講孟余話 / 盡心下 第二十五章・第二十六章
此章已ニ上章ニ附見ス、復タ割記セス是人ヲ教ヘ、人ヲ治メ、及ヒ上ニ事ルノ良法也、如追放豚、旣入其笠、又從而招之ノ句ニ至テ、余又安ンソ野山獄ヲ回思セサルコトヲ得ンヤ、夫其人罪アリ夫其人罪アリ、是ヲ獄ニ下ス、宜ヨリ理ナリ、其往事ヲ悔ミ前非ヲ悟ルニ至テ、猶出サヲ許サズ、入其笠又招之ノ甚シキニ非スヤ、吾孟子ヲ起シテ與ニ野山獄ノコトヲ謀ラント欲ス、
新字:此章已ニ上章ニ附見ス、復タ割記セス是人ヲ教ヘ、人ヲ治メ、及ヒ上ニ事ルノ良法也、如追放豚、既入其笠、又従而招之ノ句ニ至テ、余又安ンソ野山獄ヲ回思セサルコトヲ得ンヤ、夫其人罪アリ夫其人罪アリ、是ヲ獄ニ下ス、宜ヨリ理ナリ、其往事ヲ悔ミ前非ヲ悟ルニ至テ、猶出サヲ許サズ、入其笠又招之ノ甚シキニ非スヤ、吾孟子ヲ起シテ与ニ野山獄ノコトヲ謀ラント欲ス、
書き下し
此の章已に上章に附見す、復た割記せず。是れ人を教へ、人を治め、及び上に事ふるの良法なり。「放豚を追ふが如し、既に其の苙に入れば、又従つて之れを招く」の句に至りて、余又安んぞ野山獄を回思せざることを得んや。夫れ其の人罪あり、夫れ其の人罪あり、是れを獄に下す、宜より理なり。其の往事を悔い前非を悟るに至りて、猶出だすを許さず、其の苙に入れて又之れを招くの甚しきに非ずや。吾孟子を起して与に野山獄のことを謀らんと欲す。
現代語訳
この章(第二十五章)はすでに前の章に付けて述べたので、改めて記さない。(第二十六章)これは人を教え、人を治め、また上に仕えるうえでのよい方法である。「逃げた豚を追いかけるようなもので、すでに囲いに入れたのに、さらにその足を縛ろうとする」という句まで来ると、私はどうして野山獄のことを思い返さずにいられようか。罪のある人を獄に下すのは、もとより道理である。だが、その人が過去を悔い、前非を悟るに至っても、なお出獄を許さないのは、囲いに入れたうえでさらに縛るよりもひどいことではないか。私は孟子をよみがえらせて、ともに野山獄のことを相談したいと思う。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『講孟余話』盡心下 首章余野山獄に囚はるること一年余、具に獄中の艱苦、制度の陋悪を知り、愍然に堪へず。先づ江戸獄記を作り、其の制度の可なる者を録し、野山獄に施行せんことを冀ふ。又福堂策二則を作り処置の宜しきを詳論し、又野山獄囚名録叙論を撰び、野山獄記を撰び、諸囚滞獄の甚だしきを著す。又夫れ夫れの伝手を以て滞獄の冤状を陳じ、才能の隠没を嘆じ、免宥を謀る者一にして足らず、或いは書を与へて是れを弁論するに至る。余平生伊尹の任を以て志とす。「天下の民、匹夫匹婦、堯舜の沢を被らざる者有らば、己れ推して之れを溝中に内るるが若しと思ふ」萬章上篇第七章に出づ、又其の下篇首章にも出づ、但し被の上に一つの与の字を加ふ、の言の如き、固より区々たる一囚奴の及ぶ所に非ざれども、囚徒の事は己が耳目の及ぶ所にして、特に吾ならでは他人論じ及ぶ者なければ、一身に負荷し、罪を獲るとも万々悔ゆる所なし。況んや口舌の謗議を顧みるに暇あらんや。
-
『講孟余話』盡心上 第二十五章余が疎懶、生来未だ嘗て初鳴の雞を聞かざる程の朝寝太郎を以て、野山獄二畳の室に居る。宜しく未だ物に接せざるの時あるべし。然れども大抵起くれば隣囚と語り、蓐を収め塵を払ひ、已にして書を披き是れを読む、寸隙あることなし。況んや人家にあるをや。若し或いは冬月永夜、獄中火気絶えて是れなく、寒気酷烈なるを以て、寅の刻前後より眠ること能はざること多し。此の時は蓐中に偃臥して、方に僅かに思ひを致すことを得。或いは父母親戚故旧を思ひ、或いは終身の計を思ひ、天下の勢を思ひ、昼間の書義を思ひ、孳々読書するよりも一層の新見を発明することあり。余入獄以来議論識見大いに往時に異なるを覚ゆ、皆是れを此の時に得るなり。故に或る人の未だ物に接せざるを問ふは、尤も是れ志なき痴騃の男児なるべし。程子主敬の二字を説きて一時の責めを塞ぐ、亦其の与に語るに足らざるを以てするか。抑々朱文公是れを注に収むるは又復た何の意ぞや。直ちに天下万世の士を待つに痴騃の男児を以てするにや。
