講孟余話 / 盡心上 第二十五章
余カ疎懶生來未タ嘗テ初鳴ノ雞ヲ聞サル程ノ朝寢太郎ヲ以テ、野山獄二疊ノ室ニ居ル、宜シク未タ物ニ接サルノ時アルヘシ、然トモ大抵起レハ隣囚ト語リ、蓐ヲ收メ塵ヲ拂ヒ、已ニシテ書ヲ披キ是ヲ読ム、寸隙アルコトナシ、况ヤ人家ニアルヲヤ、若シ或ハ冬月永夜、獄中火氣絕テ是ナク、寒氣酷烈ナルヲ以テ、寅刻前後ヨリ眠ルコト能ハサルコト多シ、此時ハ蓐中ニ偃臥シテ、方ニ僅ニ思ヲ致スコトヲ得、或ハ父母親戚故旧ヲ思ヒ、或ハ終身ノ計ヲ思ヒ、天下ノ勢ヲ思ヒ、晝間ノ書義ヲ思ヒ、孳々読書スルヨリモ一層ノ新見ヲ発明スルコトアリ、余入獄以來議論識見大ニ往時ニ異ナルヲ覚フ、皆是ヲ此時ニ得ル也、故ニ或ハ未接物ヲ問フハ尤モ是レ志ナキ痴騃男兒ナルヘシ、程子主敬ノ二字ヲ說テ一時ノ責ヲ塞ク、亦其與ニ語ルニ足ラサルヲ以テスルカ、抑朱文公是ヲ注ニ收ルハ又復何ノ意ソヤ、直ニ天下萬世ノ士ヲ待ツニ痴騃男兒ヲ以テスルニヤ
新字:余カ疎懶生来未タ嘗テ初鳴ノ鶏ヲ聞サル程ノ朝寝太郎ヲ以テ、野山獄二畳ノ室ニ居ル、宜シク未タ物ニ接サルノ時アルヘシ、然トモ大抵起レハ隣囚ト語リ、蓐ヲ収メ塵ヲ払ヒ、已ニシテ書ヲ披キ是ヲ読ム、寸隙アルコトナシ、況ヤ人家ニアルヲヤ、若シ或ハ冬月永夜、獄中火気絶テ是ナク、寒気酷烈ナルヲ以テ、寅刻前後ヨリ眠ルコト能ハサルコト多シ、此時ハ蓐中ニ偃臥シテ、方ニ僅ニ思ヲ致スコトヲ得、或ハ父母親戚故旧ヲ思ヒ、或ハ終身ノ計ヲ思ヒ、天下ノ勢ヲ思ヒ、昼間ノ書義ヲ思ヒ、孳々読書スルヨリモ一層ノ新見ヲ発明スルコトアリ、余入獄以来議論識見大ニ往時ニ異ナルヲ覚フ、皆是ヲ此時ニ得ル也、故ニ或ハ未接物ヲ問フハ尤モ是レ志ナキ痴騃男児ナルヘシ、程子主敬ノ二字ヲ説テ一時ノ責ヲ塞ク、亦其与ニ語ルニ足ラサルヲ以テスルカ、抑朱文公是ヲ注ニ収ルハ又復何ノ意ソヤ、直ニ天下万世ノ士ヲ待ツニ痴騃男児ヲ以テスルニヤ
書き下し
余が疎懶、生来未だ嘗て初鳴の雞を聞かざる程の朝寝太郎を以て、野山獄二畳の室に居る。宜しく未だ物に接せざるの時あるべし。然れども大抵起くれば隣囚と語り、蓐を収め塵を払ひ、已にして書を披き是れを読む、寸隙あることなし。況んや人家にあるをや。若し或いは冬月永夜、獄中火気絶えて是れなく、寒気酷烈なるを以て、寅の刻前後より眠ること能はざること多し。此の時は蓐中に偃臥して、方に僅かに思ひを致すことを得。或いは父母親戚故旧を思ひ、或いは終身の計を思ひ、天下の勢を思ひ、昼間の書義を思ひ、孳々読書するよりも一層の新見を発明することあり。余入獄以来議論識見大いに往時に異なるを覚ゆ、皆是れを此の時に得るなり。故に或る人の未だ物に接せざるを問ふは、尤も是れ志なき痴騃の男児なるべし。程子主敬の二字を説きて一時の責めを塞ぐ、亦其の与に語るに足らざるを以てするか。抑々朱文公是れを注に収むるは又復た何の意ぞや。直ちに天下万世の士を待つに痴騃の男児を以てするにや。
現代語訳
