甲陽軍鑑 / 品第十四
就中信玄は十六歲の極月より五十三歲の四月十二日の他界の日迄も、終にまきたる城をまきほぐし、或は敵の向ふと聞き、先手を捨て甲州へ逃給ふ事日本の諸佛·諸神も照覽あれ、假初にも、おはしまさず昔の儀は當屋形勝賴公御存知あるまじ、長坂長閑能くしり給ふべし、右のごとくつよみなる大將故、敵の國にて信玄公を、雜人も歌にうたうたる沙汰もなし、かほどよく剛强なる大將前代にもさのみなし、扨末代にもあまり多くは有まじ、
新字:就中信玄は十六歳の極月より五十三歳の四月十二日の他界の日迄も、終にまきたる城をまきほぐし、或は敵の向ふと聞き、先手を捨て甲州へ逃給ふ事日本の諸仏·諸神も照覧あれ、仮初にも、おはしまさず昔の儀は当屋形勝頼公御存知あるまじ、長坂長閑能くしり給ふべし、右のごとくつよみなる大将故、敵の国にて信玄公を、雑人も歌にうたうたる沙汰もなし、かほどよく剛強なる大将前代にもさのみなし、扨末代にもあまり多くは有まじ、
書き下し
就中信玄は十六歳の極月より五十三歳の四月十二日の他界の日迄も、終にまきたる城をまきほぐし、或は敵の向ふと聞き、先手を捨て甲州へ逃給ふ事日本の諸仏·諸神も照覧あれ、仮初にも、おはしまさず昔の儀は当屋形勝頼公御存知あるまじ、長坂長閑能くしり給ふべし、右のごとくつよみなる大将故、敵の国にて信玄公を、雑人も歌にうたうたる沙汰もなし、かほどよく剛强なる大将前代にもさのみなし、扨末代にもあまり多くは有まじ、
現代語訳
とりわけ信玄は、十六歳の十二月から五十三歳の四月十二日に他界される日まで、ついに一度も、囲んだ城の囲みを解いたり、あるいは敵が向かってくると聞いて先手を捨てて甲州へ逃げたりされたことはない。これは日本の諸仏・諸神もご覧あれ、かりそめにもそのようなことはおありにならなかった。昔のことは今の御屋形勝頼公はご存じないであろうが、長坂長閑はよく知っておられるはずだ。このように強い大将であったから、敵国でも信玄公のことを雑人が歌に作って歌ったという沙汰もない。これほど剛強な大将は前代にもそう多くはなく、末代にもあまり多くはあるまい。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第十四右信玄墳の事、信長·家康ほどの弓取り達が両大将よりあふて、三年さきに死去ある信玄にかちたるといふて、西国へひどかするは大国までもかくれなき信玄の御威光つよし、抑信玄公の他界ましますは天正元年癸酉四月十二日、則ち都妙心寺に石塔あり、長篠合戦は天正三年乙亥五月廿一日なり、是れほど大に違たるを信玄公にかてば、おぼへの信長公跡の武功より長篠合戦杏々うへと思はるゝは、偏へに信玄公の武勇誉れ計りにてもなく、万事に調たる名大将の故なるに、
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『甲陽軍鑑』品第十四御出語は定めて長坂長閑·跡部大炊助少しも失念あるまじき所に、若屋形の然も心の剛强にましますを、前代より强くと諫め申す、信玄公よりつよくし給へば、それがはや强み過たると云ふことなり、過れば必ずけがありといふ、けがあればそれを名付けて負けたると申す、負くれば能き物を皆失はれて、猿の様なる男斗り多く残り居て、よき侍の不思儀に命助りて、大勢の中に五人·十人有るを、人なみの猿男どもよき人を猜み、討死したる侍衆の手抦をいひ出し、今爰に残る衆はまへの衆の足もとほどもなきと取りさたすれど、
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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『甲陽軍鑑』品第三十九以上一四月十一日未の刻より信玄公御気相あしく御座候て、御脉殊の外はやく候、又十二日の夜亥刻に、口中にはくさ出来、御齒五ツ六ツぬげ、それより次第によはり給ふ、旣に死脉うち申候につき信玄公御分別あり、各譜代の侍大将衆御一家にも人数を持ち給ふ人々悉く被召寄信玄公被仰は、六年先き駿河出陣まへ板坂法印申候は、膈と云煩なりといひつる、此わづらひは工夫積て心草臥候へば如此の煩ひ有と間、
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『甲陽軍鑑』品第十二信玄公宣ふば、勝ちたる軍にけがし給ふまじきと有る義にて、筑摩川をこし引きこみて備へを立てよと信玄公下知し給ふ、そこにて義信公へ先へ川をこせとあり、義信公は信玄公へ先越し給へと父子辞退まします、敵近付くとて信玄公川をはやく越し給ふ、それは信玄公武勇のかけ引き達者の故なり、子細は御父子ながら初合戦に二ケ所宛手負ひ給へば、旗本の各過半手負死人也、信玄公先衆は敵より後にてあり、荒手三百来らば大将の討死疑有るまじ、まして況んや千に余りたる荒手に機遣ひなきは国持ち給ふ大将衆、小身にても弓矢を存する人は信玄公ス悪しきとは申すまじ、
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『甲陽軍鑑』品第十四此時節は信玄公少しも大事になされず帰陣ありて、何の仕置のさたもなく、猿楽をあつめ七日の間能をさせて見物あり、わかくまします時よりも、皆人の存るに各別なるは信玄公なり、其子細は武辺専らかと見申せば、能にすき歌をよみ詩を作くり、花奢風流にして遊山見物専らかと思へば、諏訪の春芳、甲州の八田村、京の松木珪琳などゝ申す地下人·町人を召し寄せ給ふ、此者ども日々出頭してうはもるかと見れば、信玄公御詞の滋くかゝるほと、ひらに慇懃に成、諸侍をあがむる、
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