甲陽軍鑑 / 品第十二
中にも河越の夜軍には、兩上杉殿八萬の人數を氏康公八千にて伐かち、氏康手にかけ十四人長刀をもつてきりおとし給ふ、ケ樣の手抦故氏康卅七歲と申に、天文二十年辛亥に、上杉殿を追くづし、北條氏康おほき成勝と成て、則ち上杉家の藤田右衛門の助武藏の天神山に城あり、此者を始め小幡·三河·成田等氏康方に成てより、上杉殿の家老悉く心かはり、終に上杉殿を追出す、上杉殿御曹司龍若殿と申て十三に成り給ふを、六人の乳母の子共談合して、いざや此若を土產にして北條殿へ罷出んとて、氏康公へ龍若殿を具足し申し、小番衆の神尾と申す侍に申し付けられ、彼の龍若殿の頸をきり奉つる、不思儀なり神尾今まで一一代三病をわづらう氏康にて小番衆信玄家にて近習のことなり、
新字:中にも河越の夜軍には、両上杉殿八万の人数を氏康公八千にて伐かち、氏康手にかけ十四人長刀をもつてきりおとし給ふ、ケ様の手抦故氏康卅七歳と申に、天文二十年辛亥に、上杉殿を追くづし、北条氏康おほき成勝と成て、則ち上杉家の藤田右衛門の助武蔵の天神山に城あり、此者を始め小幡·三河·成田等氏康方に成てより、上杉殿の家老悉く心かはり、終に上杉殿を追出す、上杉殿御曹司竜若殿と申て十三に成り給ふを、六人の乳母の子共談合して、いざや此若を土産にして北条殿へ罷出んとて、氏康公へ竜若殿を具足し申し、小番衆の神尾と申す侍に申し付けられ、彼の竜若殿の頸をきり奉つる、不思儀なり神尾今まで一一代三病をわづらう氏康にて小番衆信玄家にて近習のことなり、
書き下し
中にも河越の夜軍には、両上杉殿八万の人数を氏康公八千にて伐かち、氏康手にかけ十四人長刀をもつてきりおとし給ふ、ケ様の手抦故氏康卅七歳と申に、天文二十年辛亥に、上杉殿を追くづし、北条氏康おほき成勝と成て、則ち上杉家の藤田右衛門の助武蔵の天神山に城あり、此者を始め小幡·三河·成田等氏康方に成てより、上杉殿の家老悉く心かはり、終に上杉殿を追出す、上杉殿御曹司竜若殿と申て十三に成り給ふを、六人の乳母の子共談合して、いざや此若を土産にして北条殿へ罷出んとて、氏康公へ竜若殿を具足し申し、小番衆の神尾と申す侍に申し付けられ、彼の竜若殿の頸をきり奉つる、不思儀なり神尾今まで一一代三病をわづらう氏康にて小番衆信玄家にて近習のことなり、
現代語訳
中でも河越の夜軍では、両上杉殿の八万の人数を氏康公が八千で討ち勝ち、氏康は自ら十四人を長刀で斬り落とされた。このような手柄ゆえに、氏康三十七歳という天文二十年辛亥に上杉殿を追い崩し、北条氏康は大勝ちとなった。すなわち上杉家の藤田右衛門佐が武蔵の天神山に城を持っていたが、この者をはじめ小幡・三河・成田らが氏康方になってから、上杉殿の家老は皆心変わりし、ついに上杉殿を追い出した。上杉殿の御曹司で龍若殿といって十三歳になられた方を、六人の乳母の子どもが談合して、さあこの若君を手土産に北条殿へ出ようと、氏康公のもとへ龍若殿を連れて行った。小番衆の神尾という侍に命じられて、その龍若殿の首を斬り申した。(以下「不思儀なり神尾今まで…」の一句は底本ここ判読しがたい。)小番衆とは信玄家でいう近習のことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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史記 魏豹彭越列伝伝へて滎陽に詣らしめ、豹の国を以て郡と為す。漢王豹をして滎陽を守らしむ。楚之を囲むこと急にして、周苛遂に魏豹を殺す。
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『春秋左氏伝』哀公十六年 孔悝の出奔六月、衛侯、孔悝に平陽に酒を飲ましめ、重く之に酬ゆ。大夫皆納るる有り。醉はしめて之を送り、夜半にして之を遣る。伯姬を平陽に載せて行く。西門に及び、貳車をして祏を西圃に反さしむ。子伯季子、初め孔氏の臣たり、新たに公に登る。之を追はんと請ふ。祏を載する者に遇ひ、殺して其の車に乘る。許公為、祏を反す。之に遇ひて曰く、「不仁の人と爭はば、明らかに勝たざる無し」と。必ず先づ射しむ。射ること三發、皆許為に遠し。許為、之を射て殪す。或ひと其の車を以て從ひ、祏を橐中に得たり。孔悝、出でて宋に奔る。楚の大子建の讒に遇ふや、城父より宋に奔る。又華氏の亂を鄭に辟く。鄭人甚だ之を善くす。又晉に適き、晉人と鄭を襲はんことを謀り、乃ち復らんことを求む。鄭人之を復すること初めの如し。晉人、諜を子木に使はし、行を請ひて期す。子木、其の私邑に暴虐なり。
