甲陽軍鑑 / 品第十二
但し又謙信管領に經上り、諸大名衆を俄かに被官のごとくに被仕、あらき仕置き故へ、謙信へ心をはなし、もとの氏康へ大方歸參する中にも、成田長康は鎌倉より、謙信社參の祝にもあはず引きはらふ、景虎上野の平井迄やう〳〵曳き取り給ふ、こにだは皆な地のゝ人等うばひとる、そこにてざれごとながら一しゆかくのごとし刀みかたにもてきにもはやく成田殿ながやすかたなきれもはなれすと讀て謙信公は越後へ歸陣なり、其跡にてはじめ程こそなけれ共、上杉家の衆都合六萬餘の北條へ降參する故、伊豆·相摸の人數をそへ今氏政公迄も北條けの惣着到七萬五百なり、近國のおさへを丈夫に置給へども、今に至て氏政公出張の時は、四萬或は三萬五千よりすこしくはなし、
新字:但し又謙信管領に経上り、諸大名衆を俄かに被官のごとくに被仕、あらき仕置き故へ、謙信へ心をはなし、もとの氏康へ大方帰参する中にも、成田長康は鎌倉より、謙信社参の祝にもあはず引きはらふ、景虎上野の平井迄やう〳〵曳き取り給ふ、こにだは皆な地のゝ人等うばひとる、そこにてざれごとながら一しゆかくのごとし刀みかたにもてきにもはやく成田殿ながやすかたなきれもはなれすと読て謙信公は越後へ帰陣なり、其跡にてはじめ程こそなけれ共、上杉家の衆都合六万余の北条へ降参する故、伊豆·相摸の人数をそへ今氏政公迄も北条けの惣着到七万五百なり、近国のおさへを丈夫に置給へども、今に至て氏政公出張の時は、四万或は三万五千よりすこしくはなし、
書き下し
但し又謙信管領に経上り、諸大名衆を俄かに被官のごとくに被仕、あらき仕置き故へ、謙信へ心をはなし、もとの氏康へ大方帰参する中にも、成田長康は鎌倉より、謙信社参の祝にもあはず引きはらふ、景虎上野の平井迄やう〳〵曳き取り給ふ、こにだは皆な地のゝ人等うばひとる、そこにてざれごとながら一しゆかくのごとし刀みかたにもてきにもはやく成田殿ながやすかたなきれもはなれすと読て謙信公は越後へ帰陣なり、其跡にてはじめ程こそなけれ共、上杉家の衆都合六万余の北条へ降参する故、伊豆·相摸の人数をそへ今氏政公迄も北条けの惣着到七万五百なり、近国のおさへを丈夫に置給へども、今に至て氏政公出張の時は、四万或は三万五千よりすこしくはなし、
現代語訳
ただしまた謙信は管領職に上り、諸大名衆を急に被官のように扱い、荒い仕置きであったので、謙信から心を離し、もとの氏康へ大方が帰参する中にも、成田長康は鎌倉から、謙信の社参の祝いにも会わずに引き払った。景虎はようやく上野の平井まで引き取られた。小荷駄は皆その地の人々が奪い取った。そこで戯れ言ながら一首このように詠んだ。「みかたにも敵にも早く成田殿、長康刀切れも離れず」と詠んで、謙信公は越後へ帰陣された。その後、始めほどではないけれども、上杉家の衆は都合六万余りが北条へ降参したので、伊豆・相模の人数を添えて、今の氏政公に至るまで北条家の総着到は七万五百である。近国の押さえを丈夫に置かれてはいるが、今でも氏政公が出陣される時は四万あるいは三万五千を下ることはない。
解説
この章句が説くこと
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言志四録・言志晩録 第百五十一条 人情の向背は敬と慢に在り人情の向背は、敬と慢とに在り。施しの道も、亦忽せにすべきに非ず。恩怨或いは小事より起こる。慎むべし。
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