甲陽軍鑑 / 品第十三
爰に長尾いげん入道とて上杉家の功者にて、北條家のこと則政公へ度々諫を申し、則政公合點ありて又崇敬有る、すがの·上原に相尋ね給へば、上原兵庫·すがの大膳兩人申上るいげん入道さすがの者にて候へ共、老耄仕り功者も跡になる分別にて候、子細は北條小敵にて候へば誅罰せんこと何時にも罷成べし、夫は余り安きことな親しまれり、さるに付てはたゞ御手前の大身衆によくしみられ給ふやう成を我々は肝要に分別仕り候、
新字:爰に長尾いげん入道とて上杉家の功者にて、北条家のこと則政公へ度々諫を申し、則政公合点ありて又崇敬有る、すがの·上原に相尋ね給へば、上原兵庫·すがの大膳両人申上るいげん入道さすがの者にて候へ共、老耄仕り功者も跡になる分別にて候、子細は北条小敵にて候へば誅罰せんこと何時にも罷成べし、夫は余り安きことな親しまれり、さるに付てはたゞ御手前の大身衆によくしみられ給ふやう成を我々は肝要に分別仕り候、
書き下し
爰に長尾いげん入道とて上杉家の功者にて、北条家のこと則政公へ度々諫を申し、則政公合点ありて又崇敬有る、すがの·上原に相尋ね給へば、上原兵庫·すがの大膳両人申上るいげん入道さすがの者にて候へ共、老耄仕り功者も跡になる分別にて候、子細は北条小敵にて候へば誅罰せんこと何時にも罷成べし、夫は余り安きことな親しまれり、さるに付てはたゞ御手前の大身衆によくしみられ給ふやう成を我々は肝要に分別仕り候、
現代語訳
ここに長尾いげん入道という上杉家の功者がいて、北条家のことを則政公へ度々諫め申し、則政公も合点されてまた崇敬されたが、すがの・上原にお尋ねになると、上原兵庫・すがの大膳の両人が申し上げるには、いげん入道はさすがの者ではございますが、老耄して、功者も後になる分別でございます。子細は、北条は小敵ですから誅罰することはいつでもできます。それはあまりに易いことです。それにつけては、ただ御手前の大身衆によく慕われなさるようにするのを、我々は肝要と分別いたします。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』昭公二十七年 知者は讒を除きて自ら安んず仁者は人を殺して以って謗りを掩ふすら、猶ほ為さざるなり。今吾子人を殺して以って謗りを興して、圖らず、亦た異ならずや。夫れ無極は楚の讒人なり。民知らざる莫し。朝吳を去り、蔡侯朱を出だし、太子建を喪ひ、連尹奢を殺し、王の耳目を屏(おほ)ひて、聰明ならざらしむ。然らずんば、平王の溫惠共儉、成・莊に過ぐる有りて、及ばざる無し。諸侯を獲ざりし所以は、邇(ちか)づくるに無極を以ってすればなり。今又三不辜を殺して、以って大謗を興し、幾ど子に及ばんとす。子にして圖らずんば、將た焉んぞ之を用ゐん。夫れ鄢將師、子の命を矯りて、以って三族を滅ぼす。國の良なり、而して位に愆(あやま)たず。吳新たに君有り、疆埸(きゃうえき)日に駭く。楚國若し大事有らば、子其れ危ふからん。知者は讒を除きて以って自ら安んず。今子は讒を愛して以って自ら危ふくす。甚だしいかな其の惑へるや」と。子常曰く、「是れ瓦の罪なり。敢へて良く圖らざらんや」と。
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『甲陽軍鑑』品第十三某関東の侍たちに馬の目利をとふたれば東西にて母に離れぬも、よき馬になる離なれて草を食は、なを能キ馬に成ル、つきつ離れつする馬は後、夫馬に成てもおもき荷持事ならず、遠き路もならず、やす馬と是をいふ、如レ此畜生さへ機の展転するはあしきに、いはんや日本六十余州において西国に大内殿、関東に上杉殿とて、都を持つ人よりは人数持の大身が、よき家老のよき諫を聞しらでしかも我に忠節したる本間江州·井又左近を、すがの·上原両人に讒言せられて始め誉たる口を引かへ、又あしう仰らるゝはたゝ二ツ三ツの童のごとし、
