甲陽軍鑑 / 品第十一
其上大唐にては二萬二千五百の人數にて、五萬の敵に勝ち、或は五萬の勢にて億萬をきつてとることも有り、吾朝にても北條氏康は、八千の人數にて管領公八萬の人數を伐りくづす、是皆弓矢の取り樣武略の故なり、惣じて軍は十の物九ツかつこと有るとも、それをばのけ一ツのあやうき方へ付、談合すれば全くかたん、
新字:其上大唐にては二万二千五百の人数にて、五万の敵に勝ち、或は五万の勢にて億万をきつてとることも有り、吾朝にても北条氏康は、八千の人数にて管領公八万の人数を伐りくづす、是皆弓矢の取り様武略の故なり、惣じて軍は十の物九ツかつこと有るとも、それをばのけ一ツのあやうき方へ付、談合すれば全くかたん、
書き下し
其上大唐にては二万二千五百の人数にて、五万の敵に勝ち、或は五万の勢にて億万をきつてとることも有り、吾朝にても北条氏康は、八千の人数にて管領公八万の人数を伐りくづす、是皆弓矢の取り様武略の故なり、惣じて軍は十の物九ツかつこと有るとも、それをばのけ一ツのあやうき方へ付、談合すれば全くかたん、
現代語訳
そのうえ大唐では、二万二千五百の人数で五万の敵に勝ち、あるいは五万の勢で億万を斬って取ることもある。我が朝でも北条氏康は、八千の人数で管領公の八万の人数を伐り崩した。これはみな弓矢の取り様、武略のゆえである。総じて軍は、十のうち九つ勝つことがあっても、それをのけて一つの危うい方に付けて談合すれば、全く勝つであろう。
解説
少数が大軍に勝った例を唐と日本から引き、勝敗を分けるのは人数ではなく武略だと述べる。そのうえで、十のうち九つ勝てる見込みがあっても、残る一つの危うさを前提に談合せよと説く。楽観的な見通しに合わせて計画を立てると、想定外の一つで全てを失う。最悪の場合を議論の中心に置くことが、確実に勝つための方法である。計画会議で、危うい一つを誰が言い出すかが問われている。
この章句が説くこと
武略談合危機管理判断北条氏康油断
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史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
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説苑・建本豊牆磽下は未だ必ずしも崩れざるも、流行潦至れば、壊るること必ず先んず。樹の本浅く、根垓深からざるは、未だ必ずしも橛れざるも、飄風起こり暴雨至れば、抜けること必ず先んず。君子是の国に居りて、仁義を崇めず賢臣を尊ばざるも、未だ必ずしも亡びざるも、然れども一旦非常の変有らば、車馳せ人走り、指して禍至れば、乃ち始めて喉を干し唇を燋がし、天を仰ぎて歎じ、庶幾わくは天其れ之を救わんと、亦難からずや。孔子曰わく、「其の前を慎まずして其の後を悔ゆれば、悔ゆると雖も及ぶ無し」と。詩に曰わく、「其れ啜りて泣く、何ぞ嗟くも及ばん」と。本を先に正さずして末に憂いを成すを言うなり。
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