講孟余話 / 盡心下 第二十九章
君子之大道ト云フ者、何事タルヲ斥言セス、故ニ仁斎ノ說ニ云ク、蓋君子以忠愛存心、以遜讓接物、心和氣平、無行而不得、此說固ヨリ是也、然トモ余カ道ノ字ヲ說ク、五倫五德ヲ總括シテ是ヲ云フ、說已ニ上第二十四章ニ見ユ、往テ見ルヘシ、集註徐氏曰、盆成括有死之道焉、設使幸而獲免、孟子之言猶信也、此說絕妙、古今斯ノ如クニシテ死セサル者何ソ限ラン、今ト云トモ亦此輩少ナカラズ、而シテ幸ニシテ免ルヽノミ
新字:君子之大道ト云フ者、何事タルヲ斥言セス、故ニ仁斎ノ説ニ云ク、蓋君子以忠愛存心、以遜譲接物、心和気平、無行而不得、此説固ヨリ是也、然トモ余カ道ノ字ヲ説ク、五倫五徳ヲ総括シテ是ヲ云フ、説已ニ上第二十四章ニ見ユ、往テ見ルヘシ、集註徐氏曰、盆成括有死之道焉、設使幸而獲免、孟子之言猶信也、此説絶妙、古今斯ノ如クニシテ死セサル者何ソ限ラン、今ト云トモ亦此輩少ナカラズ、而シテ幸ニシテ免ルヽノミ
書き下し
君子の大道と云ふ者、何事たるを斥言せず。故に仁斎の説に云く、「蓋し君子は忠愛を以て心に存し、遜譲を以て物に接す。心和し気平らかにして、行うて得ざる無し」と。此の説固より是なり。然れども余が道の字を説く、五倫五徳を総括して是れを云ふ。説已に上の第二十四章に見ゆ、往きて見るべし。集註に徐氏曰く、「盆成括死の道有り、設使幸ひにして免るるを獲とも、孟子の言猶信なり」と。此の説絶妙なり。古今斯くの如くにして死せざる者何ぞ限らん。今と云へども亦此の輩少なからず、而して幸ひにして免るるのみ。
現代語訳
(孟子は盆成括について、少しばかりの才はあるが君子の大道を聞いていない、と言った。)その「君子の大道」というものが何を指すかは、はっきり言われていない。そこで伊藤仁斎の説に「思うに君子は忠と愛を心に保ち、へりくだりと譲り合いで人や物に接する。心がやわらぎ気が穏やかで、何をしてもうまくいかないことはない」とある。この説はもとより正しい。しかし私が道の字を説くときは、五倫と五徳をまとめて言っている。その説はすでに前の第二十四章に見えるので、行って見てほしい。集注に徐氏の「盆成括には死ぬべき道があった。たとえ幸いにして免れたとしても、孟子の言葉はなお真実である」という言葉がある。この説は絶妙である。昔も今も、このようでありながら死なずにすんだ者がどれほどいることか。今でもこういう輩は少なくない。ただ幸いにして免れているだけなのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
孟子・盡心章句下盆成括、齊に仕う。孟子曰く、「死なん、盆成括は。」盆成括殺さる。門人問うて曰く、「夫子は何を以て其の將に殺されんとするを知るか。」曰く、「其の人と為りや、小しく才有り。未だ君子の大道を聞かざるなり。則ち以て其の軀を殺すに足るのみ。」
-
『講孟余話』盡心下 第二十四章此の章に於て始めて得たり。蓋し父子に親あり、親は即ち仁なり、故に本文には「仁の父子に於ける」と云ふ。君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、別と序と皆礼なり、本文に「礼の賓主に於ける」と云ふ、賓主亦其の類なり。朋友に信あり。故に仁義礼信は即ち親義別序信なり。余因りて父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五倫と、仁義礼信の四徳とを経緯とし、智を以て是れを織り合せ、名づけて道とす。是れを外にしては道なし。故に徳とは此の道を行ひて心に得ることなり。業とは此の道を行ひて成功あることなり。誠とは此の道を専一真実に行ひて息まざることなり。敬とは此の道を奉持慎重して捨てざることなり。善とは此の道に善なるなり。才とは此の道に才なるなり。聖賢千言万語、豈に復た此の外あらんや。実心実行なき者は、道を以て多端とす。余は則ち一条の大路となす。是れ余が創見と云へども、是れを聖人に質して悖らざるに庶幾からん。且つ下章「善・信・美・大・聖・神」の如き、皆此の道を主として云ふべし。下按ずるに、下章「聖にして知るべからず」の義は、已に上篇第十三章に割記す、往きて見るべし。
