候、
新字:云々、東照宮三河におゐて毎歳夏中御麦飯なり、御近侍の人潜に白米の御飯を御椀の底に入上に麦飯少許おほふて出しければ、御覧有て、汝等我心をさとらず、我はおしむとおもへるか、今戦国の時にて兵杖勤かぬ年なし、士卒煩擾にして寝食を安ぜず、我独なんぞ飽食に忍んや、且我一身の奉節を倹約にして軍用に給はせんとす、百姓を労して自分ゆたかなる事をせずと仰られければ、聞者皆悦服せり、薩摩守忠吉十五歳初陣の時、純子のごとく綾紋ある唐機に、背に壱尺四方銀金糸にて円を縫、内に同糸にて孔雀に縫たり、東照宮其奢を戒給ふにより、家老小笠原和泉守自分の陣羽織高宮にて作りしを忠吉へ着せ参らせ、孔雀の陣羽織は和泉守に給り、今小笠原三郎左衛門調子が家に在りと、云々、東照宮駿府に御在城之節御膳之御給仕に御小性罷在候処、其者着し袴を御覧被遊夫は何と申物ぞと御尋被遊候得ば、彼者茶宇と申物のよし申上候得ば、おのれにくきやつかな、天下久敷乱に及び漸此頃少静に成万民も安き様に見へし処、我等も不知程の衣類を着したること、天下の奢を始、乱のはしを発す、不届者なり、御前を退候得と、以の外御機嫌損じ、夕御膳を不被召上候故、御近臣ども種々に御機嫌を取、漸夜に入御膳をすゝめたるとぞ、御遺戒に、大小名は不及申、平日奢停止分限相応は勿論、直参陪臣に至り、高知の面々とても、知行の時一分は軍役、一分は領分救米除置、常々倹約を不忘所帯続くべき事、国郡在々常に分限を見定め可置、凶年飢饉の節救民の施行見遁すべからざる事、直参たりと言共、百石以下の士着用結衣不可用、公私両様木綿にて可相済事、東照宮御鷹野に被為成刻御泊り掛と申は格別にて、御日帰り御鷹野の節御弁当被仰出は稀のことにて、大方は御焼飯を御持せ被遊、野にても二度三度も被召上、其儘にて御帰被遊候、
書き下し
云々、東照宮三河におゐて每歲夏中御麥飯なり、御近侍の人潛に白米の御飯を御椀の底に入上に麥飯少許おほふて出しければ、御覽有て、汝等我心をさとらず、我はおしむとおもへるか、今戰國の時にて兵杖勤かぬ年なし、士卒煩擾にして寢食を安ぜず、我獨なんぞ飽食に忍んや、且我一身の奉節を儉約にして軍用に給はせんとす、百姓を勞して自分ゆたかなる事をせずと仰られければ、聞者皆悅服せり、薩摩守忠吉十五歲初陣の時、純子のごとく綾紋ある唐機に、背に壹尺四方銀金絲にて圓を縫、內に同絲にて孔雀に縫たり、東照宮其奢を戒給ふにより、家老小笠原和泉守自分の陣羽織高宮にて作りしを忠吉へ着せ參らせ、孔雀の陣羽織は和泉守に給り、今小笠原三郞左衞門調子が家に在りと、云々、東照宮駿府に御在城之節御膳之御給仕に御小性罷在候處、其者着し袴を御覽被遊夫は何と申物ぞと御尋被遊候得ば、彼者茶宇と申物のよし申上候得ば、おのれにくきやつかな、天下久敷亂に及び漸此頃少靜に成萬民も安き樣に見へし處、我等も不知程の衣類を着したること、天下の奢を始、亂のはしを發す、不屆者なり、御前を退候得と、以の外御機嫌損じ、夕御膳を不被召上候故、御近臣ども種々に御機嫌を取、漸夜に入御膳をすゝめたるとぞ、御遺戒に、大小名は不及申、平日奢停止分限相應は勿論、直參陪臣に至り、高知の面々とても、知行の時一分は軍役、一分は領分救米除置、常々儉約を不忘所帶續くべき事、國郡在々常に分限を見定め可置、凶年飢饉の節救民の施行見遁すべからざる事、直參たりと言共、百石以下の士着用結衣不可用、公私兩樣木綿にて可相濟事、東照宮御鷹野に被爲成刻御泊り掛と申は格別にて、御日歸り御鷹野の節御辨當被仰出は稀のことにて、大方は御燒飯を御持せ被遊、野にても二度三度も被召上、其儘にて御歸被遊候、
現代語訳
云々、東照宮(家康)は三河において、毎年夏のあいだは麦飯を召し上がっていました。近侍の人がひそかに白米の飯を椀の底に入れ、上に麦飯を少しかぶせて出したところ、ご覧になって、「お前たちは私の心を悟らない。私が惜しんでいると思うのか。今は戦国の時で、兵杖(武器)を動かさない年はない。士卒は騒がしく労し、寝食も安らかでない。私ひとりがどうして飽食に耐えられようか。そのうえ、わが一身の費えを倹約して軍用に給しようと思う。百姓を労して自分だけ豊かなことはしない」と仰せられたので、聞く者は皆喜んで従いました。薩摩守忠吉が十五歳で初陣の際、純子のように綾の紋がある唐の織物に、背に一尺四方の円を金銀の糸で縫い、その内に同じ糸で孔雀を縫ったものを着ました。東照宮がその奢りを戒められたので、家老の小笠原和泉守が、自分の陣羽織で高宮(布)で作ったものを忠吉に着せ、孔雀の陣羽織は和泉守が賜り、今は小笠原三郎左衛門調子の家にあるとのことです、云々。東照宮が駿府にご在城のとき、お膳のお給仕に小姓がいましたが、その者が着た袴をご覧になり、「それは何という物か」とお尋ねになりました。その者が茶宇という物だと申し上げたところ、「憎いやつだ。天下が久しく乱れ、ようやくこのごろ少し静まって万民も安らかに見えるのに、わが知らぬほどの衣類を着るとは、天下の奢りの始め、乱の端を開くものだ。不届き者だ。御前を退け」と、以ての外ご機嫌を損ね、夕のお膳を召し上がらなかったので、御近臣どもが種々にご機嫌を取り、ようやく夜に入ってお膳をおすすめしたそうです。御遺戒には、大小名は言うに及ばず、平日の奢りは禁止、分限相応は言うまでもなく、直参・陪臣に至るまで、高知(高い知行)の面々でも、知行のうち一分は軍役、一分は領分の救い米として除いておき、常々倹約を忘れず所帯が続くようにすべきこと。国郡在々で常に分限を見定めておき、凶年飢饉の節には救民の施しを見逃してはならないこと。直参といえども、百石以下の士は結衣を用いてはならず、公私ともに木綿で済ませるべきこと、とありました。東照宮が鷹野にお出かけになる際、お泊まりがけは格別として、日帰りの鷹野でお弁当を仰せ出されるのは稀で、大方は焼飯を持たせ、野でも二度三度召し上がり、そのままお帰りになりました。
解説
この章句が説くこと
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