匡正論 / 雅俗の誤解と放逸の風
古より其主の干城ともなるべき士の妬氣ありて不忠の罪に陷る者其數を知らず、返す〱も文武兼備ならば却て其罪を生ずる事あり、庶くは君子熟察せよ、雅俗と云事も亦今人頗る其儀を誤る事あり、其弊少からず、詩人歌人茶客の類多く其毒を痛也、先其雅とせる者の大抵を云はゞ、世人に異なる體を好み奇怪放逸の行狀をなし、世に用らるゝ事をうるさく思ひ、閑靜の地に避て喫茶飮酒を縱にし、世の事にうときを高しとして一生哦吟に心をよする類を雅とし、是に反する者を俗とする也、夫詩を作る事を敎るに高妙より入べきと云、漢魏晉盛唐を以て師とせしめ、儒者の氣象言語を入るは本色々に非ずと云より、詩人多高妙に走るの失ありと見へたり、且晉唐の詩をよくする人老莊佛等の學を爲せる者多き樣なれば、其輩多くは世に用られて身を羈せざることを好み、至尊高貴へも不遜なる言行あるを高しとする故に、其詩句も亦多く此氣象を詠ずるや殊に其人詩に妙なる故によく人を感動せしむる樣に其情實を詠じ出すによりて、後の詩を學ぶもの其詩に法りて作る故に、終に其人の行事を風雅なる事と思て又是に傚ふに至る、苟くも詩を作る者とさへ云へば、假令身は士宦たりとも動もすれば隱趣不羈の事を云、詩は志を云ものなるに、詩志相違しても箇樣ならざれば高雅ならずと思、又今日さまでの不遇にもなきに實に世を逃れたく士宦をうるさく思ひ、天下の遊民となり、或は飮酒放逸して風雅を極めんと思ふ類もあり、又かゝる人の平日文房の具なりとて集を見るに、かりそめにも異國より渡る物とさへ云ば、唐土ては俗間に用る賤き物にても總て雅物なりとして珍重し、
新字:古より其主の干城ともなるべき士の妬気ありて不忠の罪に陥る者其数を知らず、返す〱も文武兼備ならば却て其罪を生ずる事あり、庶くは君子熟察せよ、雅俗と云事も亦今人頗る其儀を誤る事あり、其弊少からず、詩人歌人茶客の類多く其毒を痛也、先其雅とせる者の大抵を云はゞ、世人に異なる体を好み奇怪放逸の行状をなし、世に用らるゝ事をうるさく思ひ、閑静の地に避て喫茶飲酒を縦にし、世の事にうときを高しとして一生哦吟に心をよする類を雅とし、是に反する者を俗とする也、夫詩を作る事を教るに高妙より入べきと云、漢魏晋盛唐を以て師とせしめ、儒者の気象言語を入るは本色々に非ずと云より、詩人多高妙に走るの失ありと見へたり、且晋唐の詩をよくする人老荘仏等の学を為せる者多き様なれば、其輩多くは世に用られて身を羈せざることを好み、至尊高貴へも不遜なる言行あるを高しとする故に、其詩句も亦多く此気象を詠ずるや殊に其人詩に妙なる故によく人を感動せしむる様に其情実を詠じ出すによりて、後の詩を学ぶもの其詩に法りて作る故に、終に其人の行事を風雅なる事と思て又是に傚ふに至る、苟くも詩を作る者とさへ云へば、仮令身は士宦たりとも動もすれば隠趣不羈の事を云、詩は志を云ものなるに、詩志相違しても箇様ならざれば高雅ならずと思、又今日さまでの不遇にもなきに実に世を逃れたく士宦をうるさく思ひ、天下の遊民となり、或は飲酒放逸して風雅を極めんと思ふ類もあり、又かゝる人の平日文房の具なりとて集を見るに、かりそめにも異国より渡る物とさへ云ば、唐土ては俗間に用る賤き物にても総て雅物なりとして珍重し、
書き下し
