甲陽軍鑑 / 品第十四
右信玄墳の事、信長·家康ほどの弓取り達が兩大將よりあふて、三年さきに死去ある信玄にかちたるといふて、西國へひどかするは大國までもかくれなき信玄の御威光つよし、抑信玄公の他界ましますは天正元年癸酉四月十二日、則ち都妙心寺に石塔あり、長篠合戰は天正三年乙亥五月廿一日なり、是れほど大に違たるを信玄公にかてば、おぼへの信長公跡の武功より長篠合戰杏々うへと思はるゝは、偏へに信玄公の武勇譽れ計りにてもなく、萬事に調たる名大將の故なるに、
新字:右信玄墳の事、信長·家康ほどの弓取り達が両大将よりあふて、三年さきに死去ある信玄にかちたるといふて、西国へひどかするは大国までもかくれなき信玄の御威光つよし、抑信玄公の他界ましますは天正元年癸酉四月十二日、則ち都妙心寺に石塔あり、長篠合戦は天正三年乙亥五月廿一日なり、是れほど大に違たるを信玄公にかてば、おぼへの信長公跡の武功より長篠合戦杏々うへと思はるゝは、偏へに信玄公の武勇誉れ計りにてもなく、万事に調たる名大将の故なるに、
書き下し
右信玄墳の事、信長·家康ほどの弓取り達が両大将よりあふて、三年さきに死去ある信玄にかちたるといふて、西国へひどかするは大国までもかくれなき信玄の御威光つよし、抑信玄公の他界ましますは天正元年癸酉四月十二日、則ち都妙心寺に石塔あり、長篠合戦は天正三年乙亥五月廿一日なり、是れほど大に違たるを信玄公にかてば、おぼへの信長公跡の武功より長篠合戦杏々うへと思はるゝは、偏へに信玄公の武勇誉れ計りにてもなく、万事に調たる名大将の故なるに、
現代語訳
右の信玄墳のこと、信長・家康ほどの弓取りたちが両大将寄り合って、三年先に死去された信玄に勝ったといって西国へ響かせるのは、大国までも隠れない信玄の御威光が強いからである。そもそも信玄公が他界されたのは天正元年癸酉四月十二日で、都の妙心寺に石塔がある。長篠合戦は天正三年乙亥五月二十一日である。これほど大いに違っているのを、信玄公に勝てば、名のある信長公の後の武功よりも長篠合戦がはるかに上と思われるのは、ひとえに信玄公の武勇の誉ればかりでなく、万事に整った名大将であったからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第十四敵奥深く存知候は偏に信玄公未来迄も手抦をなさるゝ心也信長家には此長篠合戦を、信玄公に勝たるとて、塚をつきて信玄墳と名付る事是西国へおほへの為なり又小身に去ても家康は誠多强みを心懸全き弓取なれば、三河にては信玄に勝たるとさのみいはず、惣別信長家にはあたら弓取の空言をほし、子細は義元に勝たる時も今川の人衆六万にかちたるといふ、抑も末代にも分別し給へ、三河·遠州·駿河三ヶ国にて何として人衆六万あるべき、しかも小国なれば大積にもきう〳〵二万四千の人数なるを、ありやうに申せば猶以て手からなれ共、いらざるうそにて義元合戦などの、ためしまれなる本ンの手抦迄浅く存るなり、
-
『甲陽軍鑑』品第十四就中信玄は十六歳の極月より五十三歳の四月十二日の他界の日迄も、終にまきたる城をまきほぐし、或は敵の向ふと聞き、先手を捨て甲州へ逃給ふ事日本の諸仏·諸神も照覧あれ、仮初にも、おはしまさず昔の儀は当屋形勝頼公御存知あるまじ、長坂長閑能くしり給ふべし、右のごとくつよみなる大将故、敵の国にて信玄公を、雑人も歌にうたうたる沙汰もなし、かほどよく剛强なる大将前代にもさのみなし、扨末代にもあまり多くは有まじ、
-
『甲陽軍鑑』品第十四さて長篠にて柵の木もうち合ての儀は、勝頼若く候とも、小勢成りとも信長公老功にて大軍なれ共今戦ちとしにくうして、首をふり給へは馬入ると有るはかざり詞かとみへ候、長篠へ信長首途の発句は一本たかく松風に多気たくひなきあしたかなといふ百韻の内に、山県を始め各武田の家の家老をこと〳〵くいれ、武田調伏の連歌を仕たりと聞ゆ、おぼへの信長わかき勝頼のしかも小人衆なるに、是れほど大事にいたすは、是れたゞ信玄公の名高き故なり、
-
『甲陽軍鑑』品第十四其謂は今度長篠にて分別違ひ、去年戌の極月備定めの談合を破り、待て勝つ敵に此方より競ひかゝりて、合戦の儀さたの外也、子細は敵の大将强みも分別も四十二歳なれば、年孰れもさかりの信長父子三人、海道一番の家康卅四歳なれば是も分別巳の時也、しかも嫡子の三郎当十七歳なれ共、三十の男より打あがりたる健者にて、結句家康にもひだちをうたんとかゝるじやれ者と、
-
『甲陽軍鑑』品第十四又信長長篠にて柵の木ゆひ給ふこと、强敵にあふて智略賢き誉なるを、武田武者馬をいるゝと云ふ儀それも虚言なり、長篠合戦馬塲を十騎と並べて乗所にてなし、殊に信玄公の御時四年以前に、元亀三年壬申極月二十二日に、遠州みかたが原にて敵の大将家康三十一歳の時、信長衆も佐久間右衛門·平手·林·水野を始各来て此合戦にあふ、味方が原足がゝりなけれども、是にさへ馬をいれず候、それは敵にても家康衆よく存ずべし、尾州にても平手討死なれば、此衆は定めてしり候はん、馬をならべて入事あるは、先無案内なる批判なり、家康かた九手に余そなへて、平手ともに十手なるが家康のうち、酒井左衛門丞の手に鎗あはずしてくづるゝ、其夜は九手ながらにて鑓のあふに、馬上にての鑓を鑓と申すべく候哉、是れもつて武家に未聞の取りさたなり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十七信玄公つね〳〵仰られしは、信長あらきなる行義いたすはみな虚言也、我等と輝虎なくは定めて真に物を執行申さるべく候と、いつも仰られしごとく、今度長篠にての様子我等不参候へ共、皆語るを承はれば、前に子息の域介信忠のうはさ申されしごとくに少しもかわらず、海道一番の家康当年三十四歳、日本に名高き信長当年四十二歳、いづれも武道·分別ともに盛なり、子息城介信忠と三大将、しかも人数十万ばかりの大勢なり、又こなたは勝頼公一大将にて、いはんや御年三十歳ことに敵に対せば五分一の人数なり、旁以て信長無理をはたらかるべき所に、節所をかまへ、剰へ柵の木を三重までつけ、大事にいたさるゝ事は手の外にて候、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る