甲陽軍鑑 / 品第十四
其趣は其方ことすどのせりあひ合戰に、何にても終に然るべきこと覺へず、十度事に逢ふて九度はづるゝとも、せめては一ど心操あれば人の褒貶も尤もなり、侍の褒貶なければ一段ぶせんさくなる物にて候へば、各傍輩中の褒貶は侍衆嗜みのも本一となれば、行々予が戈さきの强くなる道理にて、某も底意は悅ぶといへども、此たゝらひ五左衛門は旗本に於て我代に今迄幾度のせりあひ大合戰、或は城を責取とき一度の手抦もなくして、諸傍輩の取り沙汰仕り、人に腹をたゝするは大惡黨人なりとあそばして、二十人衆に仰せ付られ、則ちからめ取り、あひ川のはたにて縛頸をきられ申す、長坂長閑は能く覺へ給ふべし、
新字:其趣は其方ことすどのせりあひ合戦に、何にても終に然るべきこと覚へず、十度事に逢ふて九度はづるゝとも、せめては一ど心操あれば人の褒貶も尤もなり、侍の褒貶なければ一段ぶせんさくなる物にて候へば、各傍輩中の褒貶は侍衆嗜みのも本一となれば、行々予が戈さきの強くなる道理にて、某も底意は悦ぶといへども、此たゝらひ五左衛門は旗本に於て我代に今迄幾度のせりあひ大合戦、或は城を責取とき一度の手抦もなくして、諸傍輩の取り沙汰仕り、人に腹をたゝするは大悪党人なりとあそばして、二十人衆に仰せ付られ、則ちからめ取り、あひ川のはたにて縛頸をきられ申す、長坂長閑は能く覚へ給ふべし、
書き下し
其趣は其方ことすどのせりあひ合戦に、何にても終に然るべきこと覚へず、十度事に逢ふて九度はづるゝとも、せめては一ど心操あれば人の褒貶も尤もなり、侍の褒貶なければ一段ぶせんさくなる物にて候へば、各傍輩中の褒貶は侍衆嗜みのも本一となれば、行々予が戈さきの强くなる道理にて、某も底意は悅ぶといへども、此たゝらひ五左衛門は旗本に於て我代に今迄幾度のせりあひ大合戦、或は城を責取とき一度の手抦もなくして、諸傍輩の取り沙汰仕り、人に腹をたゝするは大悪党人なりとあそばして、二十人衆に仰せ付られ、則ちからめ取り、あひ川のはたにて縛頸をきられ申す、長坂長閑は能く覚へ給ふべし、
現代語訳
その趣旨は、そのほうは数度の競り合い・合戦で、何においてもついに然るべき働きの覚えがない。十度事にあって九度外れても、せめて一度心がけがあれば、人の褒貶もももっともである。侍の褒貶がなければ一段と無穿鑿なものになるので、傍輩中の褒貶は侍衆のたしなみの基本となり、ゆくゆく予が戈先の強くなる道理であって、自分も内心では喜ぶのだが、このたたらい五左衛門は、旗本において我が代に今まで幾度の競り合い・大合戦、あるいは城を攻め取る時に一度の手柄もなくて、諸傍輩の取り沙汰をして人に腹を立てさせるのは大悪党人である、とお書きになって、二十人衆に仰せ付けられ、すぐに搦め取って、相川のほとりで縛り首を斬られた。長坂長閑はよく覚えておられよう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 衛将軍驃騎列伝其の秋、匈奴代に入り、都尉朱英を殺す。其の明年春、大将軍青定襄より出づ。合騎侯敖中将軍と為り、太僕賀左将軍と為り、翕侯趙信前将軍と為り、衛尉蘇建右将軍と為り、郎中令李広後将軍と為り、右内史李沮彊弩将軍と為り、咸大将軍に属し、首を斬ること数千級にして還る。月余にして、悉く復た定襄より出でて匈奴を撃ち、首虜を斬ること万余人。右将軍建・前将軍信軍を并すること三千余騎、独り単于の兵に逢ひ、与に戦ふこと一日余、漢の兵且に尽きんとす。前将軍は故の胡人にして、降りて翕侯と為る。急なるを見て、匈奴之を誘ふ。遂に其の余騎八百可りを将ゐて、奔りて単于に降る。右将軍蘇建尽く其の軍を亡ひ、独り身を以て亡げ去るを得て、自ら大将軍に帰る。大将軍其の罪を正閎・長史安・議郎周霸等に問ふ、「建は当に云何すべき」と。霸曰く、「大将軍の出でしより、未だ嘗て裨将を斬らず。今建軍を棄つ。斬りて以て将軍の威を明らかにすべし」と。閎・安曰く、「然らず。兵法に『小敵の堅は、大敵の禽なり』と。今建は数千を以て単于の数万に当たり、力戦すること一日余、士尽くるも、敢へて二心有らず、自ら帰る。自ら帰りて之を斬るは、是れ後に反る意無からしむるを示すなり。当に斬るべからず」と。大将軍曰く、「青幸ひに肺腑を以て罪を行間に待つを得たり。威無きを患へず。而るに霸我に説くに威を明らかにするを以てするは、甚だ臣の意を失ふ。且つ臣の職をして将を斬るに当たると雖も、臣の尊寵を以てして敢へて自ら擅に誅を境外に専らにせず、而して具に天子に帰し、天子自ら之を裁かば、是に於て以て人臣為りて敢へて権を専らにせざるを見す。亦可ならずや」と。軍吏皆曰く「善し」と。遂に建を囚へて行在所に詣る。塞に入りて兵を罷む。是の歳や、大将軍の姊の子霍去病年十八、幸せられて、天子の侍中と為る。
