明訓一班抄抄録 / 奢侈を禁ずべき事・鷹野の焼飯と廟所の質素
或時鶴鷹に被爲成候所々にて晝より前殊の外なる御物數故御悅被遊、御鷹犬共を引可參旨被仰付、御自身燒食を御出し被遊不殘犬共に御くわせ被遊、其後も御鷹御遣ひ被遊何ぞ可被召上との仰に候へ共、御辨當の燒飯は犬どもに御くわせ被遊殘り不申候に付、御小性衆其段被申上候得ば、百姓共の家に芋のなき事は有まじきとの仰に候得共、時分柄にて里芋無之と被申上候得者、山の芋にてもくれよと被仰候に付、つく芋を掘出し水煮にして差上候得者、是々との御意にて、鹽を御付被遊召上られ候て、御歸り被遊候也、東照宮大坂度々御陣に御臺所用意被仰付候に、膳米五斗干鯛一枚味噌鰹節少なにて事足べし、味噌も多くは持すなと上意有之由、箇樣になけれは武備は曾て以てはかり難き事なるべし、東照宮御代之儀は不及申、台德公御代之頃迄は世上に萬事手輕の義共に有し、秀忠樣御代松平新太郞殿江戶え下り初めて御目見被申上候節、御勝手にて御料理を被下候節、一座之衆十三人有、上座は織田常眞、其次之座大炊頭差圖にて新太郞着座被致候となり、御料理蕪汁、おろし大根のなます、あらめの煮物、干魚の燒物にて有之候と也、云々、東照宮駿河にて御不例之節板倉內膳正え御跡之儀被仰置しは我等廟所を將軍より被申付候に於ては始祖の廟なればその儀を以て作事等結構に可申付候得共夫は無用の事に候、我等子孫に至り代々共に始祖の廟に增らぬ樣にぞ、勘辨ある爲にも可有之間、其心得を以て輕き宮殿に被致置候樣にとの御意に付、御他界之後江戶にて內膳正其段將軍樣え被申上候處に御尤と仰に候へども、餘り輕き宮殿とあるはいかゞなれば大躰結構なる御宮居と相見候如く御普請掛りの者え申談候樣にと被仰出候て御宮出來候也、其後寬永三年御父子樣共御上洛の御留主に御臺樣御煩被爲付候時京都へ相聞候に付、駿河大納言樣御酒病之爲御暇にて御下向の處に、九月十五日薨去被遊候に付、
新字:或時鶴鷹に被為成候所々にて昼より前殊の外なる御物数故御悦被遊、御鷹犬共を引可参旨被仰付、御自身焼食を御出し被遊不残犬共に御くわせ被遊、其後も御鷹御遣ひ被遊何ぞ可被召上との仰に候へ共、御弁当の焼飯は犬どもに御くわせ被遊残り不申候に付、御小性衆其段被申上候得ば、百姓共の家に芋のなき事は有まじきとの仰に候得共、時分柄にて里芋無之と被申上候得者、山の芋にてもくれよと被仰候に付、つく芋を掘出し水煮にして差上候得者、是々との御意にて、塩を御付被遊召上られ候て、御帰り被遊候也、東照宮大坂度々御陣に御台所用意被仰付候に、膳米五斗干鯛一枚味噌鰹節少なにて事足べし、味噌も多くは持すなと上意有之由、箇様になけれは武備は曽て以てはかり難き事なるべし、東照宮御代之儀は不及申、台徳公御代之頃迄は世上に万事手軽の義共に有し、秀忠様御代松平新太郎殿江戸え下り初めて御目見被申上候節、御勝手にて御料理を被下候節、一座之衆十三人有、上座は織田常真、其次之座大炊頭差図にて新太郎着座被致候となり、御料理蕪汁、おろし大根のなます、あらめの煮物、干魚の焼物にて有之候と也、云々、東照宮駿河にて御不例之節板倉内膳正え御跡之儀被仰置しは我等廟所を将軍より被申付候に於ては始祖の廟なればその儀を以て作事等結構に可申付候得共夫は無用の事に候、我等子孫に至り代々共に始祖の廟に增らぬ様にぞ、勘弁ある為にも可有之間、其心得を以て軽き宮殿に被致置候様にとの御意に付、御他界之後江戸にて内膳正其段将軍様え被申上候処に御尤と仰に候へども、余り軽き宮殿とあるはいかゞなれば大体結構なる御宮居と相見候如く御普請掛りの者え申談候様にと被仰出候て御宮出来候也、其後寛永三年御父子様共御上洛の御留主に御台様御煩被為付候時京都へ相聞候に付、駿河大納言様御酒病之為御暇にて御下向の処に、九月十五日薨去被遊候に付、
書き下し
