甲陽軍鑑 / 品第十一
勘介九年駿河に罷り在れども今川殿へかゝへ給はず、九年の內に兵法にて手抦二三度仕まつるといへども、新當流の兵法こそ本のことなれと皆人のさたなり、就中勘介は牢人にて草履取さへ一人つれねば、そしる人こそ多けれども、能く申立る人もなし是れは今川殿御家にて萬つ執失ない、御家末に成り、武士の道無案内ゆへ、山本勘介身上の批判散々あしきさたならん、旣に臨濟寺雪山和尙唐の物の本にて、義元公へ異見の間は、駿河·遠州·三河三ヶ國の政よろしく行はれて、尾州織田彈正忠なども駿府へ出仕す、雪山和尙異見なくして、後義元公結句與力の彈正忠子息信長に、わづかの少人數をもつて謀をせられて、義元公討ら死し給ふ、
新字:勘介九年駿河に罷り在れども今川殿へかゝへ給はず、九年の内に兵法にて手抦二三度仕まつるといへども、新当流の兵法こそ本のことなれと皆人のさたなり、就中勘介は牢人にて草履取さへ一人つれねば、そしる人こそ多けれども、能く申立る人もなし是れは今川殿御家にて万つ執失ない、御家末に成り、武士の道無案内ゆへ、山本勘介身上の批判散々あしきさたならん、既に臨済寺雪山和尚唐の物の本にて、義元公へ異見の間は、駿河·遠州·三河三ヶ国の政よろしく行はれて、尾州織田弾正忠なども駿府へ出仕す、雪山和尚異見なくして、後義元公結句与力の弾正忠子息信長に、わづかの少人数をもつて謀をせられて、義元公討ら死し給ふ、
書き下し
勘介九年駿河に罷り在れども今川殿へかゝへ給はず、九年の内に兵法にて手抦二三度仕まつるといへども、新当流の兵法こそ本のことなれと皆人のさたなり、就中勘介は牢人にて草履取さへ一人つれねば、そしる人こそ多けれども、能く申立る人もなし是れは今川殿御家にて万つ執失ない、御家末に成り、武士の道無案内ゆへ、山本勘介身上の批判散々あしきさたならん、旣に臨済寺雪山和尚唐の物の本にて、義元公へ異見の間は、駿河·遠州·三河三ヶ国の政よろしく行はれて、尾州織田弾正忠なども駿府へ出仕す、雪山和尚異見なくして、後義元公結句与力の弾正忠子息信長に、わづかの少人数をもつて謀をせられて、義元公討ら死し給ふ、
現代語訳
勘介は九年駿河におったけれども、今川殿は抱えなさらなかった。九年のうちに兵法で手柄を二三度立てたけれども、新当流の兵法こそ本物であると皆人の沙汰であった。とりわけ勘介は牢人で草履取りさえ一人連れていないので、謗る人こそ多いけれども、よく申し立てる人もなかった。これは今川殿の御家で万事を取り失い、御家が末になって、武士の道に無案内であるゆえに、山本勘介の身上の批判も散々悪い沙汰になったのであろう。既に臨済寺の雪山和尚が唐の書物によって義元公へ異見していた間は、駿河・遠州・三河三か国の政がよく行われて、尾張の織田弾正忠なども駿府へ出仕していた。雪山和尚の異見がなくなって後、義元公はかえって与力であった弾正忠の子息信長に、わずかの少人数で謀をかけられて討死なさった。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』親士是の故に其の難き所を為す者は、必ず其の欲する所を得ん。未だ其の欲する所を為して、其の惡む所を免るる者を聞かざるなり。是の故に偪臣は君を傷り、諂下は上を傷る。君には必ず弗弗の臣有り、上には必ず詻詻の下有り。分議する者は延延たり、而して支輔する者は詻詻たり、焉ち以て長く生きて國を保つ可し。臣下、其の爵位を重んじて言わず、近臣は則ち喑く、逺臣は則ち唫し、怨み民心に結び、諂䛕、側に在り、善議、障塞せらるれば、則ち國危うし。桀紂は其れ天下の士無きを以てせざるか。其の身を殺して天下を喪う。故に曰く、「國の寳を歸すは、賢を獻じて士を進むるに若かず」と。
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