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史記 陳渉世家秦嘉命を受けず、嘉自ら立ちて大司馬と為り、武平君に属するを悪む。軍吏に告げて曰く、「武平君は年少く、兵事を知らず、聴くこと勿かれ」と。因りて矯めて王命を以て武平君畔を殺す。章邯已に伍徐を破り、陳を撃つ、柱国房君死す。章邯又兵を進めて陳の西の張賀の軍を撃つ。陳王出でて戦を監す、軍破れ、張賀死す。臘月、陳王汝陰に之き、還りて下城父に至る、其の御荘賈殺して以て秦に降る。陳勝碭に葬られ、謚して隠王と曰ふ。陳王の故の涓人将軍呂臣倉頭軍と為り、新陽に起こり、陳を攻めて之を下し、荘賈を殺し、復た陳を以て楚と為す。初め、陳王陳に至り、銍の人宋留をして兵を将ゐて南陽を定め、武関に入らしむ。留已に南陽を徇へしも、陳王の死を聞き、南陽復た秦と為る。宋留武関に入る能はず、乃ち東して新蔡に至り、秦軍に遇ひ、宋留軍を以て秦に降る。秦留を伝へて咸陽に至らしめ、留を車裂して以て徇ふ。秦嘉等陳王の軍破れて出走するを聞き、乃ち景駒を立てて楚王と為し、兵を引きて方与に之き、秦軍を定陶の下に撃たんと欲す。公孫慶をして斉王に使ひせしめ、与に力を并せて俱に進まんと欲す。斉王曰く、「陳王戦ひ敗れ、其の死生を知らずと聞く、楚安んぞ請はずして王を立つるを得んや」と。公孫慶曰く、「斉は楚に請はずして王を立つ、楚何の故に斉に請ひて王を立てんや。且つ楚は事を首む、当に天下に令すべし」と。田儋公孫慶を誅殺す。秦の左右の校復た陳を攻め、之を下す。呂将軍走り、兵を収めて復た聚む。鄱の盗当陽君黥布の兵と相収め、復た秦の左右の校を撃ち、之を青波に破り、復た陳を以て楚と為す。会々項梁懐王の孫心を立てて楚王と為す。陳勝王たること凡そ六月。已に王と為り、陳に王たり。其の故人の嘗て与に庸耕せし者之を聞き、陳に之き、宮門を扣きて曰く、「吾渉に見えんと欲す」と。宮門の令之を縛せんと欲す。自ら辯ずること数々にして、乃ち置く、肯へて為に通ぜず。
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『春秋左氏伝』哀公二十五年 衆怒は犯し難し而して大子疾の宮より、譟ぎて以て公を攻む。鄄子士、之を禦がんと請ふ。彌、其の手を援きて曰く、「子は則ち勇なり。將た君を若何せん。先君を見ずや。君、何の所にか欲を逞しくせざらん。且つ君嘗て外に在り。豈に必ずしも反らざらんや。今に當りては可ならず。衆怒は犯し難し。休まば間し易きなり」と。乃ち出づ。將に蒲に適かんとす。彌曰く、「晉は信無し。可ならず」と。將に鄄に適かんとす。彌曰く、「齊・晉、我を爭ふ。可ならず」と。將に泠に適かんとす。彌曰く、「魯は與にするに足らず。請ふ、城鉏に適きて、以て越を鉤かん。越に君有り」と。乃ち城鉏に適く。彌曰く、「衛の盜、知る可からざるなり。請ふ、速かにせよ。我より始めん」と。乃ち寶を載せて以て歸る。公、支離の卒を為り、祝史揮に因りて以て衛を侵す。衛人之を病む。懿子、之を知り、子之に見えて、揮を逐はんと請ふ。文子曰く、「罪無し」と。懿子曰く、「彼、利を專らにするを好みて妄なり。夫れ君の入るを見ば、將に先づ道かんとす。若し之を逐はば、必ず南門より出でて、君の所に適かん。夫れ越は新たに諸侯を得たり。將に必ず師を請はん」と。揮、朝に在り。吏をして諸を其の室より遣らしむ。揮出づ。信するも内れず。五日、乃ち諸を外里に館す。遂に寵有り。越に如きて師を請はしむ。
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『太上感応篇』悪行・悪を以て能と為し、残害を忍作す苟くも或いは義に非ずして動き、理に背きて行ふ。悪を以て能と為し、忍びて残害を作す。良善を陰賊し、君親を暗侮す。其の先生を慢り、其の事ふる所に叛く。
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