講孟余話 / 盡心下 第二十四章
此章ヲ以テ告子上篇論スル所ノ性ヲ知ルヘシ、口味目色、耳声鼻臭、四肢安佚、是皆形氣上ノ欲ナレバ、孟子ハ性ト云ハス、父子ノ仁、君臣ノ義、賓主ノ礼、賢者ノ智、聖人ノ天道、皆是人心固有ノ理ナレハ、孟子ノ性ヲ云学者手ヲ下ス囓緊ノ工夫ナリ、故ニ孟子未タ曾テ氣質ノ性ヲ云ハス、疎ナルニアラス、教ヲナス所以也、詳ニ告子上篇第六章ニ割記ス、仁義礼智信五常ノ說ハ、漢儒五行配當ノ牽强ヨリ出タルコトニテ、古ハ五字并ヘ称セス、孟子ノ四端モ信ハ其数ニ在ズト古学者ノ說ナリ、余常ニ五倫五常ヲ以テ合セ云ント欲シテ、未タ其拠ヲ得ズ、
新字:此章ヲ以テ告子上篇論スル所ノ性ヲ知ルヘシ、口味目色、耳声鼻臭、四肢安佚、是皆形気上ノ欲ナレバ、孟子ハ性ト云ハス、父子ノ仁、君臣ノ義、賓主ノ礼、賢者ノ智、聖人ノ天道、皆是人心固有ノ理ナレハ、孟子ノ性ヲ云学者手ヲ下ス囓緊ノ工夫ナリ、故ニ孟子未タ曽テ気質ノ性ヲ云ハス、疎ナルニアラス、教ヲナス所以也、詳ニ告子上篇第六章ニ割記ス、仁義礼智信五常ノ説ハ、漢儒五行配当ノ牽強ヨリ出タルコトニテ、古ハ五字并ヘ称セス、孟子ノ四端モ信ハ其数ニ在ズト古学者ノ説ナリ、余常ニ五倫五常ヲ以テ合セ云ント欲シテ、未タ其拠ヲ得ズ、
書き下し
此の章を以て告子上篇論ずる所の性を知るべし。口の味、目の色、耳の声、鼻の臭、四肢の安佚、是れ皆形気上の欲なれば、孟子は性と云はず。父子の仁、君臣の義、賓主の礼、賢者の智、聖人の天道、皆是れ人心固有の理なれば、孟子の性を云ふ、学者手を下す喫緊の工夫なり。故に孟子未だ曾て気質の性を云はず、疎なるにあらず、教へをなす所以なり。詳らかに告子上篇第六章に割記す。仁義礼智信五常の説は、漢儒五行配当の牽強より出でたることにて、古は五字並べ称せず、孟子の四端も信は其の数に在らずと古学者の説なり。余常に五倫五常を以て合せ云はんと欲して、未だ其の拠を得ず。
現代語訳
この章によって、告子上篇で論じている「性」を知るべきである。口が味を、目が色を、耳が音を、鼻が匂いを求め、手足が安楽を求めるのは、みな体と気の上の欲であるから、孟子はこれを性とは言わない。父子の仁、君臣の義、賓客と主人の礼、賢者の智、聖人の天道は、みな人の心にもともと備わっている道理であるから、孟子が性と言うのはこれであり、学ぶ者が手を下すべき肝心の工夫である。だから孟子はいまだかつて気質の性ということを言わなかった。それは粗略なのではなく、教えをなすためなのである。詳しくは告子上篇第六章に記した。仁・義・礼・智・信の五常の説は、漢代の儒者が五行に当てはめた無理なこじつけから出たことで、昔は五字を並べて称することはなかった。孟子の四端にも信はその数に入っていない、というのが古学の学者の説である。私はいつも五倫と五常を合わせて言いたいと思いながら、まだその拠りどころを得ていなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之一・総論一孝弟、忠順、愛敬などは、皆仁義礼智の性より行ひ出せる道理にして、其理は五常の性の内にあり。性の条目にはあらず。人の性は唯仁なり。わかてば五常となる。一人たるもの、必五常の性を生れつきたれば、事物にふれて、必四端おこる。たとへば物の中にありて、其はしの少し外に見ゆるが如し。性は見えがたしといへども、外にあらはるる四端を以て、内に実に此性あることの証とすべし。孟子の、性は善也と説き給へるも、五常の性あればなり。人の性善なる故、人もし学問し、道を知りて行はば、堯舜の聖にもいたるべしとなり。この故に、程子曰く、孟子の万世に功有る者は、性善の一言なり。
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「口の味に於けるや、目の色に於けるや、耳の聲に於けるや、鼻の臭に於けるや、四肢の安佚に於けるや、性なり。命有り、君子は性と謂わざるなり。仁の父子に於けるや、義の君臣に於けるや、禮の賓主に於けるや、智の賢者に於けるや、聖人の天道に於けるや、命なり。性有り、君子は命と謂わざるなり。」