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『春秋左氏伝』昭公二年 子産、公孫黒を裁く秋、鄭の公孫黑將に亂を作さんとし、游氏を去りて其の位に代はらんと欲す。傷疾作りて果たさず。駟氏と諸大夫と之を殺さんと欲す。子產鄙に在り、之を聞き、及ばざるを懼れ、遽(でんしゃ)に乘りて至る。吏をして之を數(せ)めしめて曰く、「伯有の亂、大國の事を以って、未だ爾を討ぜざるなり。爾亂心有りて厭くこと無し。國女に堪へず。專ら伯有を伐つ、而(なんぢ)の罪一なり。昆弟室を爭ふ、而の罪二なり。薰隧の盟に、女君位を矯む、而の罪三なり。死罪三有り、何を以ってか之に堪へん。速やかに死せずんば、大刑將に至らんとす」と。再拜稽首して辭して曰く、「死は朝夕に在り、天を助けて虐を為すこと無かれ」と。子產曰く、「人誰か死せざらん。凶人の終へざるは、命なり。凶事を作し、凶人と為る。天を助けずして、其れ凶人を助けんや」と。「請ふ印を以って褚師と為さん」と。子產曰く、「印や若し才あらば、君將に之に任ぜん。不才ならば、將に朝夕に女に從はんとす。女罪を之れ恤へずして、又何をか請はん。速やかに死せずんば、司寇將に至らんとす」と。
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史記 東越列伝乃ち便宜を以て兵を案じて大農の軍に告げ、而して使ひをして王の頭を奉じて馳せて天子に報ぜしむ。詔して両将の兵を罷め、曰く、「郢等は首悪なり、独り無諸の孫繇君丑は謀に与らず」と。乃ち郎中将をして丑を立てて越繇王と為し、閩越の先の祭祀を奉ぜしむ。
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『春秋左氏伝』昭公元年 子産、子南を放つ「國の大節五有り、女(なんぢ)皆之を奸(をか)せり。君の威を畏れ、其の政を聽き、其の貴を尊び、其の長に事へ、其の親を養ふ。五つの者は國を為むる所以なり。今君國に在るに、女兵を用ゐる、威を畏れざるなり。國の紀を奸す、政を聽かざるなり。子皙は上大夫、女は嬖大夫にして、之に下らず、貴を尊ばざるなり。幼にして忌(はばか)らず、長に事へざるなり。其の從兄に兵す、親を養はざるなり。君曰く、『余女を殺すに忍びず、女を宥して以って遠ざけん。勉めて速やかに行け、而(なんぢ)の罪を重ぬること無かれ』と」。五月、庚辰、鄭游楚を吳に放つ。將に子南を行(や)らんとして、子產大叔に咨(はか)る。大叔曰く、「吉は身を亢(まも)ること能はず、焉んぞ能く宗を亢らん。彼は國の政なり、私の難に非ざるなり。子鄭國を圖り、利なれば則ち之を行へ、又何ぞ疑はん。周公は管叔を殺して蔡叔を蔡(はな)てり。夫れ豈に愛せざらんや、王室の故なり。吉若し戾(つみ)を獲ば、子將に之を行はんとす。何ぞ諸游に有らん」と。
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『塩鉄論』後刑篇大夫曰く、古の君子は、善を善しとして惡を惡む。人君は惡民を畜わず、農夫は無用の苗を畜わず。無用の苗は、苗の害なり、無用の民は、民の賊なり。一害を鉏きて眾苗成り、一惡を刑して萬民悅ぶ。周公・孔子と雖も刑を釋てて惡を用うる能わず。家に姐子有れば、器皿居らず、況んや姐民をや。民なる者は愛に敖りて刑に聽う。故に刑は民を正す所以、鉏は苗を別かつ所以なり。
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『秘本玉くしげ』上 役人も重く罰すさればたとひいささかの事にもせよ、此すぢあらば、その起るところの本を委細によくよく吟味して是非をただし、下の非あらば、その張本のともがらをおもく刑し玉ふべきは勿論の事、又上に非あらば、その非を行へる役人を重く罰し玉ふべき也。
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