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史記 / 燕召公世家

燕兵獨追北,入至臨淄,盡取齊寶,燒其宮室宗廟。齊城之不下者,獨唯聊、莒、卽墨,其餘皆屬燕,六歳。昭王三十三年卒,子惠王立。惠王爲太子時,与樂毅有隙;及即位,疑毅,使騎劫代將。樂毅亡走趙。齊田單以即墨擊敗燕軍,騎劫死,燕兵引歸,齊悉复得其故城。閔王死于莒,乃立其子爲襄王。惠王七年卒。韓、魏、楚共伐燕。燕武成王立。武成王七年,齊田單伐我,拔中陽。十三年,秦敗趙於長平四十餘萬。十四年,武成王卒,子孝王立。孝王元年,秦圍邯鄲者解去。三年卒,子今王喜立。今王喜四年,秦昭王卒。燕王命相栗腹約歡趙,以五百金爲趙王酒。還報燕王曰:「趙王壯者皆死長平,其孤未壯,可伐也。」王召昌國君樂閒問之。對曰:「趙四戰之國,其民習兵,不可伐。」王曰:「吾以五而伐一。」對曰:「不可。」燕王怒,群臣皆以爲可。卒起二軍,車二千乘,栗腹將而攻鄗,卿秦攻代。唯獨大夫將渠謂燕王曰:「與人通關約交,以五百金飲人之王,使者報而反攻之,不祥,兵無成功。」燕王不聽,自將偏軍隨之。將渠引燕王綬止之曰:「王必無自往,往無成功。」王蹵之以足。將渠泣曰:「臣非以自爲,爲王也!」燕軍至宋子,趙使廉頗將,撃破栗腹於鄗。樂乘破卿秦於代。

新字:燕兵独追北,入至臨淄,尽取斉宝,焼其宮室宗廟。斉城之不下者,独唯聊、莒、即墨,其余皆属燕,六歳。昭王三十三年卒,子恵王立。恵王為太子時,与楽毅有隙;及即位,疑毅,使騎劫代将。楽毅亡走趙。斉田単以即墨撃敗燕軍,騎劫死,燕兵引帰,斉悉复得其故城。閔王死于莒,乃立其子為襄王。恵王七年卒。韓、魏、楚共伐燕。燕武成王立。武成王七年,斉田単伐我,抜中陽。十三年,秦敗趙於長平四十余万。十四年,武成王卒,子孝王立。孝王元年,秦囲邯鄲者解去。三年卒,子今王喜立。今王喜四年,秦昭王卒。燕王命相栗腹約歓趙,以五百金為趙王酒。還報燕王曰:「趙王壮者皆死長平,其孤未壮,可伐也。」王召昌国君楽閒問之。対曰:「趙四戦之国,其民習兵,不可伐。」王曰:「吾以五而伐一。」対曰:「不可。」燕王怒,群臣皆以為可。卒起二軍,車二千乗,栗腹将而攻鄗,卿秦攻代。唯独大夫将渠謂燕王曰:「与人通関約交,以五百金飲人之王,使者報而反攻之,不祥,兵無成功。」燕王不聴,自将偏軍随之。将渠引燕王綬止之曰:「王必無自往,往無成功。」王蹵之以足。将渠泣曰:「臣非以自為,為王也!」燕軍至宋子,趙使廉頗将,撃破栗腹於鄗。楽乗破卿秦於代。

書き下し

燕の兵独り北ぐるを追ひ、入りて臨淄に至り、尽く斉の宝を取り、其の宮室宗廟を焼く。斉の城の下らざる者は、独り唯だ聊・莒・即墨のみ。其の余は皆燕に属すること、六歳。昭王三十三年にして卒し、子の恵王立つ。恵王の太子為りし時、楽毅と隙有り。即位するに及びて、毅を疑ひ、騎劫をして代はりて将たらしむ。楽毅亡げて趙に走る。斉の田単即墨を以て撃ちて燕の軍を敗り、騎劫死し、燕の兵引き帰り、斉悉く復た其の故城を得たり。閔王莒に死し、乃ち其の子を立てて襄王と為す。恵王七年にして卒す。韓・魏・楚共に燕を伐つ。燕の武成王立つ。武成王の七年、斉の田単我を伐ち、中陽を抜く。十三年、秦趙を長平に敗ること四十余万。十四年、武成王卒し、子の孝王立つ。孝王の元年、秦の邯鄲を囲む者解き去る。三年にして卒し、子の今王喜立つ。今王喜の四年、秦の昭王卒す。燕王相の栗腹に命じて歓を趙に約し、五百金を以て趙王の酒と為さしむ。還りて燕王に報じて曰く、「趙王の壮者は皆長平に死し、其の孤は未だ壮ならず、伐つべきなり」と。王、昌国君楽間を召して之を問ふ。対へて曰く、「趙は四戦の国なり。其の民兵に習ふ。伐つべからず」と。王曰く、「吾五を以て一を伐たん」と。対へて曰く、「不可なり」と。燕王怒り、群臣皆以て可と為す。卒に二軍を起こし、車二千乗、栗腹将として鄗(こう)を攻め、卿秦代を攻む。唯だ独り大夫将渠燕王に謂ひて曰く、「人と関を通じ交はりを約し、五百金を以て人の王に飲ましめ、使者報じて反って之を攻むるは、不祥なり。兵に成功無からん」と。燕王聴かず、自ら偏軍を将ゐて之に随ふ。将渠燕王の綬を引きて之を止めて曰く、「王必ず自ら往くこと無かれ。往くも成功無からん」と。王之を蹵(け)るに足を以てす。将渠泣きて曰く、「臣は以て自らの為にするに非ず、王の為なり」と。燕の軍宋子に至る。趙廉頗をして将たらしめ、撃ちて栗腹を鄗に破る。楽乗卿秦を代に破る。