古より其主の干城ともなるべき士の妬氣ありて不忠の罪に陷る者其數を知らず、返す〱も文武兼備ならば却て其罪を生ずる事あり、庶くは君子熟察せよ、雅俗と云事も亦今人頗る其儀を誤る事あり、其弊少からず、詩人歌人茶客の類多く其毒を痛也、先其雅とせる者の大抵を云はゞ、世人に異なる體を好み奇怪放逸の行狀をなし、世に用らるゝ事をうるさく思ひ、閑靜の地に避て喫茶飮酒を縱にし、世の事にうときを高しとして一生哦吟に心をよする類を雅とし、是に反する者を俗とする也、夫詩を作る事を敎るに高妙より入べきと云、漢魏晉盛唐を以て師とせしめ、儒者の氣象言語を入るは本色々に非ずと云より、詩人多高妙に走るの失ありと見へたり、且晉唐の詩をよくする人老莊佛等の學を爲せる者多き樣なれば、其輩多くは世に用られて身を羈せざることを好み、至尊高貴へも不遜なる言行あるを高しとする故に、其詩句も亦多く此氣象を詠ずるや殊に其人詩に妙なる故によく人を感動せしむる樣に其情實を詠じ出すによりて、後の詩を學ぶもの其詩に法りて作る故に、終に其人の行事を風雅なる事と思て又是に傚ふに至る、苟くも詩を作る者とさへ云へば、假令身は士宦たりとも動もすれば隱趣不羈の事を云、詩は志を云ものなるに、詩志相違しても箇樣ならざれば高雅ならずと思、又今日さまでの不遇にもなきに實に世を逃れたく士宦をうるさく思ひ、天下の遊民となり、或は飮酒放逸して風雅を極めんと思ふ類もあり、又かゝる人の平日文房の具なりとて集を見るに、かりそめにも異國より渡る物とさへ云ば、唐土ては俗間に用る賤き物にても總て雅物なりとして珍重し、
現代語訳
古来、その主の干城ともなるべき士が、妬み心があって不忠の罪に陥る者は数知れません。返す返すも、文武兼備であってかえってその罪を生むことがあります。願わくは君子よくお察しください。雅俗ということも、今の人はかなりその意味を誤っていて、その弊害は少なくありません。詩人・歌人・茶客の類に多くその毒があります。まずその雅とするもののおおよそを言えば、世人と異なる体裁を好み、奇怪で放逸な行状をなし、世に用いられることをわずらわしく思い、閑静な地に避けて喫茶飲酒を縦にし、世の事に疎いことを高しとして一生吟詠に心を寄せる類を雅とし、これに反する者を俗とするのです。そもそも詩を作ることを教えるのに高妙から入るべしと言い、漢魏晋盛唐を師とさせ、儒者の気象言語を入れるのは本色ではないと言うことから、詩人の多くが高妙に走る失があると見えます。また晋唐の詩をよくする人は老荘仏などの学をなす者が多いようなので、その輩の多くは世に用いられて身を束縛されることを好まず、至尊高貴にも不遜な言行があることを高しとするので、その詩句もまた多くこの気象を詠じ、ことにその人が詩に巧みなのでよく人を感動させるようにその情実を詠じ出すので、後に詩を学ぶ者がその詩に倣って作るため、ついにその人の行いを風雅なことと思ってまたこれに倣うに至ります。いやしくも詩を作る者といえば、たとえ身は士官であっても、ともすれば隠趣不羈のことを言い、詩は志を言うものなのに、詩と志が相違してもこのようでなければ高雅でないと思い、また今日それほど不遇でもないのに本当に世を逃れたく士官をわずらわしく思い、天下の遊民となり、あるいは飲酒放逸して風雅を極めようと思う類もあり、またこのような人が平日の文房の具だといって集めているのを見ると、かりそめにも異国から渡る物といえば、唐土では俗間に用いる賤しい物でもすべて雅物として珍重し、
解説
この章句が説くこと
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