甲陽軍鑑 / 品第十二
さる程に今迄もめつけは二十人衆頭、其橫目は小人頭なり、步若黨を上杉家にて身わき衆信玄家にて廿人衆、氏康にて手脇衆を家康は、はしり衆と名付てよぶけに候、甘利寄子の米倉丹後鑓を十三度あはせ頸數の多き中に手抦の高名八ツあり、其上敵味方の到着をみはからひ勝負の勘を信玄公若くまします時分より申上つるに、さのみ違はず、さる故始二十人衆なれども取立し甘利左衛門尉同心に預けをかるゝ、兎角二十人衆·小人·中間衆に念をいるゝは能大將の道理を以てのわざなり、
新字:さる程に今迄もめつけは二十人衆頭、其横目は小人頭なり、歩若党を上杉家にて身わき衆信玄家にて廿人衆、氏康にて手脇衆を家康は、はしり衆と名付てよぶけに候、甘利寄子の米倉丹後鑓を十三度あはせ頸数の多き中に手抦の高名八ツあり、其上敵味方の到着をみはからひ勝負の勘を信玄公若くまします時分より申上つるに、さのみ違はず、さる故始二十人衆なれども取立し甘利左衛門尉同心に預けをかるゝ、兎角二十人衆·小人·中間衆に念をいるゝは能大将の道理を以てのわざなり、
書き下し
さる程に今迄もめつけは二十人衆頭、其横目は小人頭なり、歩若党を上杉家にて身わき衆信玄家にて廿人衆、氏康にて手脇衆を家康は、はしり衆と名付てよぶけに候、甘利寄子の米倉丹後鑓を十三度あはせ頸数の多き中に手抦の高名八ツあり、其上敵味方の到着をみはからひ勝負の勘を信玄公若くまします時分より申上つるに、さのみ違はず、さる故始二十人衆なれども取立し甘利左衛門尉同心に預けをかるゝ、兎角二十人衆·小人·中間衆に念をいるゝは能大将の道理を以てのわざなり、
現代語訳
そうであるから今でも、目付は二十人衆頭、その横目は小人頭である。歩若党を上杉家では身脇衆、信玄家では二十人衆、氏康では手脇衆、家康は走り衆と名付けて呼ぶそうである。甘利の寄子の米倉丹後は、鑓を十三度合わせ、首数の多い中に手柄の高名が八つある。そのうえ敵味方の到着を見計らい、勝負の勘を、信玄公がお若くおられた時分から申し上げていたが、ほとんど違わなかった。それゆえ初めは二十人衆であったけれども、取り立てて甘利左衛門尉の同心に預け置かれた。とにかく二十人衆・小人・中間衆に念を入れるのは、よい大将の道理をもってのわざである。
解説
この章句が説くこと
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