現代語訳

燕軍だけが敗走する斉軍を追って都の臨淄に入り、斉の宝物をことごとく奪い、宮殿や祖先の廟を焼き払った。斉の城で降伏しなかったのは聊・莒・即墨の三つだけで、残りはみな六年にわたって燕の支配下に置かれた。昭王は在位三十三年で亡くなり、子の恵王が立った。恵王は太子のころから楽毅と仲が悪く、即位すると楽毅を疑い、騎劫を代わりに将軍とした。楽毅は趙に亡命した。斉の田単が即墨から反撃して燕軍を破り、騎劫は戦死し、燕軍は退却して、斉は奪われた城をすべて取り戻した。閔王(湣王)は莒で死んでおり、斉はその子を立てて襄王とした。恵王は在位七年で亡くなった。韓・魏・楚が共に燕を攻めた。燕では武成王が立った。武成王の七年、斉の田単が燕を攻めて中陽を落とした。十三年、秦が長平で趙を破り、四十余万人を殺した。十四年、武成王が亡くなり、子の孝王が立った。孝王の元年、邯鄲を包囲していた秦軍が囲みを解いて去った。孝王は在位三年で亡くなり、子の今王喜(き)が立った。今王喜の四年、秦の昭王が亡くなった。燕王は宰相の栗腹に命じて趙と友好を結ばせ、五百金を趙王の酒宴の費用として贈らせた。栗腹は帰ってきて燕王に報告した。「趙の壮年の男はみな長平で死に、その遺児たちはまだ成長していません。攻めるなら今です」。王は昌国君の楽間(楽毅の子)を呼んで意見を聞いた。楽間は答えた。「趙は四方を敵に囲まれて戦い続けてきた国で、民は戦いに慣れている。攻めてはなりません」。王は言った。「わが方は五倍の兵で一を攻めるのだ」。楽間は答えた。「それでもいけません」。燕王は怒り、群臣はみな攻めるべきだと言った。こうしてついに二つの軍を起こし、戦車二千乗をそろえ、栗腹が率いて鄗(こう)を攻め、卿秦が代を攻めた。ただ一人、大夫の将渠だけが燕王に言った。「相手と国境を開いて友好を約し、五百金で相手の王に酒をふるまっておきながら、使者が戻るやいなや攻めるのは不吉だ。戦いは成功しないでしょう」。燕王は聞き入れず、自ら別働隊を率いて後に続いた。将渠は燕王の印綬を引いて引き止め、「王は決してご自身で行ってはなりません。行っても成功しません」と言った。王は将渠を足で蹴った。将渠は泣いて言った。「私は自分のために申し上げているのではありません。王のためなのです」。燕軍は宋子に到着した。趙は廉頗を将軍として、鄗で栗腹を撃破し、楽乗が代で卿秦を破った。

解説

燕の絶頂と転落が続けて語られます。楽毅は斉の七十余城を落として六年も支配しましたが、昭王の死後、恵王が私的な不仲から楽毅を退けたため、田単の反撃で成果はすべて失われます。後半は燕王喜の時代で、友好の使者を送った直後に「趙は長平で壮年を失ったから今が好機」と攻め込む話です。楽間は趙が戦い慣れた国だと諫め、将渠は信義に背く戦は不吉だと泣いて止めますが、王は将渠を蹴りつけ、結果は廉頗に大敗します。優れた人材を好き嫌いで外すこと、数の優位を過信すること、耳の痛い諫言を退けることが、どれも失敗の典型として描かれています。約束を裏切る判断は、相手だけでなく自分たちの士気もむしばむのです。

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