講孟余話 / 盡心下 第二十八章
匈奴ノ冐頓單于既ニ立テ、東胡方ニ強シ、使ヲ遣シテ先單于頭曼ノ時ノ千里馬ヲ求ム、群臣皆諫ムレ共、冐頓是ヲ予フ、又單于ノ一閼氏ヲ求ム、單于其妻ヲ号シテ閼氏ト云、左右皆怒ケレ共、冐頓是ヲ予フ、已ニシテ東胡愈驕リ、匈奴ノ棄地ヲ得ンコトヲ求ム、頓冐大ニ怒リ云ク、地者國之本也、奈何予人トテ諸口地ヲ予ヘント云タル者ヲ斬リ、即刻馬ニ上リ、國中ニ令スラク、後ルヽ者アラハ斬ラント、遂ニ東ヲ襲ヒ東胡ヲ滅スト、冐頓ハ夷狄酋ノ最モ權詐悪逆ナル者、冐頓權詐ヲ以テ其父頭曼單于ヲ弑シテ自立ス、何ソ此章ニ合セ論スルニ足ラン、然トモ地者國之本也、奈何與人ノ二句ハ、実ニ孟子ヲ釈スルニ足ル、按スルニ朱文公、宋孝宗ノ時ニ當リ親シク土地人民ヲ割テ金虜ニ奉シ、膝ヲ屈シ臣ト称シ、復タ中国政事ノ体ナキヲ目擊シ、此章ヲ読ム、其意果シテ如何ソヤ、千歲ノ下感慨ニ堪ヘズ、又按スルニ、余曾テ亡友澁木生ノ爲メニ、学業ノ次序ヲ語リ云ク、離地而無人、離人而無事、論人事者、自地理始ト、澁木生深ク是ヲ然リトシ、是ヨリ思ヲ輿地ノ学ニ深フス、亡後、余是ヲ其行狀ニ著ス、友人土屋松如称シテ名言トス、今此章ヲ読ムニ、孟子已ニ余ニ先ツテ是ヲ云フ
新字:匈奴ノ冐頓単于既ニ立テ、東胡方ニ強シ、使ヲ遣シテ先単于頭曼ノ時ノ千里馬ヲ求ム、群臣皆諫ムレ共、冐頓是ヲ予フ、又単于ノ一閼氏ヲ求ム、単于其妻ヲ号シテ閼氏ト云、左右皆怒ケレ共、冐頓是ヲ予フ、已ニシテ東胡愈驕リ、匈奴ノ棄地ヲ得ンコトヲ求ム、頓冐大ニ怒リ云ク、地者国之本也、奈何予人トテ諸口地ヲ予ヘント云タル者ヲ斬リ、即刻馬ニ上リ、国中ニ令スラク、後ルヽ者アラハ斬ラント、遂ニ東ヲ襲ヒ東胡ヲ滅スト、冐頓ハ夷狄酋ノ最モ権詐悪逆ナル者、冐頓権詐ヲ以テ其父頭曼単于ヲ弑シテ自立ス、何ソ此章ニ合セ論スルニ足ラン、然トモ地者国之本也、奈何与人ノ二句ハ、実ニ孟子ヲ釈スルニ足ル、按スルニ朱文公、宋孝宗ノ時ニ当リ親シク土地人民ヲ割テ金虜ニ奉シ、膝ヲ屈シ臣ト称シ、復タ中国政事ノ体ナキヲ目撃シ、此章ヲ読ム、其意果シテ如何ソヤ、千歳ノ下感慨ニ堪ヘズ、又按スルニ、余曽テ亡友渋木生ノ為メニ、学業ノ次序ヲ語リ云ク、離地而無人、離人而無事、論人事者、自地理始ト、渋木生深ク是ヲ然リトシ、是ヨリ思ヲ輿地ノ学ニ深フス、亡後、余是ヲ其行状ニ著ス、友人土屋松如称シテ名言トス、今此章ヲ読ムニ、孟子已ニ余ニ先ツテ是ヲ云フ
書き下し
匈奴の冒頓単于既に立ちて、東胡方に強し。使を遣はして先の単于頭曼の時の千里馬を求む。群臣皆諫むれども、冒頓是れを予ふ。又単于の一閼氏を求む。単于其の妻を号して閼氏と云ふ。左右皆怒りけれども、冒頓是れを予ふ。已にして東胡愈々驕り、匈奴の棄地を得んことを求む。冒頓大いに怒りて云く、「地は国の本なり、奈何ぞ人に予へん」とて、諸々の地を予へんと云ひたる者を斬り、即刻馬に上り、国中に令すらく、「後るる者あらば斬らん」と。遂に東を襲ひ東胡を滅ぼすと。冒頓は夷狄の酋の最も権詐悪逆なる者、冒頓権詐を以て其の父頭曼単于を弑して自立す。何ぞ此の章に合はせ論ずるに足らん。然れども「地は国の本なり、奈何ぞ人に与へん」の二句は、実に孟子を釈するに足る。按ずるに朱文公、宋の孝宗の時に当り、親しく土地人民を割きて金虜に奉じ、膝を屈し臣と称し、復た中国政事の体なきを目撃し、此の章を読む。其の意果して如何ぞや。千歳の下感慨に堪へず。又按ずるに、余曾て亡友渋木生の為めに、学業の次序を語りて云く、「地を離れて人なく、人を離れて事なし、人事を論ずる者は地理より始む」と。渋木生深く是れを然りとし、是れより思ひを輿地の学に深うす。亡き後、余是れを其の行状に著す。友人土屋松如称して名言とす。今此の章を読むに、孟子已に余に先だつて是れを云ふ。