-
『講孟余話』盡心下 首章然るに頃日一友あり、余を諷して云く、「宜しく野山獄の周旋をば止むべし。然らずんば人将に云はんとす、寅二罪人に比周すと」。余此の言を聞き激怒に堪へず、直ちに頭髪上りて刺す。噫、誠に不仁の甚だしきなるかな。蓋し其の人の意に謂へらく、寅二幸ひにして獄を脱す、若し或いは謗議に係り、再び獄に陥らば無益の事なり、己が身さへ獄を脱すれば、豈に他人を恤ふるに遑あらんやと。是れ世俗身家を惜しみ妻子を顧みるの常態にして、何ぞ与に伊尹の志を論ずるに足らんや。若し野山獄の諸囚皆繋を脱すべきの理なくして、余枉げて罪人に比周し、此の妄挙をなさば、一友の言誠に当たれり。然れども諸囚繋を脱すべきの理は、願はくは余が著す所の諸稿を熟覧せよ、其の妄挙に非ざるを知るに足らん。夫れ衆生済度の為の草鞋掛けの苦労は親鸞猶能く憚らず、外道懾服の為の斬首遠流は日蓮猶能く畏れず。彼皆異端邪説、聖人の徒の歯せざる所なるに彼が如し。況んや聖人の道に志し伊尹の任を願ふ者、何ぞ区々として謗議と岸獄とを惧れんや。
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「墨を逃るれば必ず楊に歸し、楊を逃るれば必ず儒に歸す。歸すれば斯に之を受けんのみ。今の楊・墨と辯ずる者は、放豚を追うが如し。既に其の苙に入れば、又從って之を招ぐ。」
-
『講孟余話』公孫丑下 第四章牛羊の喩へ甚だ好し。牛羊は人家に畜ふ所にして、一日も牧と芻となければ済まざるは人々知る所なり。況や民庶に至りては牛羊の比すべきに非ず。而るに窮民街に叫び、餓莩途に充つれども、却つて是れを知らず、是れを顧みず、是れ大いに怪しむべきに非ずや。是れ他なし、民を視ること牛羊に如かず、民を親しむこと牛羊に如かざるに由るなり。噫、民を牧する者、能く牛羊を牧するの心を以てせば、不仁の譏りを免れんか。若し夫れ罪を知りて改めざる者は、真に如何ともすべからざるの人なり。人の患は罪を犯して罪を知らざるにあり、是れ誠に憐むべし。今他人ありて其の罪を告げ知らしむ、其の人自ら罪を知る、而るに猶ほ且つ改めず、然れば則ち又更に告ぐべき様なし。世間を歴観するに此くの如きの人甚だ多し。共に忠孝仁義の美なるをも知り、不忠不孝不仁不義の悪なるをも知りつれども、其の行を省みれば、一つとして忠孝仁義に似たることなき者あり。是れ罪を知りて改めざる者にして、孔距心・宣王の流なり。
-
『講孟余話』盡心下 首章然れども一友の意又必ず云はん、「禹・稷・伊尹は皆天下の為なれば、仮令其の身を殺すとも恤へざる者あり。今寅二が野山の謀は小事のみ、何ぞ云ふに足らんや」と。是れ亦不仁の言なり。人命は至つて重し、一人も十人も百人も皆同じ。吾今一身を顧みて野山の事を顧みずんば、囚徒十一人遂に将に天日を見ずして死すべきのみ。一人を以て十一人に替へば、吾亦固より其の身を顧みざるに足るなり。且つ昔し聞くことあり、漢の陳平の未だ高祖に遇はざるや、家貧しくして読書を好む。嘗て里中の社に平宰たり、宰とは肉を割賦する役也を云ふ。平肉を分かつこと甚だ均し。父老の曰く、「善いかな陳孺子の宰たるや」と。平が曰く、「嗟乎、平に天下を宰することを得せしめば、亦此の肉の如くせんものを」と。余亦自ら視ること陳平の如し。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る