-
『慎思録』巻之五孟子曰く、君子の言は、帯を下らずして、道存す、と。蓋し道は人に遠からず。性に率ふ、之を道と謂ふ。故に曰く、道なる者は、須臾も離るべからざるなり、と。身外の事に非ざるに由るなり。日用常行の間、至近の処にして、至道存す。此れ乃ち天理の流行発見する処なり。君子の道は、費にして隠なり。若し夫れ非常高遠の事に対して、以て至妙と為す者は、左太冲の所謂侈言験無く、麗なりと雖も経に非ずといふ者是れのみ。蓋し妙理を語ることは易し。一超直入、言下頓悟と雖も、亦為すべし。然れども真の悟りに非ざるのみ。
-
『講孟余話』公孫丑下 第三章註に「尹氏曰く、君子の辞受取予は、唯理に当るのみ」。按ずるに是等の処に於て、君子・小人の別を知るべし。君子は何事に臨みても理に合ふか合はぬかと考へて、然る後是れを行ふ。小人は何事に臨みても利になるかならぬかと考へて、然る後是れを行ふ。故に君子となること難からず。今日大小の事に拘らず、理は如何、理は如何と考へて是れを行ふのみ。何ぞ独り辞受取予のみならんや。
-
『講孟余話』孟子序說或ひと曰く、孔孟の道大なり、兼ねて天下を善くせんと欲す、何ぞ自国を必ずとせん。且つ明君賢主を得、我が道を行ふ時は、天下共に其の沢を蒙るべければ、我が生国も固より其の外に在らずと。曰く、天下を善くせんと欲して我が国を去るは、国を治めんと欲して身を修めざると同じ。修身斉家治国平天下は大学の序、決して乱るべきに非ず。若し身家を捨てて国天下を治平すとも、管晏のする所にして、詭遇して禽を獲と云ふ者なり。世の君に事ふることを論ずる者謂へらく、功業立たざれば国家に益なしと。是れ大いに誤りなり。道を明らかにして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云へ。君に事へて遇はざる時は、諫死するも可なり、幽囚するも可なり、饑餓するも可なり。是等の事に遇へば、其の身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失はず、永く後世の模範となり、必ず其の風を観感して興起する者あり。遂には其の国風一定して、賢愚貴賤なべて節義を崇尚する如くなるなり。然れば其の身に於て功業名誉なき如くなれども、千百歳へかけて其の忠たる、豈に挙げて数ふべけんや。是れを大忠と云ふなり。
-
『講孟余話』盡心上 第二十六章権の一字是れ中を執るの法にして、全章の帰宿なり。余常に謂へらく、聖人の道は人倫を明らかにするにあり、明らかにするの工夫は是れ権の功なり。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五つの物、親・義・別・序・信の五つの事、是れ人倫なれば、後漢の趙苞の如く、三国の徐庶の如く、不幸にして人倫の変に遇ひたる時は、軽重を衡り、或いは仕を辞して親に随ひ、或いは国に殉じて家を顧みざる、皆時と勢とに因りて義を生ずる、是れ権なり。故に徒らに忠孝の道を学びて、権の字に心付かざれば、不忠不孝に陥ること多し。余常に是れを憂ふ。故に古今人倫の変に遇ひて、或いは善く権して其の義を全うし、或いは権すること能はずして其の義を闕く類の事蹟を類輯して一書となし、略論断を加へて、自ら観省に備へんと欲す、未だ及ぶに暇あらず。然れども已に変と云へば千差万別、始めより定体なし、又一言の尽くす所に非ず。且つ往古の死例を以て、将来の万変を制せんとするは迂闊拘泥の至りならずや。云く、「故きを温ねて新しきを知る」は孔門の学則なり。死例を活用すれば、思ひを広め智を発するの一助ともなるべし。其の要に至りては、欒共子の所謂(小学内篇通論引)「之の在る所は則ち死を致す」の意に原づきて是れを思はば、権の義に於て思ひ已に半ばに過ぎん。第二十七章。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る