匡正論 / 家庭の教えと仁に根ざす忠
自然と童蒙の風儀も宜かる可し、且父學文を好めば、其子不幸にして假令父の敎育に逢ずしても、自然と父の無學なる根よりは入易き事ある者也、武藝もまた此の如し、故に父母是を好み勵すは其成功格別の者也、父母の云ことは心易だてありて、當座は用ひざるやうなれども、詰る所は自然と父母のなすことはよきことゝ思ふ處あるものなり、今人子を持ん人其子の幼少よりして其心得あるべき事也、道を學ぶとて素讀より爲すとも、假名書にても大抵は知らるべければ、何ぞかたきことあらん、今の人其子の病めるに逢ふては神佛を禱りて種々の難苦を厭はざることを成ども、其子成長の上にて人に後ろ指さゝるゝ事をさほどには思はぬにや、此所を親たる人より心得て、其子常々嬉戲にも、心得有べき事也、併堯の子不肖と云類もあれば、一概には謂がたけれども、此等は格別の事なり、尋常の上には、幾らも親の心得違にて其子一生の害を殘す類多ければ、斯は云也、さて凡そ士は餘り都下の士の風を學び取廻もよく利口らしく見え、びん〱と小魚を筌に入れたる樣なるは好ぬ事にて、田舍武士の剛毅木訥の風よく仁には近からん、兎角百藝皆仁によるの心なくしては士の貴には足らざる也、心得べし、仁によるは則ち君に忠するなれば、たとへ其身不幸にて事の妨げにあひ、いつぱいの德業は成得ずとも、何卒人をして能學ばしめ國家の用に立しめんとする心こそ誠の忠と云可し、才智德行皆身より出し愉快なりとする者は、假令其身擧用せられても己れより賢なる人を君に進めて夫々の職に居らしむる事をもなさず、終に是を妬に至る、
新字:自然と童蒙の風儀も宜かる可し、且父学文を好めば、其子不幸にして仮令父の教育に逢ずしても、自然と父の無学なる根よりは入易き事ある者也、武芸もまた此の如し、故に父母是を好み励すは其成功格別の者也、父母の云ことは心易だてありて、当座は用ひざるやうなれども、詰る所は自然と父母のなすことはよきことゝ思ふ処あるものなり、今人子を持ん人其子の幼少よりして其心得あるべき事也、道を学ぶとて素読より為すとも、仮名書にても大抵は知らるべければ、何ぞかたきことあらん、今の人其子の病めるに逢ふては神仏を祷りて種々の難苦を厭はざることを成ども、其子成長の上にて人に後ろ指さゝるゝ事をさほどには思はぬにや、此所を親たる人より心得て、其子常々嬉戯にも、心得有べき事也、併堯の子不肖と云類もあれば、一概には謂がたけれども、此等は格別の事なり、尋常の上には、幾らも親の心得違にて其子一生の害を残す類多ければ、斯は云也、さて凡そ士は余り都下の士の風を学び取廻もよく利口らしく見え、びん〱と小魚を筌に入れたる様なるは好ぬ事にて、田舎武士の剛毅木訥の風よく仁には近からん、兎角百芸皆仁によるの心なくしては士の貴には足らざる也、心得べし、仁によるは則ち君に忠するなれば、たとへ其身不幸にて事の妨げにあひ、いつぱいの徳業は成得ずとも、何卒人をして能学ばしめ国家の用に立しめんとする心こそ誠の忠と云可し、才智徳行皆身より出し愉快なりとする者は、仮令其身挙用せられても己れより賢なる人を君に進めて夫々の職に居らしむる事をもなさず、終に是を妬に至る、
書き下し
自然と童蒙の風儀も宜かる可し、且父學文を好めば、其子不幸にして假令父の敎育に逢ずしても、自然と父の無學なる根よりは入易き事ある者也、武藝もまた此の如し、故に父母是を好み勵すは其成功格別の者也、父母の云ことは心易だてありて、當座は用ひざるやうなれども、詰る所は自然と父母のなすことはよきことゝ思ふ處あるものなり、今人子を持ん人其子の幼少よりして其心得あるべき事也、道を學ぶとて素讀より爲すとも、假名書にても大抵は知らるべければ、何ぞかたきことあらん、今の人其子の病めるに逢ふては神佛を禱りて種々の難苦を厭はざることを成ども、其子成長の上にて人に後ろ指さゝるゝ事をさほどには思はぬにや、此所を親たる人より心得て、其子常々嬉戲にも、心得有べき事也、併堯の子不肖と云類もあれば、一概には謂がたけれども、此等は格別の事なり、尋常の上には、幾らも親の心得違