講孟余話 / 盡心下 第二十四章
此章ニ於テ始テ得タリ、盖シ父子ニ親アリ、親ハ即チ仁也、故ニ本文ニハ仁之於父子ト云、君臣ニ義アリ、夫ニ別アリ、長幼ニ序アリ、別ト序ト皆礼也、本文ニ礼之於賓主ト云、賓主亦其類也、朋友ニ信アリ、故ニ仁義礼信ハ即チ親義別序信ナリ、余因テ父子君臣夫婦長幼朋友五倫ト、仁義礼信ノ四德トヲ経緯トシ、智ヲ以テ是ヲ織リ合セ、名ケテ道トス、是ヲ外ニシテハ道ナシ、故ニ德トハ此道ヲ行テ心ニ得ルコトナリ、業トハ此道ヲ行テ成功アルコト也、誠トハ此道ヲ專一眞実ニ行テ息マサルコト也、敬トハ此道ヲ奉持愼重シテ捨テサルコト也、善トハ此道ニ善ナル也、才トハ此道ニ才ナル也、聖賢千言万語、豈復タ此外アランヤ、実心実行ナキ者ハ、道ヲ以テ多端トス、余ハ則一條ノ大路トナス、是レ余カ創見ト云ヘトモ、是ヲ聖人ニ質シテ悖ラサルニ庶幾カラン、且下章善信美大聖神ノ如キ、皆此道ヲ主トシテ云ヘシ、下按スルニ、下章聖而不知ノ義ハ、已ニ上篇第十三章ニ割記ス、往テ見ルヘシ
新字:此章ニ於テ始テ得タリ、盖シ父子ニ親アリ、親ハ即チ仁也、故ニ本文ニハ仁之於父子ト云、君臣ニ義アリ、夫ニ別アリ、長幼ニ序アリ、別ト序ト皆礼也、本文ニ礼之於賓主ト云、賓主亦其類也、朋友ニ信アリ、故ニ仁義礼信ハ即チ親義別序信ナリ、余因テ父子君臣夫婦長幼朋友五倫ト、仁義礼信ノ四徳トヲ経緯トシ、智ヲ以テ是ヲ織リ合セ、名ケテ道トス、是ヲ外ニシテハ道ナシ、故ニ徳トハ此道ヲ行テ心ニ得ルコトナリ、業トハ此道ヲ行テ成功アルコト也、誠トハ此道ヲ専一真実ニ行テ息マサルコト也、敬トハ此道ヲ奉持慎重シテ捨テサルコト也、善トハ此道ニ善ナル也、才トハ此道ニ才ナル也、聖賢千言万語、豈復タ此外アランヤ、実心実行ナキ者ハ、道ヲ以テ多端トス、余ハ則一条ノ大路トナス、是レ余カ創見ト云ヘトモ、是ヲ聖人ニ質シテ悖ラサルニ庶幾カラン、且下章善信美大聖神ノ如キ、皆此道ヲ主トシテ云ヘシ、下按スルニ、下章聖而不知ノ義ハ、已ニ上篇第十三章ニ割記ス、往テ見ルヘシ
書き下し
此の章に於て始めて得たり。蓋し父子に親あり、親は即ち仁なり、故に本文には「仁の父子に於ける」と云ふ。君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、別と序と皆礼なり、本文に「礼の賓主に於ける」と云ふ、賓主亦其の類なり。朋友に信あり。故に仁義礼信は即ち親義別序信なり。余因りて父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五倫と、仁義礼信の四徳とを経緯とし、智を以て是れを織り合せ、名づけて道とす。是れを外にしては道なし。故に徳とは此の道を行ひて心に得ることなり。業とは此の道を行ひて成功あることなり。誠とは此の道を専一真実に行ひて息まざることなり。敬とは此の道を奉持慎重して捨てざることなり。善とは此の道に善なるなり。才とは此の道に才なるなり。聖賢千言万語、豈に復た此の外あらんや。実心実行なき者は、道を以て多端とす。余は則ち一条の大路となす。是れ余が創見と云へども、是れを聖人に質して悖らざるに庶幾からん。且つ下章「善・信・美・大・聖・神」の如き、皆此の道を主として云ふべし。下按ずるに、下章「聖にして知るべからず」の義は、已に上篇第十三章に割記す、往きて見るべし。
現代語訳
この章において初めてそれを得た。思うに、父子には親しみがあり、親しみはすなわち仁である。だから本文には「仁の父子における」と言う。君臣には義があり、夫婦には区別があり、長幼には順序がある。区別と順序はどちらも礼である。本文に「礼の賓主における」と言うのは、賓客と主人もまたその類だからである。朋友には信がある。だから仁・義・礼・信は、すなわち親・義・別・序・信なのである。そこで私は、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五倫と、仁・義・礼・信の四徳とを縦糸と横糸とし、智によってこれを織り合わせて、名づけて道とする。これを外れては道はない。だから徳とは、この道を行って心に得ることである。業とは、この道を行って成果があることである。誠とは、この道をひたすら真実に行ってやまないことである。敬とは、この道を大切に守り慎んで捨てないことである。善とは、この道において善であることである。才とは、この道において才があることである。聖人賢者の千言万語も、どうしてこのほかにあろうか。真実の心と真実の行いのない者は、道をあれこれ多岐にわたるものとする。私はそれを一本の大道とする。これは私の独創ではあるが、聖人に問いただしても背くことはないのに近いであろう。また次の章の「善・信・美・大・聖・神」のようなものも、みなこの道を主として言うべきである。次に考えると、次の章の「聖であって人には測り知れない」の意味は、すでに上篇第十三章で記した。見に行くとよい。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『楽訓』巻之中・節序一すべて一年の内、月日のめぐり、四時の行はれ、百物のなれるついで、年ごとにたがはず。万古より末の世までかはらざること、天道の誠いたつて貴ぶべし。しづかにして是を感ずる人は、其楽深かるべし。もしよく此理を知れらん人は、即道を知れる人なるべし。
