甲陽軍鑑 / 品第十三
就中右に申す兩上杉取り合ひの義、山ノ內のからう扇谷の家老うちより兩大將へ異見して、昔しのごとくぶじになり、年月つもり兩上杉ながら父は他界まし〳〵、山內は則政公、扇谷は朝義の代になる、山內則政は永正元年甲子の誕生なれば、享祿三年庚寅に廿七歲にて牛角に直らる、扇谷朝義も此時代なり、是れは歲不承候、扨て又北條家は宗雲公·氏繩公二代にて伊豆·相摸兩國おさめ、しかも其年享祿三年庚寅には氏繩公子息氏康公十六歲にて初陣に、武藏の府中へ出でらるゝ、敵は兩上杉なり、北條家の果報いみじきゆへか、上杉家めつきやくの瑞相か兩上杉又中わろくなり、北條家と取り合ひの義喩へば三方ろんぎのごとし、
新字:就中右に申す両上杉取り合ひの義、山ノ内のからう扇谷の家老うちより両大将へ異見して、昔しのごとくぶじになり、年月つもり両上杉ながら父は他界まし〳〵、山内は則政公、扇谷は朝義の代になる、山内則政は永正元年甲子の誕生なれば、享禄三年庚寅に廿七歳にて牛角に直らる、扇谷朝義も此時代なり、是れは歳不承候、扨て又北条家は宗雲公·氏縄公二代にて伊豆·相摸両国おさめ、しかも其年享禄三年庚寅には氏縄公子息氏康公十六歳にて初陣に、武蔵の府中へ出でらるゝ、敵は両上杉なり、北条家の果報いみじきゆへか、上杉家めつきやくの瑞相か両上杉又中わろくなり、北条家と取り合ひの義喩へば三方ろんぎのごとし、
書き下し
就中右に申す両上杉取り合ひの義、山ノ内のからう扇谷の家老うちより両大将へ異見して、昔しのごとくぶじになり、年月つもり両上杉ながら父は他界まし〳〵、山内は則政公、扇谷は朝義の代になる、山内則政は永正元年甲子の誕生なれば、享禄三年庚寅に廿七歳にて牛角に直らる、扇谷朝義も此時代なり、是れは歳不承候、扨て又北条家は宗雲公·氏縄公二代にて伊豆·相摸両国おさめ、しかも其年享禄三年庚寅には氏縄公子息氏康公十六歳にて初陣に、武蔵の府中へ出でらるゝ、敵は両上杉なり、北条家の果報いみじきゆへか、上杉家めつきやくの瑞相か両上杉又中わろくなり、北条家と取り合ひの義喩へば三方ろんぎのごとし、
現代語訳
とりわけ右に申す両上杉の取り合いのこと、山内の家老・扇谷の家老のうちから両大将へ異見して、昔のように無事になり、年月が積もって両上杉とも父は他界され、山内は則政公、扇谷は朝義の代になる。山内の則政は永正元年甲子の誕生なので、享禄三年庚寅に二十七歳で互角に直られる。扇谷の朝義もこの時代である。これは歳を承っていない。さてまた北条家は、宗雲公・氏縄公の二代で伊豆・相模の両国を治め、しかもその年、享禄三年庚寅には氏縄公の子息氏康公が十六歳で初陣に武蔵の府中へ出られる。敵は両上杉である。北条家の果報がめでたいゆえか、上杉家滅却の瑞相か、両上杉がまた仲悪くなり、北条家との取り合いは、たとえれば三方の論議のようである。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十二弥々氏康公の代に伊豆·相摸二ケ国にて、一万の人数を二千所々の堺目に指置き、八千の軍兵を以て両上杉家と取合あり、殊更山内上杉公上野の平井居城なれば、武蔵·下総·安房·常陸·下野·出羽·奥州·越後·佐渡·信濃·飛弾·上野ともに、十三ケ国の諸侍平井へ出仕して、囲繞渴仰是非に及ばす、旣に大森のきせいあんが書付にも、上杉殿人数二十万とあり、定て堅く十万余り有べし、此上杉殿と氏康公十六歳、上杉殿二十七歳享禄三年庚寅より取合はじめ、二十二年の戦に十三度の大合戦有て、氏康公の皆勝利を得、芝居をふまへ給へど、氏康は八千の人数、上杉殿方は二万·三万、すくなき時も一万五千より内の人数にてなき故、一度に国郡を氏康取給ふことかたし、