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史記 李斯列伝丞相の長男李由は三川の守為り。楚の盗陳勝等は皆丞相の傍県の子なり。故を以て楚の盗公行し、三川を過ぐるも、城守りて撃つを肯ぜず。高聞く、其の文書相往来すと。未だ其の審らかなるを得ず。故に未だ敢て以て聞せず。且つ丞相は外に居りて、権は陛下より重し」と。二世以て然りと為す。丞相を案ぜんと欲するも、其の審らかならざるを恐れ、乃ち人をして三川の守の盗と通ずる状を案験せしむ。李斯之を聞く。是の時二世甘泉に在り、方に觳抵優俳の観を作す。李斯見ゆるを得ず、因りて書を上りて趙高の短を言ひて曰く、「臣之を聞く、臣其の君を疑へば、国を危ふくせざる無し。妾其の夫を疑へば、家を危ふくせざる無しと。今大臣有りて陛下に於て利を擅にし害を擅にし、陛下と異なる無し。此れ甚だ便ならず。昔者司城子罕宋に相たり、身づから刑罰を行ひ、威を以て之を行ふ。朞年にして遂に其の君を劫かす。田常は簡公の臣と為り、爵列国に敵無く、私家の富は公家と均し。恵を布き徳を施し、下は百姓を得、上は群臣を得、陰かに斉国を取り、宰予を庭に殺し、即ち簡公を朝に弑し、遂に斉国を有つ。此れ天下の明らかに知る所なり。今高は邪佚の志、危反の行ひ有ること、子罕の宋に相たるが如きなり。私家の富は、田氏の斉に於けるが若きなり。田常・子罕の逆道を兼ね行ひて陛下の威信を劫かす。其の志は韓玘の韓安の相と為るが若きなり。陛下図らずんば、臣其の変を為さんことを恐る」と。二世曰く、「何ぞや。夫れ高は、故の宦人なり。然れども安きを為して志を肆にせず、危ふきを以て心を易へず、行ひを潔くし善を修め、自ら此に至らしむ。忠を以て進むを得、信を以て位を守る。朕実に之を賢とす。而るに君之を疑ふは、何ぞや。且つ朕少くして先人を失ひ、識知する所無く、民を治むるに習はず。而して君又老い、恐らくは天下と絶えん。朕趙君に属せずんば、当に誰にか任ずべき。
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史記 屈原賈生列伝屈平既に絀けらる。其の後秦斉を伐たんと欲す。斉と楚と従親す。恵王之を患ふ。乃ち張儀をして詳りて秦を去り、厚幣もて質を委ねて楚に事へしめて曰く、「秦は甚だ斉を憎む。斉と楚と従親す。楚誠に能く斉と絶たば、秦は商・於の地六百里を献ぜんことを願ふ」と。楚の懐王貪りて張儀を信じ、遂に斉と絶ち、使をして秦に如きて地を受けしむ。張儀之を詐りて曰く、「儀は王と六里を約せり。六百里を聞かず」と。楚の使怒りて去り、帰りて懐王に告ぐ。懐王怒り、大いに師を興して秦を伐つ。秦兵を発して之を撃ち、大いに楚の師を丹・淅に破り、首を斬ること八万、楚将屈丐を虜にし、遂に楚の漢中の地を取る。懐王乃ち悉く国中の兵を発して以て深く入りて秦を撃ち、藍田に戦ふ。魏之を聞き、楚を襲ひて鄧に至る。楚兵懼れ、秦より帰る。而して斉竟に怒りて楚を救はず。楚大いに困しむ。明年、秦漢中の地を割きて楚に与へ以て和す。楚王曰く、「地を得るを願はず。張儀を得て心を甘んぜんことを願ふ」と。張儀聞き、乃ち曰く、「一儀を以て漢中の地に当つ。臣請ふ往きて楚に如かん」と。楚に如き、又因りて厚幣もて事を用ふる者の臣靳尚に用ひ、而して詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く。懐王竟に鄭袖に聴き、復た張儀を釈し去らしむ。