甲陽軍鑑 / 品第十二
彌々氏康公の代に伊豆·相摸二ケ國にて、一萬の人數を二千所々の堺目に指置き、八千の軍兵を以て兩上杉家と取合あり、殊更山內上杉公上野の平井居城なれば、武藏·下總·安房·常陸·下野·出羽·奥州·越後·佐渡·信濃·飛彈·上野ともに、十三ケ國の諸侍平井へ出仕して、圍繞渴仰是非に及ばす、旣に大森のきせいあんが書付にも、上杉殿人數二十萬とあり、定て堅く十萬余り有べし、此上杉殿と氏康公十六歲、上杉殿二十七歲享祿三年庚寅より取合はじめ、二十二年の戰に十三度の大合戰有て、氏康公の皆勝利を得、芝居をふまへ給へど、氏康は八千の人數、上杉殿方は二萬·三萬、すくなき時も一萬五千より內の人數にてなき故、一度に國郡を氏康取給ふことかたし、
新字:弥々氏康公の代に伊豆·相摸二ケ国にて、一万の人数を二千所々の堺目に指置き、八千の軍兵を以て両上杉家と取合あり、殊更山内上杉公上野の平井居城なれば、武蔵·下総·安房·常陸·下野·出羽·奥州·越後·佐渡·信濃·飛弾·上野ともに、十三ケ国の諸侍平井へ出仕して、囲繞渇仰是非に及ばす、既に大森のきせいあんが書付にも、上杉殿人数二十万とあり、定て堅く十万余り有べし、此上杉殿と氏康公十六歳、上杉殿二十七歳享禄三年庚寅より取合はじめ、二十二年の戦に十三度の大合戦有て、氏康公の皆勝利を得、芝居をふまへ給へど、氏康は八千の人数、上杉殿方は二万·三万、すくなき時も一万五千より内の人数にてなき故、一度に国郡を氏康取給ふことかたし、
書き下し
弥々氏康公の代に伊豆·相摸二ケ国にて、一万の人数を二千所々の堺目に指置き、八千の軍兵を以て両上杉家と取合あり、殊更山内上杉公上野の平井居城なれば、武蔵·下総·安房·常陸·下野·出羽·奥州·越後·佐渡·信濃·飛弾·上野ともに、十三ケ国の諸侍平井へ出仕して、囲繞渴仰是非に及ばす、旣に大森のきせいあんが書付にも、上杉殿人数二十万とあり、定て堅く十万余り有べし、此上杉殿と氏康公十六歳、上杉殿二十七歳享禄三年庚寅より取合はじめ、二十二年の戦に十三度の大合戦有て、氏康公の皆勝利を得、芝居をふまへ給へど、氏康は八千の人数、上杉殿方は二万·三万、すくなき時も一万五千より内の人数にてなき故、一度に国郡を氏康取給ふことかたし、
現代語訳
いよいよ氏康公の代になると、伊豆・相模の二か国で一万の人数のうち二千を所々の境目に置き、八千の軍兵で両上杉家と戦った。とりわけ山内上杉公は上野の平井を居城とされていたので、武蔵・下総・安房・常陸・下野・出羽・奥州・越後・佐渡・信濃・飛騨・上野と十三か国の諸侍が平井へ出仕し、取り巻いて仰ぎ敬うことは言うまでもなかった。すでに大森のきせいあんの書付にも上杉殿の人数は二十万とある。確かなところで十万余りはあったであろう。この上杉殿と、氏康公十六歳・上杉殿二十七歳の享禄三年庚寅から戦い始め、二十二年の戦いで十三度の大合戦があって、氏康公がすべて勝利を得て戦場を踏みしめられたが、氏康は八千の人数、上杉方は二万・三万、少ない時でも一万五千を下らない人数であったので、一度に国郡を氏康が取られることは難しかった。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十三され共北条家をば小身とていやしみ氏康公出で給へ共、上杉家の人数二万·三万むかい、神奈川·品川·武蔵の府中たかいど·ところ沢·せたがや·などゝいふ所にて氏康と両上杉とつがう八年の取り合ひに、則政公一度も出で給はず少敵とていやしめど、上杉家大将出でざる故、大合戦にもこぜりあひにも、上杉衆皆負けて氏康一度かたずと云ふ事なし、誠に北条家弓矢巳の時とかゝやきばんじまつりごと宜しければ、上杉家の功者共さてあぶなしとつぶやく、
