講孟余話 / 盡心上 第二十六章
權ノ一字是レ中ヲ執ルノ法ニシテ、全章ノ帰宿也、余常ニ謂ラク、聖人ノ道ハ人倫ヲ明ニスルニアリ、明ノ工夫是權ノ功也、君臣父子夫婦長幼朋友ノ五ノ物、親義別序信ノ五ツノ事、是人倫ナレハ後漢ノ趙苞ノ如ク、三國ノ徐庶ノ如ク、不幸ニシテ人倫ノ変ニ遇タル時ハ、輕重ヲ衡リ、或ハ仕ヲ辞シテ親ニ隨ヒ、或ハ國ニ殉シテ家ヲ顧ミサル、皆時ト勢トニ因テ義ヲ生スル、是權ナリ、故ニ徒ニ忠孝ノ道ヲ学ヒテ、權ノ字ニ心付カサレハ、不忠不孝ニ陷ルコト多シ、余常ニ是ヲ憂フ、故ニ古今人倫ノ変ニ遇ヒテ、或ハ善ク權シテ其義ヲ全フシ、或ハ權スルコト能ハズシテ其義ヲ闕ク類ノ事蹟ヲ類輯シテ一書トナシ、畧論断ヲ加ヘテ、自ラ觀省ニ備ヘント欲ス、未タ及フニ暇アラズ、然トモ已ニ変ト云ヘハ千差萬別始ヨリ定体ナシ、又一言ノ盡ス所ニ非ス、且往古ノ死例ヲ以テ、將來ノ萬変ヲ制セントスルハ迂濶拘泥ノ至ナラズヤ、云ク、溫故而知新ハ孔門ノ学則ナリ、死例ヲ活用スレハ、思ヲ廣メ智ヲ発スルノ一助共ナルヘシ、其要ニ至テハ欒共子ノ所謂小学内篇通論引之所在則致死焉ノ意ニ原ツキテ是ヲ思ハヽ、權ノ義ニ於テ思已ニ半ニ過キン、第二十七章
新字:権ノ一字是レ中ヲ執ルノ法ニシテ、全章ノ帰宿也、余常ニ謂ラク、聖人ノ道ハ人倫ヲ明ニスルニアリ、明ノ工夫是権ノ功也、君臣父子夫婦長幼朋友ノ五ノ物、親義別序信ノ五ツノ事、是人倫ナレハ後漢ノ趙苞ノ如ク、三国ノ徐庶ノ如ク、不幸ニシテ人倫ノ変ニ遇タル時ハ、軽重ヲ衡リ、或ハ仕ヲ辞シテ親ニ随ヒ、或ハ国ニ殉シテ家ヲ顧ミサル、皆時ト勢トニ因テ義ヲ生スル、是権ナリ、故ニ徒ニ忠孝ノ道ヲ学ヒテ、権ノ字ニ心付カサレハ、不忠不孝ニ陥ルコト多シ、余常ニ是ヲ憂フ、故ニ古今人倫ノ変ニ遇ヒテ、或ハ善ク権シテ其義ヲ全フシ、或ハ権スルコト能ハズシテ其義ヲ闕ク類ノ事跡ヲ類輯シテ一書トナシ、略論断ヲ加ヘテ、自ラ観省ニ備ヘント欲ス、未タ及フニ暇アラズ、然トモ已ニ変ト云ヘハ千差万別始ヨリ定体ナシ、又一言ノ尽ス所ニ非ス、且往古ノ死例ヲ以テ、将来ノ万変ヲ制セントスルハ迂濶拘泥ノ至ナラズヤ、云ク、温故而知新ハ孔門ノ学則ナリ、死例ヲ活用スレハ、思ヲ広メ智ヲ発スルノ一助共ナルヘシ、其要ニ至テハ欒共子ノ所謂小学内篇通論引之所在則致死焉ノ意ニ原ツキテ是ヲ思ハヽ、権ノ義ニ於テ思已ニ半ニ過キン、第二十七章
書き下し
権の一字是れ中を執るの法にして、全章の帰宿なり。余常に謂へらく、聖人の道は人倫を明らかにするにあり、明らかにするの工夫は是れ権の功なり。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五つの物、親・義・別・序・信の五つの事、是れ人倫なれば、後漢の趙苞の如く、三国の徐庶の如く、不幸にして人倫の変に遇ひたる時は、軽重を衡り、或いは仕を辞して親に随ひ、或いは国に殉じて家を顧みざる、皆時と勢とに因りて義を生ずる、是れ権なり。故に徒らに忠孝の道を学びて、権の字に心付かざれば、不忠不孝に陥ること多し。余常に是れを憂ふ。故に古今人倫の変に遇ひて、或いは善く権して其の義を全うし、或いは権すること能はずして其の義を闕く類の事蹟を類輯して一書となし、略論断を加へて、自ら観省に備へんと欲す、未だ及ぶに暇あらず。然れども已に変と云へば千差万別、始めより定体なし、又一言の尽くす所に非ず。且つ往古の死例を以て、将来の万変を制せんとするは迂闊拘泥の至りならずや。云く、「故きを温ねて新しきを知る」は孔門の学則なり。死例を活用すれば、思ひを広め智を発するの一助ともなるべし。其の要に至りては、欒共子の所謂(小学内篇通論引)「之の在る所は則ち死を致す」の意に原づきて是れを思はば、権の義に於て思ひ已に半ばに過ぎん。第二十七章。