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『五常訓』巻之五・信一道を信ずる志は、専一にして厚かるべし。厚からざれば、彼方此方に志うつりて、道を守ること堅固ならず。得る事あれども、必失ふ。然れば、信なければ、初道を好むといへども、終をたもちがたく、巧言にまよひて、邪道におち入りやすし。之を誠にする者は、人の道なり。之を誠にするの道は、道を信ずること篤きにあり。道を信ずること篤ければ、行之果す。果すとは行ひとぐるなり。行之果せば、守之固しとは、道を守ること堅固にして、失はざるなり。道を信ずること篤からざれは、道行はれず。利欲にひかれ、外物にうつりて、道を守ること堅固ならず。道を信ぜずして、守ること堅固ならずば、万の才能ありとも、見るに足らず。是学者の、重んずべき所なり。
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『童子問』卷下大学に曰く、先後する所を知れば、則ち道に近しと。論語に曰く、信義に近ければ、言復むべし。恭礼に近ければ、恥辱に遠ざかると。若し後儒をして之を言はしめば、必ず曰はん、先後する所を知れば、則ち道に合ふと。必ず曰はん、信義に合ひ、恭礼に合ふと。而して近の字を用ふべからず。然るに聖賢皆近と言ふ者は、何ぞや。中庸に云ふ、忠恕は道を違ること遠からずと。亦近きを言ふなり。蓋し道の広大なる、何の執守する所ぞ。故に唯忠信を主とすることを要して、強ひて為すことを要せず。忠信を主とすれば、則ち中らずと雖も遠からず。強ひて為せば、則ち外は似て内は実に非なり。聖人の道は、優優洋洋として、促迫することを得ず、牽強することを得ず。顔子の亜聖も、猶曰く、三月仁に違はずと。曾子の篤行も、亦疾革まるに至つて、初めて簀を易ふ。天地の化も亦然り。二十四節、七十二候、或は進み或は退き、寒熱温涼、截然として悉く其の数のごとくなること能はず。亦活物なるが故なり。語に曰く、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよと。又曰く、奢れば則ち不遜、倹なれば則ち固なり。其の不遜ならんよりは寧ろ固なれと。寧とは庶幾の辞にして、亦近きの謂なり。聖人豈に其の一一中を得んことを欲せざらんや。而れども必ずしも得べからず。故に之を寧と謂ふ。蓋し人に教ふるに一歩を退きて質実に就くを以てするなり。註家は聖人の微意の在る所を知らず、乃ち前章に於て之を解して曰く、礼は中を得るを貴ぶ。奢れば則ち過ぎ、倹なれば則ち及ばず。二者皆礼に合はずと。又後章を解して曰く、奢倹倶に中を失ふ。已むことを得ずして時の弊を救ふなりと。果して其の説のごとくならば、則ち是れ聖人の言、皆半上落下にして、教と為すに足らざるなり。明道先生曰く、道の浩浩たる、何れの処にか手を下さん。惟誠を立てて、纔かに居るべきの処有りと。又曰く、惟誠心を進むれば、其の文章中らずと雖も遠からずと。伊川先生曰く、人の道は唯忠信に在りと。皆確言なり。人其の意味の深長なることを知らず。
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『童子問』卷上問ふ、既に聖人の道は知り易く行ひ易しと聞く。何ぞ人の之を能くする者鮮きや。豈に亦た甚だ難き所の者有るかと。曰く、有り。中庸に依るを難しと為す。中庸は本難事に非ず。中庸に依るの難きは、亦た誠を立つるの難きに在るなり。古の人も豈に亦た人人皆善く、事事皆中ることを得んや。但だ民朴にして俗淳く、誠実敦龐にして、邪回の行ひ無く、名利の求め無し。故に行ふ所自ら中庸に非ざること莫きなり。故に曰く、中庸の徳為るや、至れるかな、民鮮きこと久しと。後世に至りては、則ち風気日に漓く、人心古ならず。愚者は固より論ずるに足らず。其の少しく智有る者は、必ず利名を以て先と為し、常を厭うて新を好み、邇きを捨てて遠きを求む。是れ中庸の難き所以なり。故に曰く、天下国家も均しくすべきなり、爵禄も辞すべきなり、白刃も踏むべきなり、中庸は能くすべからざるなりと。是れ論語の極致なり。
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言志四録・南洲手抄意の誠否は、須らく夢寐中の事に於て之を験すべし。
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『武士道』第六章 禮儀・誠を語ると礼を守ると試みに日本人に向ひ、誠を語ると、礼を守ると、いづれか重きやと問はば、彼れ必ずや、全く米人に相反するの辞を以て答とせんと云ふものあり。其説の当否はしばらく之を置き、次章『至誠』を説くの項下に於て、之に論及するものあらん。
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