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『五常訓』巻之一・総論是智の端なり。もし是非をわきまへずんば、智なきなり。此四端は、人となれる者は必あり。此四端あるを以て、仁義礼智内にあることを知るべし。又如何なる愚なる人も、親を愛し、君をたふとび、兄を敬ひ、弟をあはれみ、善をほめ、悪を悪まざる者なし。是仁義あればなり。飢寒する人を見ては、あはれむ心おこるは、仁あればなり。又小人といへども、我がいつはりあらはれ、不義を人に知らるれば、赤面し、汗をながす。是義あればなり。凡かやうの類、物にふれて、善心おこること多し。みづから心見て知るべし。皆是仁義礼智の四徳を生れつきたるにあらずや。ここを以て、孟子は、人の性は善なりとのたまふ。もし五常の徳なくんば、何ぞ性は善なりといはんや。
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『講孟余話』告子上 第六章第六章。「乃ち其の情の若きは則ち以て善を為すべし、乃ち所謂善なり。夫の不善を為すが若きは、才の罪に非ざるなり」。孟子の性善を論ずる此の二句あるのみ。然れば善をなすは性なるべけれども、不善を為すは何を以てなすか、遂に説明せず。且つ情は性の動にして、喜怒哀楽の発して節に中るは、中庸の所謂和にして、即ち孟子の所謂善なり。然れども或は節に中らずんば、和に非ず、善に非ず。然れば情は善をなすべきのみに非ず、又不善をもなすべし。是に於て程子曰く、「性を論じて気を論ぜざれば備はらず」、張子曰く、「形ありて後気質の性あり」と。気質の説興りてより孟子性善の説初めて礙る所なし、備はれりと云ふべし。然れども余是に於て孟子と程張と学問の優劣あるを知るべし。程張は議論上の事にて、孟子は事実上の教へなり。孟子の人を教ふる、始終人の性善を引き起こすことを主とす。故に人あり孟子に謁して性悪と云ふ者あれば、孟子教へて云く、汝惻隠の心はなきか、云く、あり。云く、是れ仁なり。汝羞悪の心はなきか、云く、あり。云く、是れ義なり。汝恭敬の心はなきか、云く、あり。云く、是れ礼なり。汝是非の心はなきか、云く、あり。云く、是れ智なり。汝已に仁義礼智を具す、是れ性善にあらずやと。其の人若し貨を好み色を好み楽を好むと云へば、衆と共にするの良心を引き起こし、大欲ありと云へば、心に快きかと云ふ。故に孟子の前にて性悪を主張する者ありとも、其の人々に就きて其の本然の良心を引き起こさるる故、絶えて性悪の説を云ふに暇あらず。孟子の人を教ゆる斯くの如し。程張に至りては、孟子を後立てにして、荀卿・揚雄・韓愈の徒と難を構ふるのみ。其の説愈々備はりて其の実愈々疎なり。
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『初学訓』巻之一一仁義礼智の真実にして偽なき理を信といふ。信はまことなり。まことなければ、仁義礼智も偽となり、万の善も、皆あだことなり。仁義礼智の四徳に、信をくはへて五常とす。又、五性といふ。性とは、心に生れつきたる理なり。此五性は、万世まで人にうまれつきて、かはらざる理なれば、五常といふ。百行万善、皆五常より出づ。五常を以て、万善をかねたり。人の心とするは、此五にあり。此外に心を求むるは、天地聖人の道にあらず。
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『五常訓』巻之一・総論一仁義礼智の四徳、古今天下の人の心に、皆生れつきてそなはれる事、何を以てか知るや。四端あるを以て知れり。四端とは、惻隠、羞悪、辞譲、是非を云ふ。是仁義礼智の四徳、心の内にありて、物にふれて自ら心上におこりて、外にあらはるるを云ふ。故に四端と名づく。端とは、物内にありて見えずといへども、其端少し外にあらはれ出づるを以て、其物の内にあることを知るが如し。仁義礼智の性、心の内にありて、いまだ起らざる時は、其有無見るべからずといへども、物に感じておこり、用となるにいたりて、仁は惻隠となり、義は羞悪となり、礼は恭敬となり、智は是非となる。もし内に、仁義礼智の四徳なくんば、必此四端あらはるべからず。内にある故に、外に四端あらはる。
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