或時鶴鷹に被爲成候所々にて晝より前殊の外なる御物數故御悅被遊、御鷹犬共を引可參旨被仰付、御自身燒食を御出し被遊不殘犬共に御くわせ被遊、其後も御鷹御遣ひ被遊何ぞ可被召上との仰に候へ共、御辨當の燒飯は犬どもに御くわせ被遊殘り不申候に付、御小性衆其段被申上候得ば、百姓共の家に芋のなき事は有まじきとの仰に候得共、時分柄にて里芋無之と被申上候得者、山の芋にてもくれよと被仰候に付、つく芋を掘出し水煮にして差上候得者、是々との御意にて、鹽を御付被遊召上られ候て、御歸り被遊候也、東照宮大坂度々御陣に御臺所用意被仰付候に、膳米五斗干鯛一枚味噌鰹節少なにて事足べし、味噌も多くは持すなと上意有之由、箇樣になけれは武備は曾て以てはかり難き事なるべし、東照宮御代之儀は不及申、台德公御代之頃迄は世上に萬事手輕の義共に有し、秀忠樣御代松平新太郞殿江戶え下り初めて御目見被申上候節、御勝手にて御料理を被下候節、一座之衆十三人有、上座は織田常眞、其次之座大炊頭差圖にて新太郞着座被致候となり、御料理蕪汁、おろし大根のなます、あらめの煮物、干魚の燒物にて有之候と也、云々、東照宮駿河にて御不例之節板倉內膳正え御跡之儀被仰置しは我等廟所を將軍より被申付候に於ては始祖の廟なればその儀を以て作事等結構に可申付候得共夫は無用の事に候、我等子孫に至り代々共に始祖の廟に增らぬ樣にぞ、勘辨ある爲にも可有之間、其心得を以て輕き宮殿に被致置候樣にとの御意に付、御他界之後江戶にて內膳正其段將軍樣え被申上候處に御尤と仰に候へども、餘り輕き宮殿とあるはいかゞなれば大躰結構なる御宮居と相見候如く御普請掛りの者え申談候樣にと被仰出候て御宮出來候也、其後寬永三年御父子樣共御上洛の御留主に御臺樣御煩被爲付候時京都へ相聞候に付、駿河大納言樣御酒病之爲御暇にて御下向の處に、九月十五日薨去被遊候に付、
現代語訳
あるとき、鶴や鷹をお使いになる鷹野で、昼前に殊の外獲物が多く、ご機嫌よくお喜びになり、御鷹や犬どもを引き寄せよと仰せつけられ、ご自身の焼飯をお出しになって残らず犬どもに食べさせました。その後も鷹をお使いになり、何か召し上がりたいと仰せられましたが、お弁当の焼飯は犬どもに食べさせて残っていなかったので、小姓衆がその旨を申し上げると、「百姓どもの家に芋がないことはあるまい」と仰せられました。時分柄で里芋はないと申し上げると、「山の芋でもよいからくれ」と仰せられたので、つくね芋を掘り出し水煮にして差し上げると、これでよいとのお言葉で、塩をつけて召し上がり、お帰りになりました。東照宮が大坂の度々の御陣で、台所の用意を仰せつけられるにあたり、「膳米は五斗、干鯛は一枚、味噌・鰹節は少しで事足りる。味噌も多くは持つな」との上意があったとのことです。このようでなければ、武備ははかり難いことでしょう。東照宮の御代は言うまでもなく、台徳公(秀忠)の御代のころまでは、世の中は万事手軽でした。秀忠公の御代、松平新太郎殿が江戸へ下り初めてお目見えを申し上げたとき、お勝手で料理を賜りましたが、一座の衆は十三人で、上座は織田常真、その次の座は大炊頭(土井利勝)の指図で新太郎が着座したということです。料理は蕪汁、おろし大根のなます、あらめの煮物、干魚の焼物であったとのことです、云々。東照宮が駿河で御不例のとき、板倉内膳正に御跡のことを仰せおかれたのは、「私の廟所を将軍が申しつけるなら、始祖の廟であるので、その意で普請などを結構に申しつけようが、それは無用のことだ。私の子孫に至るまで、代々始祖の廟にまさらないようにせよ。分別のためにもなるだろうから、その心得で軽い宮殿にしておくように」とのご意でした。御他界の後、江戸で内膳正がその旨を将軍様へ申し上げたところ、「もっともだ」と仰せられましたが、「あまり軽い宮殿というのもいかがなものか。ほどよく結構なお宮居と見えるよう、普請掛りの者へ申し談じよ」と仰せ出されて、お宮ができたとのことです。その後、寛永三年に御父子とも上洛された留守に、御台様がご病気になられ、京都へも聞こえたので、駿河大納言様が御酒病のためお暇をいただきご下向されたところ、九月十五日に薨去されましたので、