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『甲陽軍鑑』品第十三され共北条家をば小身とていやしみ氏康公出で給へ共、上杉家の人数二万·三万むかい、神奈川·品川·武蔵の府中たかいど·ところ沢·せたがや·などゝいふ所にて氏康と両上杉とつがう八年の取り合ひに、則政公一度も出で給はず少敵とていやしめど、上杉家大将出でざる故、大合戦にもこぜりあひにも、上杉衆皆負けて氏康一度かたずと云ふ事なし、誠に北条家弓矢巳の時とかゝやきばんじまつりごと宜しければ、上杉家の功者共さてあぶなしとつぶやく、
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『甲陽軍鑑』品第十三又北条家へ武略に行く両人、其内井又左近太夫酉の三月毒害にて死する、則政公仰せには我下の大身ども、北条家へ心もよせぬ者どもを偽を申かけたる罰にて、頓死仕たりと仰出され候間、諸人悉く井又左近をにくまぬ者はさのみなし、扨上杉家の能き家老一両人寄合管領家是ほどには木に成たりさて、忍て井又左近太夫が跡を吊てなけども更にかひそなき、然ば北条家氏康廿三歳にては扇谷の城河越〓をのつとる、そこにて行あたり、右にいやしみたる事は両年の間に忘すれ、
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『甲陽軍鑑』品第十三舘々へ引籠る、しかうして後此義に付て山内殿と扇谷殿と其年中に取あひおこつて、羽入の峯·岩との峯·ふく田のゝ·ならのはしなどゝ申す所におひて、大きなる合戦ありて味方も敵もみへわかず、日来無心懸の奉公人共働くすべもしらずして、こねつ返しつうろつきまはる、小旗をすて、或ひは鎗をきりおり杖につき、にぐる者は跡をみず、主を捨てゝ大塲方も平井衆も敵味方共に、己が在所々々へ長北いたしたる者一そなへに二人三人づゝ在之、
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『甲陽軍鑑』品第十三されども管領則政公には、両出頭のすがの大膳·上原兵庫是を聞て申しけるは、北条宗雲元来伊豆のいかにもちいさき所より出でたる族の、氏康がなにの深きことあるべき、伊豆·相摸両国持ても北条二人·三人合たる程の大身衆、越後·関東·奥両国へかけては則政公御旗下に五六人も在之、上杉家に伝る衆にも北条程の者は有まじげに、はびこるに付ては則政公旗を出され、たゞ一陣に北条家を誅罰し給はんと、すがの·上原両人の口にて、
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『甲陽軍鑑』品第十三殊更此程我々両人小田原へよき者を指越し承候へば、北条家には何のさたもなく上杉則政公御旗を出されば、めつぽうに究まりたり、其意趣は氏縄が子氏康当年二十二歳に罷成るが、武辺のこと一円心がけず、たど歌斗りよみて罷在り、扨は男色二置するなにとのめばな立ちごと述定。男女のおいやけを大盛代々年では武辺仕さうなる侍なく候処に、当家の家老衆北条家をこともなのめにおぞみ給ふこと、一段聞へぬ儀なり、又本間江州·井又左近両人武略をよく仕たるとのこと、彼両人上杉家へ帰参申度とて皆偽りの作りごとゝ聞へ候縦へ能く仕ても武略は大敵にこそ用る者にて候へ、上杉家の被官よりはらいさき者に何の機遣にて武略なさるべき、当家の各おかしきことを申され候、
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