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『甲陽軍鑑』品第十三就中右に申す両上杉取り合ひの義、山ノ内のからう扇谷の家老うちより両大将へ異見して、昔しのごとくぶじになり、年月つもり両上杉ながら父は他界まし〳〵、山内は則政公、扇谷は朝義の代になる、山内則政は永正元年甲子の誕生なれば、享禄三年庚寅に廿七歳にて牛角に直らる、扇谷朝義も此時代なり、是れは歳不承候、扨て又北条家は宗雲公·氏縄公二代にて伊豆·相摸両国おさめ、しかも其年享禄三年庚寅には氏縄公子息氏康公十六歳にて初陣に、武蔵の府中へ出でらるゝ、敵は両上杉なり、北条家の果報いみじきゆへか、上杉家めつきやくの瑞相か両上杉又中わろくなり、北条家と取り合ひの義喩へば三方ろんぎのごとし、
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『甲陽軍鑑』品第十二さて関東氏康公の御仕置き中々能きこと是非に及ばすして、九年の間関東大方北条殿手に付く、但し安房·常陸は敵なり、其余五頭上杉管領公を贔負、いづれ管領十六万の人数七万余まり北条へしたがふ、殊更久我の公方を氏康婿にし給ふ故、一入能く治まり安房佐竹も終には氏康公にほろほされんと申す時、又永禄二年庚申の三月に越後の景虎上杉殿に頼まれ、小田原はす池迄押籠む、
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『甲陽軍鑑』品第十三両上杉殿八万あまりの着到を記す、北条家にて実否一定の合戦なれば、此方には氏康が罷在、合戦は疑べからず、さありて城をよくもたねば後詰はならぬ者なり、後詰ならねば運の合戦は仕がたし、氏康ほどの者こもらせてこそとて、北条左衛門太夫を河越にこめらるゝ、扨て両管領旗本は武蔵の柏原と云ふ所に両上杉なから同座あり、八万余りの人数をもつて河越を取りまく、氏康衆にはかり事ありて四度目に疑かひを散じて、合戦と定めらるゝ、敵大軍なれば旗本を伐りくづすとも、さき衆はまきつめべし、必ず城よりつゐて出べからずと云ふ儀を城内へしらせ度と宣いければ、
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『甲陽軍鑑』品第十二但し又謙信管領に経上り、諸大名衆を俄かに被官のごとくに被仕、あらき仕置き故へ、謙信へ心をはなし、もとの氏康へ大方帰参する中にも、成田長康は鎌倉より、謙信社参の祝にもあはず引きはらふ、景虎上野の平井迄やう〳〵曳き取り給ふ、こにだは皆な地のゝ人等うばひとる、そこにてざれごとながら一しゆかくのごとし刀みかたにもてきにもはやく成田殿ながやすかたなきれもはなれすと読て謙信公は越後へ帰陣なり、其跡にてはじめ程こそなけれ共、上杉家の衆都合六万余の北条へ降参する故、伊豆·相摸の人数をそへ今氏政公迄も北条けの惣着到七万五百なり、近国のおさへを丈夫に置給へども、今に至て氏政公出張の時は、四万或は三万五千よりすこしくはなし、
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『甲陽軍鑑』品第十三氏康公其御年十九·二十なれ共政道かしこくまし〳〵て、少しもはだゆるしを付給はず、働き有時は本間·井又を大事の処へ指越あしく取まはし候はゞ、心のそまぬかり主のために討死しつべしとおぼゆる、されども四年の間堪忍大方様子をきゝ届くれば、大身の分に北条家へ心をそへさる衆、両上杉家に長尾いげん入道をはじめたゞ九人ならでなし、
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