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講孟余話 / 盡心下 首章

然ルニ頃日一友アリ、余ヲ諷シテ云ク、宜シク野山獄ノ周旋ヲハ止ムヘシ、然ラスンハ人將サニ云ハントス、寅二罪人ニ比周スト、余此言ヲ聞キ激怒ニ堪ヘズ、直ニ頭髪上リ刺ス、噫誠ニ不仁ノ甚シキナルカナ、盖シ其人ノ意謂ラク、寅二幸ニシテ獄ヲ脫ス、若シ或ハ謗議ニ係リ、再ヒ獄ニ陷ラハ無益ノ事ナリ、己カ身サヘ獄ヲ脫スレハ、豈他人ヲ恤フルニ遑アランヤト、是世俗身家ヲ惜ミ妻子ヲ顧ルノ常態ニシテ、何ソ與ニ伊尹ノ志ヲ論スルニ足ランヤ、若シ野山獄ノ諸囚皆繫ヲ脫スヘキノ理ナクシテ、余枉テ罪人ニ比周シ、此妄擧ヲナサハ、一友ノ言誠ニ當レリ、然トモ諸囚繫ヲ脫スヘキノ理ハ、願クハ余カ著ス所ノ諸高ヲ熟覽セヨ、其妄擧ニ非サルヲ知ルニ足ラン、夫衆生濟度ノ爲ノ草鞋掛ノ苦勞ハ親鸞猶能憚ラズ、外道懾服ノ爲ノ斬首遠流ハ日蓮猶能ク畏レズ、彼皆異端邪說、聖人ノ徒ノ歯セサル所ナルニ彼カ如シ、况ンヤ聖人ノ道ニ志シ伊尹ノ任ヲ願フ者、何ソ區々トシテ謗議ト岸獄トヲ惧レンヤ、

新字:然ルニ頃日一友アリ、余ヲ諷シテ云ク、宜シク野山獄ノ周旋ヲハ止ムヘシ、然ラスンハ人将サニ云ハントス、寅二罪人ニ比周スト、余此言ヲ聞キ激怒ニ堪ヘズ、直ニ頭髪上リ刺ス、噫誠ニ不仁ノ甚シキナルカナ、盖シ其人ノ意謂ラク、寅二幸ニシテ獄ヲ脱ス、若シ或ハ謗議ニ係リ、再ヒ獄ニ陥ラハ無益ノ事ナリ、己カ身サヘ獄ヲ脱スレハ、豈他人ヲ恤フルニ遑アランヤト、是世俗身家ヲ惜ミ妻子ヲ顧ルノ常態ニシテ、何ソ与ニ伊尹ノ志ヲ論スルニ足ランヤ、若シ野山獄ノ諸囚皆繋ヲ脱スヘキノ理ナクシテ、余枉テ罪人ニ比周シ、此妄挙ヲナサハ、一友ノ言誠ニ当レリ、然トモ諸囚繋ヲ脱スヘキノ理ハ、願クハ余カ著ス所ノ諸高ヲ熟覧セヨ、其妄挙ニ非サルヲ知ルニ足ラン、夫衆生済度ノ為ノ草鞋掛ノ苦労ハ親鸞猶能憚ラズ、外道懾服ノ為ノ斬首遠流ハ日蓮猶能ク畏レズ、彼皆異端邪説、聖人ノ徒ノ歯セサル所ナルニ彼カ如シ、況ンヤ聖人ノ道ニ志シ伊尹ノ任ヲ願フ者、何ソ区々トシテ謗議ト岸獄トヲ惧レンヤ、

書き下し

然るに頃日一友あり、余を諷して云く、「宜しく野山獄の周旋をば止むべし。然らずんば人将に云はんとす、寅二罪人に比周すと」。余此の言を聞き激怒に堪へず、直ちに頭髪上りて刺す。噫、誠に不仁の甚だしきなるかな。蓋し其の人の意に謂へらく、寅二幸ひにして獄を脱す、若し或いは謗議に係り、再び獄に陥らば無益の事なり、己が身さへ獄を脱すれば、豈に他人を恤ふるに遑あらんやと。是れ世俗身家を惜しみ妻子を顧みるの常態にして、何ぞ与に伊尹の志を論ずるに足らんや。若し野山獄の諸囚皆繋を脱すべきの理なくして、余枉げて罪人に比周し、此の妄挙をなさば、一友の言誠に当たれり。然れども諸囚繋を脱すべきの理は、願はくは余が著す所の諸稿を熟覧せよ、其の妄挙に非ざるを知るに足らん。夫れ衆生済度の為の草鞋掛けの苦労は親鸞猶能く憚らず、外道懾服の為の斬首遠流は日蓮猶能く畏れず。彼皆異端邪説、聖人の徒の歯せざる所なるに彼が如し。況んや聖人の道に志し伊尹の任を願ふ者、何ぞ区々として謗議と岸獄とを惧れんや。

現代語訳

ところが近ごろ一人の友人が、私にそれとなく忠告して言った。「野山獄の世話はやめたほうがよい。そうでないと、人々は寅二郎が罪人と徒党を組んでいると言い出すだろう」と。私はこの言葉を聞いて怒りに堪えず、髪の毛が逆立つほどであった。ああ、なんと不仁のはなはだしいことか。思うにその人の考えはこうである。寅二郎は運よく獄を出られた。もし悪口に巻き込まれてまた獄に入ることになれば無益なことだ。自分の身さえ獄を出られたなら、他人を気にかけている暇などあるものか、と。これは世間の人が我が身と家を惜しみ、妻子のことを気にかけるいつもの有様であって、どうして共に伊尹の志を論じるに足りようか。もし野山獄の囚人たちに牢を出てよい道理が何もないのに、私が道理を曲げて罪人と徒党を組み、このような無謀なことをしているのなら、友人の言葉はまことにもっともである。けれども囚人たちが牢を出てよい道理については、どうか私の書いたいくつもの文章をよく読んでほしい。無謀なふるまいではないことが分かるはずだ。そもそも人々を救うための草鞋がけの苦労を、親鸞はいとわなかった。異教の者を屈服させるための斬首や遠流を、日蓮は恐れなかった。彼らはみな聖人の徒が相手にしない異端の説を奉じる者であるのに、あのようであった。まして聖人の道に志し、伊尹の責任感を願う者が、どうしてちっぽけな悪口や牢獄を恐れようか。

解説

獄を出た松陰に、友人が「囚人の世話はやめよ、罪人の仲間だと言われるぞ」と忠告しました。松陰はこれに髪が逆立つほど怒り、自分さえ助かればよいという世俗の心を不仁の極みだと退けます。そして、自分の働きかけが無謀でないことは書いた文章を読めば分かると言い、親鸞や日蓮でさえ人々のために苦難を恐れなかったと引き合いに出します。身の安全を案じる忠告が、時に人の志を挫く言葉になることがある。正しいと信じる働きかけを続けるときの、覚悟のありかを示す一節です。

この章句が説くこと

不仁保身覚悟伊尹志

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