私はものぐさで、生まれてこのかた一番鶏の声を聞いたこともないほどの朝寝坊である。その私が野山獄の二畳の部屋にいる。まだ何事にも接しない時間があってもよさそうなものだ。けれども、たいてい起きれば隣の囚人と話し、寝具を片づけ塵を払い、やがて書物を開いて読む。少しの隙間もない。まして家にいる人ならなおさらだ。また、冬の長い夜には、獄中に火の気がまったくなく、寒さが厳しいので、午前四時ごろから眠れないことが多い。そういうときは布団の中に横になったまま、ようやく思いをめぐらすことができる。父母や親戚や旧友を思い、あるいは一生の計画を思い、天下の情勢を思い、昼間読んだ書物の意味を思う。そうすると、せっせと読書するよりも、いっそう新しい見方を見いだすことがある。私は入獄してから、自分の議論や見識が以前とは大きく変わったと感じているが、それはみな、この時間に得たものである。だから、ある人が「まだ物事に接していない時」のことを尋ねたのは、まったく志のない愚かな男であったに違いない。程子が「敬を主とする」の二字を説いてその場の問いをしのいだのも、まともに語り合う相手ではないと見たからだろうか。そもそも朱子がこれを注に収めたのは、またいったいどういうつもりなのか。天下万世の学ぶ者を、そんな愚かな男として扱うつもりなのだろうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
論語・為政篇子曰く、学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。
-
『初学訓』巻之二一ひろく書を読み学問しても、くはしく思はざれば、道理に通ぜずして、明らかならず、心に得がたし。孔子も、学んで思はざれば罔しとのたまへり。古今、書を読む人は多けれど、道を知る人稀なるは、書を読みたるのみにて、思はざればなり。思へば、よく深き理に通ず。万の芸能も、只つとめたるばかりにて、思案の工夫なければ、其芸進まざるが如し。思の工夫、其益大なるかな。
-
『酔古堂剣掃』集醒・意は筆の先に在り意は筆の先に在り、庖羲に向ひて細かに易畫を叅ず。慧は牙の後に生ず、恍として顏氏の冷やかに書齋に坐するがごとし。
-
言志四録・言志耋録 第百一条 精神を肚腔に鎮む凡そ道理を思惟して、其の恰好なる者を得るは、往往宵分に在り。神気澄静なるを以てなり。静坐の時は、最も宜しく精神を収斂して、肚腔に鎮在せしむべし。即ち事を処するの本と為す。認めて参禅の様子と做すこと勿れ。
-
言志四録・言志晩録 第二百八十八条 無は有より生ず無は、無より生ぜずして、有より生ず。死は、死より死せずして、生より死す。
-
『講孟余話』告子上 第十九章五穀は種の美なる者なり。人の性は性の善なる者なり。聖学は学の美なる者なり。人の性を以て聖の学を学ぶは、此の上もなきことにて、善の善と云ふべし。今の人も鳥獣にも非ず、木石にも非ず、二目一口上頭下趾の人なり。今の学ぶ所の四書五経は、皆聖人の学なり。然るに善の善に至らざるは、熟の一字を闕く故なり。熟とは口にて読み、読みて熟せざれば心にて思ひ、思ひて熟せざれば行ふ。行ふて又思ひ、思ひて又読む。誠に然らば善の善たること疑ひなし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る