甲陽軍鑑 / 品第十三
長坂長閑老·跡部大炊助殿さる程に上杉家にて、長尾いげん入道·長野信濃守其外四五人寄り合ひ談合して、上杉則政公萬事能き樣に仕置き有る所に、又すがの大膳·上原兵庫以ヲ取成成〓則政公旗本にてはばめく親類·傍輩どもの中に、分別有る者四五十人あつまり談合仕り、此五ヶ條を書き付け兩人して則政公へ申上る一北條宗雲は古來伊勢國より乞食をいたし、駿河今川殿被官になり、今川家ノかげをもつて伊豆へうつり、たと今かくのごとくに候へば、元來伊豆のせばき所より出でたる宗雲が子孫少しも深き事なく候、宗雲子北條氏繩は甲州の武田信虎に大きにしまけ申す、是れは駿河あしたか山ノ下·東さほの原にての事、
新字:長坂長閑老·跡部大炊助殿さる程に上杉家にて、長尾いげん入道·長野信濃守其外四五人寄り合ひ談合して、上杉則政公万事能き様に仕置き有る所に、又すがの大膳·上原兵庫以ヲ取成成〓則政公旗本にてはばめく親類·傍輩どもの中に、分別有る者四五十人あつまり談合仕り、此五ヶ条を書き付け両人して則政公へ申上る一北条宗雲は古来伊勢国より乞食をいたし、駿河今川殿被官になり、今川家ノかげをもつて伊豆へうつり、たと今かくのごとくに候へば、元来伊豆のせばき所より出でたる宗雲が子孫少しも深き事なく候、宗雲子北条氏縄は甲州の武田信虎に大きにしまけ申す、是れは駿河あしたか山ノ下·東さほの原にての事、
書き下し
長坂長閑老·跡部大炊助殿さる程に上杉家にて、長尾いげん入道·長野信濃守其外四五人寄り合ひ談合して、上杉則政公万事能き様に仕置き有る所に、又すがの大膳·上原兵庫以ヲ取成成〓則政公旗本にてはばめく親類·傍輩どもの中に、分別有る者四五十人あつまり談合仕り、此五ヶ条を書き付け両人して則政公へ申上る一北条宗雲は古来伊勢国より乞食をいたし、駿河今川殿被官になり、今川家ノかげをもつて伊豆へうつり、たと今かくのごとくに候へば、元来伊豆のせばき所より出でたる宗雲が子孫少しも深き事なく候、宗雲子北条氏縄は甲州の武田信虎に大きにしまけ申す、是れは駿河あしたか山ノ下·東さほの原にての事、
現代語訳
長坂長閑老・跡部大炊助殿。そうするうちに上杉家では、長尾いげん入道・長野信濃守そのほか四五人が寄り合って談合し、上杉則政公の万事をよいように仕置きしているところに、またすがの大膳・上原兵庫が(底本ここ判読しがたい)則政公の旗本で幅を利かす親類・傍輩どもの中で分別ある者四五十人が集まって談合し、この五か条を書き付けて両人で則政公へ申し上げる。一、北条宗雲は古来伊勢国から乞食をして、駿河今川殿の被官になり、今川家の陰で伊豆へ移り、ただ今このようでございますが、もとより伊豆の狭い所から出た宗雲の子孫は、少しも深いことはございません。宗雲の子北条氏縄は甲州の武田信虎に大いに負けました。これは駿河愛鷹山の下、東の沢の原でのことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公二十年 民と欲を同じくせず二十年春、莒と平らぐ。孟莊子莒人に會し、向に盟ふ。督揚の盟の故なり。夏、澶淵に盟ふ。齊成ぐが故なり。邾人驟々至る。諸侯の事を以って、報ゆる能はざるなり。秋、孟莊子邾を伐ちて以って之に報ゆ。蔡の公子燮蔡を以って晉に之かんと欲す。蔡人之を殺す。公子履は其の母弟なり。故に出でて楚に奔る。陳の慶虎・慶寅、公子黃の偪るを畏れ、諸を楚に愬へて曰く、「蔡の司馬と謀を同じくす」と。楚人以って討を為す。公子黃出でて楚に奔る。初め、蔡の文侯晉に事へんと欲して曰く、「先君踐土の盟に與る。晉棄つべからず。且つ兄弟なり」と。楚を畏れて行ふ能はずして卒す。楚人蔡を使ふこと常無し。公子燮、先君に從ひて以って蔡を利せんことを求む。能はずして死す。書して「蔡其の大夫公子燮を殺す」と曰ふは、民と欲を同じくせざるを言ふなり。「陳侯の弟黃出でて楚に奔る」とは、其の罪に非ざるを言ふなり。公子黃將に出奔せんとし、國に呼ばはりて曰く、「慶氏道無く、陳國を專らにせんことを求め、其の君を暴蔑して、其の親を去る。五年にして滅びずんば、是れ天無きなり」と。齊子初めて齊に聘す。禮なり。
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『甲陽軍鑑』品第四十七長坂長閑·跡部大炊助申す、それはあの旁、信玄公御心をよく存ぜられずしてさやう也、あの曲淵ほどの者は旗本の事は申すに及ばず、甲州·信州·上州へかけては二千も三千もあらん、其上主又は寄親をさやうに悪口申す、頭の下知につかざるは大悪事なりとて、則ち長坂長閑·跡部大炊介御機嫌を見合せ、曲淵が板垣弥次郎へ雑言の次第申上る、信玄公聞し召しおほきにわらひ給ふ、
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説苑・雜言祁射子、秦の惠王に見え、惠王之を說ぶ。是に於いて唐姑之を讒し、復た見ゆるに、惠王怒りを懷きて以て之を待つ。其の說く所異なるに非ざるなり、聽く所の易わればなり。故に徵を以て羽と為すは、絃の罪に非ざるなり。甘きを以て苦しと為すは、味を限るの過ちなり。
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論語・顔淵篇子張、明を問う。子曰く、「浸潤の譖、膚受の愬、行われざれば、明と謂う可きのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行われざれば、遠しと謂う可きのみ。」
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『甲陽軍鑑』品第十三ある時両人談合して己々が所領を沢山にとらんと思ひ、扇谷殿へ申けるは、御台所入り是なくして事不弁にましますに、家老衆は江戸河越の国中に徘徊の儀、末の御代にはあの衆の子共扇谷御子孫へ敵対申、御子孫は公方のごとく成給ひ家老衆は両上杉殿御仕合に少シもたがひ申まじ、御分別有べき由申上る処に扇谷殿武州江戸太田道灌を召寄殺し給ふ、是を聞て残る上田·見田·荻谷を始め道灌が一類城主共のことは申に及ばず少しも身を持たる衆大形身がまへをいたし居、
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論語・憲問篇公伯寮、子路を季孫に愬う。子服景伯以て告げて曰く、「夫子固より公伯寮に惑志有り。吾が力猶お能く諸を市朝に肆さん。」子曰く、「道の将に行われんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。公伯寮其れ命を如何せん。」
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