解説
この章句が説くこと
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『明訓一班抄抄録』・奢侈を禁ずべき事・家康の麦飯と衣類への戒め云々、東照宮三河におゐて每歲夏中御麥飯なり、御近侍の人潛に白米の御飯を御椀の底に入上に麥飯少許おほふて出しければ、御覽有て、汝等我心をさとらず、我はおしむとおもへるか、今戰國の時にて兵杖勤かぬ年なし、士卒煩擾にして寢食を安ぜず、我獨なんぞ飽食に忍んや、且我一身の奉節を儉約にして軍用に給はせんとす、百姓を勞して自分ゆたかなる事をせずと仰られければ、聞者皆悅服せり、薩摩守忠吉十五歲初陣の時、純子のごとく綾紋ある唐機に、背に壹尺四方銀金絲にて圓を縫、內に同絲にて孔雀に縫たり、東照宮其奢を戒給ふにより、家老小笠原和泉守自分の陣羽織高宮にて作りしを忠吉へ着せ參らせ、孔雀の陣羽織は和泉守に給り、今小笠原三郞左衞門調子が家に在りと、云々、東照宮駿府に御在城之節御膳之御給仕に御小性罷在候處、其者着し袴を御覽被遊夫は何と申物ぞと御尋被遊候得ば、彼者茶宇と申物のよし申上候得ば、おのれにくきやつかな、天下久敷亂に及び漸此頃少靜に成萬民も安き樣に見へし處、我等も不知程の衣類を着したること、天下の奢を始、亂のはしを發す、不屆者なり、御前を退候得と、以の外御機嫌損じ、夕御膳を不被召上候故、御近臣ども種々に御機嫌を取、漸夜に入御膳をすゝめたるとぞ、御遺戒に、大小名は不及申、平日奢停止分限相應は勿論、直參陪臣に至り、高知の面々とても、知行の時一分は軍役、一分は領分救米除置、常々儉約を不忘所帶續くべき事、國郡在々常に分限を見定め可置、凶年飢饉の節救民の施行見遁すべからざる事、直參たりと言共、百石以下の士着用結衣不可用、公私兩樣木綿にて可相濟事、東照宮御鷹野に被爲成刻御泊り掛と申は格別にて、御日歸り御鷹野の節御辨當被仰出は稀のことにて、大方は御燒飯を御持せ被遊、野にても二度三度も被召上、其儘にて御歸被遊候、
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『明訓一班抄抄録』・奢侈を禁ずべき事・家康の辞退と吉宗の倹約其上今更大相國の宣旨病中と云御請すべき樣なし、草創の前年より奢を自封し質素を旨とする也、勿躰なし〱との上意を伺ひて上野介が方より思召を密に申傳へしかば、諸大名奉感て拜賀の獻上等も相止みおもひ〱に退出しけり、希代之御辭退、是皆御子孫長久且又侯伯の輩に驕奢を御戒なさるべき思召とは相知れり、有德公御代御儉約に付、諸太夫の御役人平士は白小袖着用に不及、縞小袖に上下着用之儀御用捨被仰出、是に依て白小袖を着用すべき格の人も色替り襟袖口抔を着し、上着縞小袖にて、上下紋付に不戾子裏付肩衣次上下にして平日着せしかば、不勝手の人には大に助になりしとかや、其後三ヶ年の間嚴敷儉約を被仰出故、諸士儉約を用ひ木綿の羽織は着せし、云々、常憲公(佛法を信じ給ひ護持の僧を愛し給ふ、)文照公(學者新井筑後守を信じ給ふ、)御雨代花美を好み給ふ所に、有德公御代其害をしろし召れ歎かせ給ひ、只今にも非常の變あらば何を以て萬民を救はせ給ふべきと、色々御工風被遊萬事奢侈を止させ給ふ、御儉約を專一と被遊し故、御先代の風儀と急に違ひし故、萬民行儀正敷御風儀を窮屈と思ふよりして御儉約の御政事をあしざまに取沙汰し、公をそしる人多かりき、其事を聞し召て上意に、我世の中の事を思へばこそ千辛萬苦するに、却て民のそしりを得るこそ苦しけれとて、御詠被遊、世の中を安からせんは身賤し賤しからんとせんは苦しき有德公兼て未來事を仰出されけるは、凡天子は七廟、諸侯は五廟、太夫三廟と、禮記に有之、已に上野芝の廟所東照宮台德公大猷公嚴有公常憲公文照公有章公七廟有之、天子の如く、是武家の法に過て聖人の心に不叶、さればとて有來の廟をこぼち仕らん樣なし、只當時日本の禮花美に成て禮の誠に不叶なり、今にも死するならば東叡山の常憲公御相殿に仕べし、享保御代初に上意遊されし也、