にて其子一生の害を殘す類多ければ、斯は云也、さて凡そ士は餘り都下の士の風を學び取廻もよく利口らしく見え、びん〱と小魚を筌に入れたる樣なるは好ぬ事にて、田舍武士の剛毅木訥の風よく仁には近からん、兎角百藝皆仁によるの心なくしては士の貴には足らざる也、心得べし、仁によるは則ち君に忠するなれば、たとへ其身不幸にて事の妨げにあひ、いつぱいの德業は成得ずとも、何卒人をして能學ばしめ國家の用に立しめんとする心こそ誠の忠と云可し、才智德行皆身より出し愉快なりとする者は、假令其身擧用せられても己れより賢なる人を君に進めて夫々の職に居らしむる事をもなさず、終に是を妬に至る、
現代語訳
自然と童蒙(子ども)の風儀もよいでしょう。また父が学問を好めば、その子が不幸にもたとえ父の教育に遇わなくても、自然と父が無学の根からは入りやすいことがあるものです。武芸もまたこのようです。ですから父母がこれを好み励ますことは、その成功が格別のものです。父母の言うことは気安さがあって、当座は用いないようでも、結局は自然と父母のすることはよいことだと思うところがあるものです。今、子を持とうとする人は、その子の幼少からその心得があるべきです。道を学ぶのに素読からするにしても、仮名書きでも大抵は知れるでしょうから、何も難しいことはありません。今の人はその子が病むときは神仏に祈って様々な難儀苦労を厭わないことをしますが、その子が成長してから人に後ろ指をさされることをそれほどには思わないのでしょうか。このことを親たる人から心得て、その子の常々の遊びにも心得があるべきです。ただし堯の子が不肖という類もあるので、一概には言いがたいけれども、これらは格別のことです。尋常の上では、いくらも親の心得違いで子の一生の害を残す類が多いので、このように言うのです。さて、およそ士はあまり都下の士の風を学び取り繕いがよく利口らしく見え、「ぴんぴんと小魚を筌に入れた」ようなのは好ましくなく、田舎武士の剛毅木訥の風こそ仁に近いでしょう。とかく百芸みな仁によるという心がなくては、士の貴さには足りません。心得るべきです。仁によるのは君に忠することですから、たとえその身が不幸で事の妨げにあい、精一杯の徳業は成し得なくても、何とか人をよく学ばせ国家の用に立たせようとする心こそ誠の忠というべきです。才智徳行はみな自分から出たものと愉快がる者は、たとえその身が挙用されても、自分より賢い人を君に進めてそれぞれの職に就かせることもせず、ついにはこれを妬むに至ります。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『晏子春秋』外篇上・太卜紿景公能動地晏子知其妄使卜自曉公景公太卜に問うて曰く、「汝の道は何をか能くする」と。対えて曰く、「臣は能く地を動かす」と。公晏子を召して之に告げて曰く、「寡人太卜に問う、『汝の道は何をか能くする』と。対えて曰く、『能く地を動かす』と。地は動かす可きか」と。晏子默然として対えず、出でて、太卜に見えて曰く、「昔吾鉤星の四心の間に在るを見たり。地其れ動かんか」と。太卜曰く、「然り」と。晏子曰く、「吾之を言わば、子の死なんことを恐る。默然として対えざれば、君の惶れんことを恐る。子言わば、君臣俱に得ん。君に忠なる者は、豈に必ずしも人を傷つけんや」と。晏子出で、太史走り入りて公に見えて曰く、「臣は能く地を動かすに非ず。地は固より将に動かんとするなり」と。陳子陽之を聞きて曰く、「晏子の默して対えざるは、太卜の死するを欲せざればなり。往きて太卜に見ゆるは、君の惶れんことを恐ればなり。晏子は仁人なり、上に忠にして下に恵むと謂う可し」と。
