甲陽軍鑑 / 品第十三
され共北條家をば小身とていやしみ氏康公出で給へ共、上杉家の人數二萬·三萬むかい、神奈川·品川·武藏の府中たかいど·ところ澤·せたがや·などゝいふ所にて氏康と兩上杉とつがう八年の取り合ひに、則政公一度も出で給はず少敵とていやしめど、上杉家大將出でざる故、大合戰にもこぜりあひにも、上杉衆皆負けて氏康一度かたずと云ふ事なし、誠に北條家弓矢巳の時とかゝやきばんじまつりごと宜しければ、上杉家の功者共さてあぶなしとつぶやく、
新字:され共北条家をば小身とていやしみ氏康公出で給へ共、上杉家の人数二万·三万むかい、神奈川·品川·武蔵の府中たかいど·ところ沢·せたがや·などゝいふ所にて氏康と両上杉とつがう八年の取り合ひに、則政公一度も出で給はず少敵とていやしめど、上杉家大将出でざる故、大合戦にもこぜりあひにも、上杉衆皆負けて氏康一度かたずと云ふ事なし、誠に北条家弓矢巳の時とかゝやきばんじまつりごと宜しければ、上杉家の功者共さてあぶなしとつぶやく、
書き下し
され共北条家をば小身とていやしみ氏康公出で給へ共、上杉家の人数二万·三万むかい、神奈川·品川·武蔵の府中たかいど·ところ沢·せたがや·などゝいふ所にて氏康と両上杉とつがう八年の取り合ひに、則政公一度も出で給はず少敵とていやしめど、上杉家大将出でざる故、大合戦にもこぜりあひにも、上杉衆皆負けて氏康一度かたずと云ふ事なし、誠に北条家弓矢巳の時とかゝやきばんじまつりごと宜しければ、上杉家の功者共さてあぶなしとつぶやく、
現代語訳
けれども北条家を小身だといやしみ、氏康公が出陣されても、上杉家の人数二万・三万が向かい、神奈川・品川・武蔵の府中・高井戸・所沢・世田谷などという所で、氏康と両上杉が都合八年の取り合いをしたが、則政公は一度も出陣されず、小敵だといやしめたが、上杉家の大将が出ないので、大合戦にも小競り合いにも上杉衆は皆負けて、氏康が一度も勝たないということはなかった。まことに北条家の弓矢が盛りの時と輝き、万事の政もよかったので、上杉家の功者どもは、さてこれは危ないとつぶやく。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十二弥々氏康公の代に伊豆·相摸二ケ国にて、一万の人数を二千所々の堺目に指置き、八千の軍兵を以て両上杉家と取合あり、殊更山内上杉公上野の平井居城なれば、武蔵·下総·安房·常陸·下野·出羽·奥州·越後·佐渡·信濃·飛弾·上野ともに、十三ケ国の諸侍平井へ出仕して、囲繞渴仰是非に及ばす、旣に大森のきせいあんが書付にも、上杉殿人数二十万とあり、定て堅く十万余り有べし、此上杉殿と氏康公十六歳、上杉殿二十七歳享禄三年庚寅より取合はじめ、二十二年の戦に十三度の大合戦有て、氏康公の皆勝利を得、芝居をふまへ給へど、氏康は八千の人数、上杉殿方は二万·三万、すくなき時も一万五千より内の人数にてなき故、一度に国郡を氏康取給ふことかたし、
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『甲陽軍鑑』品第十三就中右に申す両上杉取り合ひの義、山ノ内のからう扇谷の家老うちより両大将へ異見して、昔しのごとくぶじになり、年月つもり両上杉ながら父は他界まし〳〵、山内は則政公、扇谷は朝義の代になる、山内則政は永正元年甲子の誕生なれば、享禄三年庚寅に廿七歳にて牛角に直らる、扇谷朝義も此時代なり、是れは歳不承候、扨て又北条家は宗雲公·氏縄公二代にて伊豆·相摸両国おさめ、しかも其年享禄三年庚寅には氏縄公子息氏康公十六歳にて初陣に、武蔵の府中へ出でらるゝ、敵は両上杉なり、北条家の果報いみじきゆへか、上杉家めつきやくの瑞相か両上杉又中わろくなり、北条家と取り合ひの義喩へば三方ろんぎのごとし、
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『甲陽軍鑑』品第十三されども管領則政公には、両出頭のすがの大膳·上原兵庫是を聞て申しけるは、北条宗雲元来伊豆のいかにもちいさき所より出でたる族の、氏康がなにの深きことあるべき、伊豆·相摸両国持ても北条二人·三人合たる程の大身衆、越後·関東·奥両国へかけては則政公御旗下に五六人も在之、上杉家に伝る衆にも北条程の者は有まじげに、はびこるに付ては則政公旗を出され、たゞ一陣に北条家を誅罰し給はんと、すがの·上原両人の口にて、
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『甲陽軍鑑』品第十三若侍共則政公御馬出は北条家を誅罰今明日の様に各さたあれど則政未練ぎあひにて、ちと臆病にましますか、今年来年と申せとも以上に山内殿馬出し給ふこと更になければ、管領の御馬にて出かぬると申は此時代より始まれり、扨こそ上杉公はわろく思ひければ、ゆだん成大将と是をいふ、扨伊豆の小国より出たる北条といやしむるは一段あしきさたなり、さあらば奥州の大将は皆よからんか非義なり、
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『甲陽軍鑑』品第十三殊更此程我々両人小田原へよき者を指越し承候へば、北条家には何のさたもなく上杉則政公御旗を出されば、めつぽうに究まりたり、其意趣は氏縄が子氏康当年二十二歳に罷成るが、武辺のこと一円心がけず、たど歌斗りよみて罷在り、扨は男色二置するなにとのめばな立ちごと述定。男女のおいやけを大盛代々年では武辺仕さうなる侍なく候処に、当家の家老衆北条家をこともなのめにおぞみ給ふこと、一段聞へぬ儀なり、又本間江州·井又左近両人武略をよく仕たるとのこと、彼両人上杉家へ帰参申度とて皆偽りの作りごとゝ聞へ候縦へ能く仕ても武略は大敵にこそ用る者にて候へ、上杉家の被官よりはらいさき者に何の機遣にて武略なさるべき、当家の各おかしきことを申され候、
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『甲陽軍鑑』品第十二さて関東氏康公の御仕置き中々能きこと是非に及ばすして、九年の間関東大方北条殿手に付く、但し安房·常陸は敵なり、其余五頭上杉管領公を贔負、いづれ管領十六万の人数七万余まり北条へしたがふ、殊更久我の公方を氏康婿にし給ふ故、一入能く治まり安房佐竹も終には氏康公にほろほされんと申す時、又永禄二年庚申の三月に越後の景虎上杉殿に頼まれ、小田原はす池迄押籠む、
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