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『明訓一班抄抄録』・奢侈を禁ずべき事・家康の辞退と廟所の造営增上寺におゐて御法事等之儀も駿河殿御差圖被成候由、御父子樣共還御被遊候、御廟所御靈屋等御造營之儀共駿河殿御普請掛りと被成候に付、思召儘の結構に御普請被成候となり、同九年正月廿四日台德院殿御他界之節御靈屋御造營之儀崇源院樣御靈屋より見增候樣仕立可申旨上意に付、只今の如く御佛殿出來候となり、此御佛殿と見合候得ば日光山に御立被遊候東照宮御社は殊の外手淺に相見候に付、惣奉行之儀は秋元但馬守へ被仰付候刻、御宮御修復候付て御入用御厭ひ無之間隨分之手を込、台德院樣御靈屋に見增候樣にと被仰付候に付、右御修復御入用七拾萬兩餘の由、右之次第に有之候得共、御代々御魂舍の莊嚴は其始駿河大納言殿の物數寄より起りたるよし也、元和二年三月十七日京都より臨時之爲、勅使廣橋大納言兼勝卿、三條大納言實條卿、參向之仔細は前將軍太政大臣之極官可被任との宣旨を相述、大御所御對席有し、御辭退の御心入と相見へ拜伏し、御式臺嚴重にして御請被聞、尤當日は別て御機嫌相勝れ不給故かと各察しける、參府之大小名各惣出仕有、極官拜賀の御詮儀如何と、本多上野介に伺といへども、侯伯への御對顏もなし、勅使退席後御寢所に被爲入、御沙汰不被仰出、只御饗應疎略ならざる樣にと御下知有計故、上野介罷出誠に御當家の御名譽是に不過と奉悅ける、公御息を繼給ひ無勿體、此度蒙勅使を冥加之程も恐惶あり、抑武家太政大臣の拜賀は北山鹿園院義滿計大臣として拜任有し事は平淸盛前證をおしての事と聞給ふ、是義滿之疎略也、淸盛相國たるは後白河院の落胤に紛れなき故也、官に文武の差別有、文官は相國を限とし武官は近衞左右之大將を先達とせり、太閤秀吉愚昧にして我儘に慕り、押て關白の職に補せられし事前代未聞なり、武家に三公九卿の拜任有事、皇境の御威光是より衰漸するに非や、家康江府之將軍さへ憚あれ共叙慮默止しがたし、
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『明訓一班抄抄録』・奢侈を禁ずべき事・家康の倹約と奢りへの戒め東照宮上意に、奢心なく物事儉約を用ひ、常に其程を能知るを、政道正しきと言なれば、下々は過分に知行其外給ひもの其程に施しあたふれば、奢者に引當て吝嗇の取沙汰致し候、古より賢者賢臣の過分に給り物萬事花麗の行はなく、身を愼み儉約を用ひし事に候、同上意に、我領分は勿論、其外天下せし以後、公料成し民百姓にても、我子孫萬代も願ふ由聞へあり、是三河以來の舊封にて年貢取箇の方諸家よりは少分に取候へと申付る故也、此時法を子孫迄第一に守るべき事なれども、太平打續上奢り下へつらひ國用乏しき風に至り、勘定奉行抔言者代官をせたげ、取箇にてすくなき時は不平の顏色をもて不勤などゝいはん、代官共も當時のなり合能樣に跡の事には構はず、法外に年貢取箇をまし百姓を困窮させ上をうとませ候樣致すべし、左樣の不了簡成勘定奉行を御爲などゝ言立、年寄共はじめ側近く勤むる者共立身を取持加增をも遣す樣に成などは、國家の衰微と知るべし、我百年の後にも天下兵軍起らん事は有べからず、只百姓の心はなれ上の冥加氣運も薄くならん事歎かはしき事也、箇樣の事中君より以下は執政の者も志し次第なり、水よく船を浮べ、水能船をくつがへす、たゞ此事を能く心得られよと、秀忠公え每度御敎訓なり、同上意に、人にも身にも去るべき物は奢りぞ、云々、同上意に、武道不案內成家は、諸士の風俗柔弱非義になりて武勇なければ、一戰に打負る時は罪なき嬰兒迄も一時に亡びぬるは古今ためし多し、武家に生れては武道に愚なるは鼠とらぬ猫の如し、公家と武家との替りは、譬へば金ならば、公家は金銀のごとし、武家は鐵に同じ、然るに人民金銀を好み、鐵の大寶なる事を知らず、鐵は寶器の本也、五穀を作り竹木を切とも朝夕の食を調へ尤天下國家の亂を拂ひ太平を致す事鐵の用多し、誠に大寶の長たるもの也、爰を不見付、