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『都鄙問答』卷之一・武士ノ道ヲ問ノ段答ふ、実に左もあるべきことかな。樊遅仁を問ふ。子曰く、人を愛す。知を問ふ。人を知る。仁知は大なりといへども、此の二語を以て尽くし玉ふ。文字によらずして、人の暁し易きこそよからん。愚元来不学なれば、幸ひなるかな、心易く汝が身にも備はりたることを以て語るべし。先づ手足は、口のために使はるるなり。如何となれば、口が物を食はねば、手足安穏なること能はず。このゆゑに手足が苦労して、一代口の為に使はるると云へども、少しも不屑らしきことなく、口に忠を尽くして、能く事へまつるものなり。君に事へまつる道も、手足の口に使はるることを法とすべし。臣下の飯と汁は、君より給はる奉禄なり。其の禄なくして、何を以て命をつぐべきや。このゆへに我が身を委ねて、君の身に代はり、
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『慎思録』巻之五忠臣孝子の君父に於けるは、譬へば手足の面目を捍ぐが如く然り。毀折に遭ふと雖も懼れず。其の愛する所至りて深きなり。君子の人を愛するや、物我を忘る。故に其の危難の時に方りては、疎遠なりと雖も、救はざること能はず。况や其の至尊至親の者に於てをや。岳武穆の如き、其の君を愛し国を憂ふるの志至りて深く、終に奪ふべからざる者有り。是を以て利害死生を顧みず、讒人の枉陥して死に至ると雖も、其の節操を変ぜず。或るひと謂ふ、此れ明哲保身の道に非ず、進退の機に昧し、と。是れ豈に忠臣義士の心を知る者ならんや。
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『童子問』卷上問ふ、令尹子文・陳文子は何を以て仁を許されざる。曰く、二子若し管仲の志と才とを有たば、亦当に其の仁を称すべし。子文は身の為に謀らず、人に告ぐるに忠を以てす。文子は能く其の身を潔くして去る。皆観るべきに足る。然れども利沢物に及ぶの功無し。此れ其の忠と清とに止まる所以なり。
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論語・公冶長篇子張問いて曰く、「令尹子文、三たび仕えて令尹と為るも、喜ぶ色無し。三たび之を已めらるるも、慍る色無し。旧令尹の政、必ず以て新令尹に告ぐ。何如。」子曰く、「忠なり。」曰く、「仁なりや。」曰く、「未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。」「崔子斉君を弑す。陳文子馬十乗有り、棄てて之を違る。他邦に至れば、則ち曰く、『猶お吾が大夫崔子のごときなり』と。之を違る。一邦に之けば、則ち又曰く、『猶お吾が大夫崔子のごときなり』と。之を違る。何如。」子曰く、「清なり。」曰く、「仁なりや。」曰く、「未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。」
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『徂徠先生答問書』卷中君子の道も是を土台といたし候事は、君子の道は仁にて候。仁は国天下の民を安じ候事にて、もと人の上たるものの道にて候。孝弟忠信中庸の徳行は、分に相応にたれにてもなり申候事にて、上たる人ばかりの道にては無御座候。孝は父母を養ひ安んずる道にて候。弟は兄弟を養ひ安んずる道にて候。忠は君につかへて君を安んじ養ふ道にて候。信は朋友を安んじ養ふ道にて候。されば何れも皆仁の小わりと可被思召候。たゞ人々の量の大小御座候故、大量の人ならでは仁をわが任といたし候事なりがたく候。量の大小にかゝはらず、たれにても仁の心をおこなひ候事は、孝弟忠信中庸の徳行と可被思召候。是により孝弟忠信を土台といたし、是よりのぼり候へば、君子の仁もよく相応いたし、齟齬いたし候所無御座候。若又孝弟忠信を土台といたさず候て、国天下を安んずるわざをのみ求め候はゞ、却て邪術にはせ候あやまりも出来可申事故、子思などの書を作り其ふせぎをいたされ候事にて御座候。たゞ量の大小に随ひ教の名目は別にて候得共、道は一箇の道にて更に別の道は無御座候。よく〳〵御工夫可被成候。以上。

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