是の時屈平既に疏んぜられ、復た位に在らず。斉に使ひし、顧反し、懐王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を殺さざる」と。懐王悔い、張儀を追へども及ばず。其の後諸侯共に楚を撃ち、大いに之を破り、其の将唐眛を殺す。時に秦の昭王楚と婚し、懐王と会せんと欲す。懐王行かんと欲す。屈平曰く、「秦は虎狼の国なり。信ずべからず。行くこと毋きに如かず」と。懐王の稚子子蘭、王に行くを勧む。「奈何ぞ秦の歓を絶たん」と。懐王卒に行く。武関に入る。秦伏兵もて其の後を絶ち、因りて懐王を留め、以て地を割かんことを求む。懐王怒り、聴かず。亡げて趙に走る。趙内れず。復た秦に之き、竟に秦に死して帰葬せらる。
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史記 刺客列伝其の後秦日に兵を山東に出だして以て斉・楚・三晋を伐ち、稍く諸侯を蚕食し、且に燕に至らんとす。燕の君臣皆禍の至らんことを恐る。太子丹之を患ひ、其の傅鞠武に問ふ。武対へて曰く、「秦の地は天下に遍く、韓・魏・趙氏を威脅す。北に甘泉・谷口の固め有り、南に涇・渭の沃有り、巴・漢の饒を擅にし、隴・蜀の山を右にし、関・殽の険を左にす。民衆くして士厲しく、兵革余り有り。意出だす所有らば、則ち長城の南、易水以北、未だ定まる所有らず。柰何ぞ陵がるるの怨みを以て、其の逆鱗を批かんと欲するや」と。丹曰く、「然らば則ち何に由らん」と。対へて曰く、「請ふ入りて之を図らん」と。居ること閒有りて、秦将樊於期罪を秦王に得て、亡げて燕に之く。太子受けて之を舎す。鞠武諫めて曰く、「不可なり。夫れ秦王の暴を以て怒りを燕に積む、寒心するに足る。又況んや樊将軍の在る所を聞くをや。是れ『肉を委ねて餓虎の蹊に当つ』と謂ふなり。禍必ず振はざらん。管・晏有りと雖も、之が為に謀る能はざるなり。願はくは太子疾く樊将軍を遣りて匈奴に入れ以て口を滅せよ。請ふ西のかた三晋と約し、南のかた斉・楚と連なり、北のかた単于に購はん。其の後乃ち図るべきなり」と。太子曰く、「太傅の計は、日を曠しくし弥々久し。心惛然として、恐らくは須臾する能はず。且つ独り此のみに非ざるなり。夫れ樊将軍は天下に窮困し、身を丹に帰す。丹終に彊秦に迫らるるを以て哀憐する所の交はりを棄て、之を匈奴に置かず。是れ固より丹の命卒るの時なり。願はくは太傅更に之を慮れ」と。鞠武曰く、「夫れ危ふきを行ひて安きを求め、禍を造りて福を求め、計浅くして怨み深く、一人の後交を連結して、国家の大害を顧みず、此れ所謂『怨みに資して禍を助く』なり。夫れ鴻毛を以て炉炭の上に燎く、必ず事無からん。且つ鵰鷙の秦を以て、怨暴の怒りを行ふ、豈に道ふに足らんや。
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『甲陽軍鑑』品第十四長坂長閑·跡部大炊介殿就中右申す、長篠合戦に、馬塲美濃守·山県三郎兵衛·内藤修理正三人三ヶ条の諫を申たると、阿部加賀守がかたり候大敵にあふては、隠れ遊をなさるゝ物と聞及び申候間、先づ甲州へ馬を入給ひ、信長·家康きほひかゝつて跡をしたひ申さば、信濃の内迄入ルたて、一合戦被成ば、そこにては敵大軍なり共、勝頼公の御勝ならんと申すに、長坂長閑申すは、新羅三郎公より武田始りて信玄公迄廿七代の間、敵を見て引き籠り給ふことなきに、廿八代目勝頼公の御代にけんをまはし給はんこといかどと申すに付き、勝頼公其儀に任せ引入給はず、
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