甲陽軍鑑 / 品第十四
又天文十三年に信六大木州戶石にて合戰の時、利補開字依言葉茅部、板垣殿河丁小田間の中信玄家にて從の米菜、くづされ、信玄衆悉く敗軍して、殊に先き手の侍大將甘利備前守討死する、はた本より撿使の橫田備中も討死なり、同十郞兵衛は其年廿にて朝のせりあひに村上家にておぼへの足がる大將、小島五郞左衛門をくみ打ちに仕つり、深手を負てのく、其外橫田備中が同心共此せりあひによき者二十人にあまり手負死人有る故、橫田備中かへして討死の時一入早くうたれぬ、さありて此合戰信玄公のまけなるを、山本勘介と加藤駿河と見切りをよくして子內程等の小田出羽も向大和斗井若勢孔代表現をつより変ヘム。故之言漸く芝居をふまへ給ふ、
新字:又天文十三年に信六大木州戸石にて合戦の時、利補開字依言葉茅部、板垣殿河丁小田間の中信玄家にて従の米菜、くづされ、信玄衆悉く敗軍して、殊に先き手の侍大将甘利備前守討死する、はた本より撿使の横田備中も討死なり、同十郎兵衛は其年廿にて朝のせりあひに村上家にておぼへの足がる大将、小島五郎左衛門をくみ打ちに仕つり、深手を負てのく、其外横田備中が同心共此せりあひによき者二十人にあまり手負死人有る故、横田備中かへして討死の時一入早くうたれぬ、さありて此合戦信玄公のまけなるを、山本勘介と加藤駿河と見切りをよくして子内程等の小田出羽も向大和斗井若勢孔代表現をつより変ヘム。故之言漸く芝居をふまへ給ふ、
書き下し
又天文十三年に信六大木州戸石にて合戦の時、利補開字依言葉茅部、板垣殿河丁小田間の中信玄家にて従の米菜、くづされ、信玄衆悉く敗軍して、殊に先き手の侍大将甘利備前守討死する、はた本より撿使の横田備中も討死なり、同十郎兵衛は其年廿にて朝のせりあひに村上家にておぼへの足がる大将、小島五郎左衛門をくみ打ちに仕つり、深手を負てのく、其外横田備中が同心共此せりあひによき者二十人にあまり手負死人有る故、横田備中かへして討死の時一入早くうたれぬ、さありて此合戦信玄公のまけなるを、山本勘介と加藤駿河と見切りをよくして子内程等の小田出羽も向大和斗井若勢孔代表現をつより変ヘム。故之言漸く芝居をふまへ給ふ、
現代語訳
また天文十三年に信州戸石で合戦のあった時、(底本ここ判読しがたい)……崩され、信玄衆はことごとく敗軍して、ことに先手の侍大将甘利備前守が討死し、旗本から検使に出ていた横田備中も討死した。その子の十郎兵衛はその年二十で、朝の競り合いに村上家で名のある足軽大将の小島五郎左衛門と組み打ちをし、深手を負って退いた。そのほか横田備中の同心どもで、この競り合いによい者が二十人余り手負い・死人となったので、横田備中は引き返して討死する時、ひとしお早く討たれてしまった。そうしてこの合戦は信玄公の負けであったところを、山本勘介と加藤駿河が見切りをよくして、(底本ここ判読しがたい)……ようやく芝居を踏まえられた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷上卯の夏夜話に曰く、我分別いつとなく失せ、慮知抔と云ふことなし。然る間云ひ損ひも有らんず事ぢやが、出次第に働きて、此年迄来れとも間に合はぬ事無し。総して若き時より無分別なる性也。然れども元より事の談合肝要の時に至ては、何たる分別者よりも我一言に究むる事多し。我もいな事に思ふ也。但しつゝきれて云ふ心か、夫れは元より中中强い位有り、事の談合に及んでは、聞くと早や胸すはつてつゝきれて云はるゝと也。
-
『酔古堂剣掃』集醒・事に任ずる者は利害の慮を忘る事を議する者は身事の外に在り、宜しく利害の情を悉すべし。事に任ずる者は身事の中に居り、當に利害の慮を忘るべし。
-
孫子・地形篇卒を視ること嬰児の如し、故に之と深谿に赴くべし。卒を視ること愛子の如し、故に之と俱に死すべし。厚くして使う能わず、愛して令する能わず、乱れて治むる能わざれば、譬えば驕子の若く、用うべからざるなり。
-
『正法眼蔵随聞記』巻一亦云く、大衆不対の時、我れ南泉ならば、大衆既に道不得と云て、便ち猫児を放下してまじ、古人の云く、大用現前して軌則を存せずと、
-
『囲炉夜話』第二百三則・必ず諸を心に問ふ言は盡くは信ず可からず、必ず諸を理に揆る。事は未だ遽かに行ふ可からず、必ず諸を心に問ふ。
-
『酔古堂剣掃』集醒・多情の者は與に妍媸を定むべからず多情の者は、與に妍媸を定むべからず。多誼の者は、與に取與を定むべからず。多氣の者は、與に雌雄を定むべからず。多興の者は、與に去住を定むべからず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る