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『明訓一班抄抄録』・治に亂を忘るべからざる事・太平に奢る風潮を戒めた吉宗の鷹狩り有德公には、近代彌太平の御世、御仁慮に安心して、諸家武備に怠り、無益の送り物に金銀を費し、衣食居宅に美を盡し、武器を等閑にして、先祖の功を忘れ、奢に費す事、禽獸にひとしと歎き玉ひ、士を勸め、武を勵まし、放鷹遊獵に出御有之、麾下の伴士を勵まし給ふ、是諸家上を學びて其風に移り、太平に武を忘れざらしめんとの思し召なり、同上意に、治世に亂を忘れざるは鷹野猪狩なり、如何となれは人數を遣ひ覺るは多少の人數に寄べからず、又諸士に弓鐵砲を打せ射させ、有功を記し、金銀衣服をとらする事は、第一旗本の士をなつけ、武功を我前にてあらはす事賞美し、外樣に居候者其外も我を見知る者なり、殊に兩番の者共は歷々にて、我手足も同じ事なれども、近習へは遠し紋付の衣服など貰らふ事尤少し、箇樣の時とらさすれば其者骨髓に徹し有がたく可存なり、然れば手足にもなるべき義なり、第一近年武備衰へて、大小名諸家中に到る迄、遊山翫などに長じ、酒色に溺れ、身に綾羅錦繡をまとひて、樂しみを專らとし、遊藝をのみ第一として、武士の習しは少しもなく、公家町人の如くに氣弱になり來り候事、上に武備なき故なり、旗本の風義も、少しは見能成事いかめしき事なれども、我武勇を好み、儉約を用ひ、無用に費なく、及ばずながら善政廉直を施さんと欲する故也、云々、齊昭謹で案ずるに、東照宮を初奉り、世に賢明の大將軍と聞えまします御方には、治世に亂を忘れぬ樣にしば〱御示し被爲置候、東照宮御明智、太平とは申ながら漸く天下治まりたる砌り、太平久敷續なば奢長じ武備を失はん事を歎かせ給ひ、治世に亂を忘れざる樣にとの御示諭しば〱なり、
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『明訓一班抄抄録』・諫言を用べき事・御印籠を打ち砕いた雅楽頭酒井雅樂頭忠世は御後見にて御尊敬の人なり、或時御前へ出ける處に、其頃世に大に行れたる刑部梨地の御印籠を御床の上へ差置れたるを見て、あれは何にて候と申上らるれば、御前も如何と思召れしや、御赤面遊されながら、加賀守がとばかり上意なりし、雅樂頭御小性衆へ向ひあれを是へと申けるに、御前御赤面の御樣子を見奉る故立兼候を、御覽遊され取て遣し候へとの上意にて、御小性衆御床へ參り件の御印籠を取て雅樂頭前に置ければ、取上見て是は御印籠にて候か、加賀守御懇意にあまへ、若き故箇樣の花美なるものを差上ると相見へ申候、以前大殿樣(東照宮)駿府御在城の節、夕御膳御給仕之何某御小性にて着る袴を御覽被遊夫は何と申物ぞと御尋ねの時、茶宇と申物の由申上ければ、上意に己れ惡き者かな、天下久しく亂に及び漸此頃少く靜になり萬民も安き樣に見へ候處、名をも知り召れぬ程の衣類を着しける事、天下の奢を始め亂の端を起す不屆ものなり、御前退き候へと以の外御機嫌を損じ、夕御膳をも召上られず候故、某も種々に御機嫌を取漸に夜に入御膳をすゝめ申上る事有し、大殿樣には此ごとく天下の治亂を御大切に思召し、奢を御防遊されしに、只今箇樣に花美なる遊興を御賞翫遊され候事、以の外の由申上られ、御庭の石にあてゝ打ひしぎ捨られける、

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