甲陽軍鑑 / 品第十二
其のごとくなる家中にては老衆·出頭衆又かせ者·小者迄意地きたなくなり、人をぬかんと存するに付、主は被官に物も給はらずしてつかはんと思ひ、被官は主に忠節·忠功·番·普請·供·使の奉公もせずして、僞をもつて扶持給を取らんと思ふ故、かせ者小者給を取ため引こみ候間、奉公人多く塩肴など賣商人に成ものなり、能き大將の下にては町人も奉公人に成たがるといへども、諸侍町人をつかはす、又百姓は意地すねたる物にて、奉公しても後は覺の者に成こと多し、町人はかざる者なれば武士には成兼申候、
新字:其のごとくなる家中にては老衆·出頭衆又かせ者·小者迄意地きたなくなり、人をぬかんと存するに付、主は被官に物も給はらずしてつかはんと思ひ、被官は主に忠節·忠功·番·普請·供·使の奉公もせずして、偽をもつて扶持給を取らんと思ふ故、かせ者小者給を取ため引こみ候間、奉公人多く塩肴など売商人に成ものなり、能き大将の下にては町人も奉公人に成たがるといへども、諸侍町人をつかはす、又百姓は意地すねたる物にて、奉公しても後は覚の者に成こと多し、町人はかざる者なれば武士には成兼申候、
書き下し
其のごとくなる家中にては老衆·出頭衆又かせ者·小者迄意地きたなくなり、人をぬかんと存するに付、主は被官に物も給はらずしてつかはんと思ひ、被官は主に忠節·忠功·番·普請·供·使の奉公もせずして、偽をもつて扶持給を取らんと思ふ故、かせ者小者給を取ため引こみ候間、奉公人多く塩肴など売商人に成ものなり、能き大将の下にては町人も奉公人に成たがるといへども、諸侍町人をつかはす、又百姓は意地すねたる物にて、奉公しても後は覚の者に成こと多し、町人はかざる者なれば武士には成兼申候、
現代語訳
そのような家中では、年寄衆・出頭衆、また悴者・小者まで意地汚くなり、人を出し抜こうと思うので、主は被官に物も与えずに使おうと思い、被官は主に忠節・忠功・番・普請・供・使いの奉公もせずに、偽りをもって扶持や給金を取ろうと思うので、悴者・小者は給金を取り貯めて引っ込むゆえ、奉公人の多くは塩肴などを売る商人になるものである。よい大将の下では町人も奉公人になりたがるけれども、侍は町人を使う。また百姓は意地がすねた者で、奉公しても後には覚えの者になることが多い。町人は飾る者なので、武士にはなりかねるのである。
解説
この章句が説くこと
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