甲陽軍鑑 / 品第十三
大身衆の思ひつき申ことは先關東中の久しき家にて、其大將の幼少成には其家の覺有老ともに、則ち主の知行を分て下され守たてよと仰付らるゝに付ては、主も被官もいぎなく管領公の御爲大切に存ずること日々に新なるべしなとゝ申す、是も一理は尤もなれば管領則政公大きに合點まします故、關東にて結城にたがや千葉に原はらに高木兩さかゐなどとて、主より大きなる知行取の有は、此時代より始まる、其知行取る者ども扨て則政公は名大將にて管領始まりてなき御仕置きと譽め奉つるにより、則政公思し召すは面白き分別をして我に名を取ヲするとて、すがの·上原次第に何事も則政公し給ふ故、よの家老衆のいさめ少しも許容を加へ給はず候、
新字:大身衆の思ひつき申ことは先関東中の久しき家にて、其大将の幼少成には其家の覚有老ともに、則ち主の知行を分て下され守たてよと仰付らるゝに付ては、主も被官もいぎなく管領公の御為大切に存ずること日々に新なるべしなとゝ申す、是も一理は尤もなれば管領則政公大きに合点まします故、関東にて結城にたがや千葉に原はらに高木両さかゐなどとて、主より大きなる知行取の有は、此時代より始まる、其知行取る者ども扨て則政公は名大将にて管領始まりてなき御仕置きと誉め奉つるにより、則政公思し召すは面白き分別をして我に名を取ヲするとて、すがの·上原次第に何事も則政公し給ふ故、よの家老衆のいさめ少しも許容を加へ給はず候、
書き下し
大身衆の思ひつき申ことは先関東中の久しき家にて、其大将の幼少成には其家の覚有老ともに、則ち主の知行を分て下され守たてよと仰付らるゝに付ては、主も被官もいぎなく管領公の御為大切に存ずること日々に新なるべしなとゝ申す、是も一理は尤もなれば管領則政公大きに合点まします故、関東にて結城にたがや千葉に原はらに高木両さかゐなどとて、主より大きなる知行取の有は、此時代より始まる、其知行取る者ども扨て則政公は名大将にて管領始まりてなき御仕置きと誉め奉つるにより、則政公思し召すは面白き分別をして我に名を取ヲするとて、すがの·上原次第に何事も則政公し給ふ故、よの家老衆のいさめ少しも許容を加へ給はず候、
現代語訳
大身衆の心を寄せ申すことは、まず関東中の古い家で、その大将が幼少である時には、その家の覚えある年寄どもに、すなわち主の知行を分けて下され、守り立てよと仰せ付けられるなら、主も被官も異議なく管領公の御ためを大切に思うことが日々に新たになるでしょう、などと申す。これも一理はもっともなので、管領則政公は大いに合点なされたゆえ、関東で結城に多賀谷、千葉に原、両酒井などといって、主より大きな知行取がいるのはこの時代から始まる。その知行を取る者どもは、さて則政公は名大将で、管領始まって以来の御仕置きだと褒め奉ったので、則政公は、面白い分別をして自分に名を取らせたと思し召し、すがの・上原次第に何事もなさるので、ほかの家老衆の諫めは少しも許容されなかった。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十四それより勝頼公つよくはたらかんとし給ひ、つよみを過しておくれを取り給ふ、勝頼公强過て国を破り給はんこと疑あるまじ、侍の軽薄にほめ奉るをよきと思し食すは、全体牛が尾の劒をねぶり、舌をきらして死するを知らず候に、ひとしければこそ、此本を四君子命期の巻とは名づくるなり仍て如件天正三年乙亥年六月吉日高坂弾正書之長坂長閑老跡部大炊助殿参
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『春秋左氏伝』桓公十三年 莫敖屈瑕の敗死十三年春、楚の屈瑕羅を伐つ。鬬伯比之を送る。還りて、其の禦に謂ひて曰く、「莫敖必ず敗れん。趾を舉ぐること高し、心固からず」と。遂に楚子に見えて曰く、「必ず師を濟せ」と。楚子焉を辭す。入りて夫人鄧曼に告ぐ。鄧曼曰く、「大夫は其れ眾の謂に非ず。其れ君の小民を撫するに信を以てし、諸司を訓ふるに德を以てし、而して莫敖を威すに刑を以てするを謂ふなり。莫敖は蒲騷の役に狃れ、將に自ら用ゐんとす。必ず羅を小とせん。君若し鎮撫せずんば、其れ備へを設けざらんか。夫れ固より君の眾を訓へて好く之を鎮撫し、諸司を召して之に勸むるに令德を以てし、莫敖を見て諸に天の假易せざるを告げよと謂ふなり。然らずんば、夫れ豈に楚の師の盡く行くを知らざらんや」と。楚子賴人をして之を追はしむ。及ばず。莫敖師に徇へしめて曰く、「諫むる者は刑有り」と。鄢に及び、次を亂して以て濟る。遂に次無く、且つ備へを設けず。羅に及ぶ。羅と盧戎と兩つながら之に軍す。大いに之を敗る。莫敖荒谷に縊れ、群帥冶父に囚へられて以て刑を聽く。楚子曰く、「孤の罪なり」と。皆之を免す。宋多く賂を鄭に責む。鄭命に堪へず。故に紀・魯を以て齊及び宋・衛・燕と戰ふ。戰ふ所を書せざるは、後るればなり。鄭人來りて好を修めんことを請ふ。
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『呻吟語』内篇・修身・我に一善有り、又た何ぞ妒まん人の善を稱するは、我に一善有り。又た何ぞ妒まんや。人の惡を稱するは、我に一惡有り。又た何ぞ毀らんや。
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『甲陽軍鑑』品第十二よき大将は軍の時悉く皆我ざいをもつて勝利を得給ひても、主の手抦とはなくして、近習·小姓·小殿原·若党·小人·中間衆迄も誉たて、皆あれらが働きをもつて合に勝たりト教育。故に如此の大時の上には大名小名点〓之若蠶小武辺おぼへの者多く出る本ニハ「さを以てや、動いて、いは得云者なり、然は慎之公宜ふは将将の為に絶てももは多若夢·中間小者は尊近合廿人衆·小人·中間衆に一きだ て入念を入給ひ、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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