現代語訳
「権」(はかりにかけて臨機に判断すること)の一字こそ、中を執る方法であり、この章全体の帰着するところである。私はいつも思っている。聖人の道は人の道を明らかにすることにあり、明らかにする工夫こそが権の働きである。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五つの関係、親しみ・義・けじめ・順序・信の五つの徳目、これが人倫であるが、後漢の趙苞や三国の徐庶のように、不幸にして人倫の非常事態に遭ったときには、軽い重いをはかり、あるときは官職を辞して親に従い、あるときは国に殉じて家を顧みない。みな時と勢いによって義が生まれる。これが権である。だから、ただ忠孝の道を学んで、権の字に気づかなければ、かえって不忠不孝に陥ることが多い。私はいつもこれを憂えている。そこで、古今の人倫の非常事態に遭って、うまく権をはかってその義を全うした例や、権をはかれずに義を欠いた例などの事績を集めて一冊の本とし、簡単な論評を加えて、自分の反省に役立てたいと思っているが、まだ手をつける暇がない。とはいえ、非常事態というものは千差万別で、もともと決まった形はなく、一言で言い尽くせるものでもない。それに、昔の固まった例で将来の無数の変化を処理しようとするのは、まわりくどく型にとらわれた極みではないか。いや、「古きをたずねて新しきを知る」は孔子の門の学問の原則である。固まった例も生かして使えば、考えを広げ知恵を引き出す助けにはなる。その要点については、欒共子の言う(小学内篇通論に引く)「仕える相手のためには死を尽くす」という意味にもとづいて考えれば、権の意味についての考えはもう半ば以上に達するだろう。第二十七章。
解説
この章句が説くこと
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『講孟余話』告子下 首章然れども本文立言の意は、礼と云ふは歯決なきを問はず、尽心上、「放飯流歠して、歯決なきを問ふ、是れを之れ務めを知らずと謂ふ」。又曲礼に「濡肉は歯決し、乾肉は歯決せず」純の倹に従ふ、論語子罕、「麻冕は礼なり。今や純は倹なり、吾は衆に従はん」の類なること固よりなり。唯語病あるのみ。但し親迎の義に至りては追考を要すべし。礼中にも軽重あり、食色皆各軽重あり、物皆然り。是を以て一本の義を喩るべし。滕文公上末章、「天の物を生ずるや、之をして一本ならしむ、而るに夷子は二本なる故なり」。君臣父子の五倫も、遇ふ所随ふ所に依りて軽重あり。此れの軽き者を以て彼の重き者に比せば、彼固より重し。彼の軽き者を以て此れの重き者に比せば、此れ固より重し。故に軽き者常に軽きことなし、時有りて重し。重き者常に重きことなし、時有りて軽し。是れ亦権の義、時中の義なり。合せ考ふべし。
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