現代語訳
匈奴の冒頓単于が即位したころ、東胡が強大だった。東胡は使者を送って、先代の単于頭曼の時代の千里の名馬を求めた。群臣はみな反対したが、冒頓はそれを与えた。さらに単于の閼氏(妃)の一人を求めた。単于は妻を閼氏と呼ぶ。側近はみな怒ったが、冒頓はそれも与えた。やがて東胡はますますおごり、匈奴の使っていない荒れ地を求めてきた。冒頓は大いに怒って「土地は国の根本である。どうして人に与えられようか」と言い、土地を与えようと言った者たちを斬り、すぐに馬に乗って国中に「遅れた者は斬る」と命じ、ついに東を襲って東胡を滅ぼしたという。冒頓は夷狄の首長の中でもっとも策略に長け悪逆な者で、策略によって父の頭曼単于を殺して自ら位についた。この章と並べて論じるに値する人物ではない。しかし「土地は国の根本である、どうして人に与えられようか」の二句は、まことに孟子を解釈するのに十分である。考えるに、朱子は宋の孝宗の時代に、宋が土地と人民を割いて金に差し出し、膝を屈して臣と称し、もはや中国の政治の体裁もない有様を目の当たりにしながら、この章を読んだ。その思いはどのようであったろうか。千年後の今も感慨に堪えない。また思い出すのは、私がかつて亡き友・渋木生のために学問の順序を語り、「土地を離れて人はなく、人を離れて事はない。人の事を論じる者は地理から始めよ」と言ったことである。渋木生は深くこれに同意し、以後地理の学に打ち込んだ。彼の没後、私はこれをその行状に記した。友人の土屋松如はそれを名言とほめた。今この章を読むと、孟子はすでに私より先にこれを言っていたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『学問のすゝめ』十二編・人の品行は高尚ならざるべからざるの論・一国を全体の一物とみなして一国の有様をもって論ずるもまたかくのごとし。譬えばここに一政府あらん。賢良方正の士を挙げて政を任し、民の苦楽を察して適宜の処置を施し、信賞必罰、恩威行なわれざるところなく、万民腹を鼓して太平を謡うがごときは、まことに誇るべきに似たり。然りといえども、その賞罰と言い、恩威といい、万民といい、太平というも、悉皆一国内の事なり、一人あるいは数人の意に成りたるものなり。その得失はその国の前代に比較するか、または他の悪政府に比較して誇るべきのみにて、けっしてその国悉皆の有様を詳らかにして他国と相対し、一より十に至るまで比較したるものにあらず。もし一国を全体の一物とみなして他の文明の一国に比較し、数十年の間に行なわるる双方の得失を察して互いに加減乗除し、その実際に見われたるところの損益を論ずることあらば、その誇るところのものはけっして誇るに足らざるものならん。
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