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講孟余話 / 盡心下 第二十三章

今ノ時果シテ馮婦周処ノ如キ者アラハ、余從テ鞭ヲ執ルト云トモ、甘スル所ナリ、而シテ世遂ニ此人ナキヲ嘆スルノミ、抑方今ノ士ナル者、其少壯ノ時ニ當テ、或ハ武伎勇力ヲ鍊磨シ踏水攀山ノ勞ヲ顧ミサレトモ、年未タ强ナラサルニ、意氣已ニ衰茶シテ、頗ル袴ノ劈積ヲ付ケ、頗ル鬢ヲ薄フシ髻ヲ細メ、修飾ヲ事トシ、文柔ヲ学フ、復タ臂ヲ攘ケ車ヲ下ルノ英氣ヲ見ズ、是馮婦ノ愧ル所也、方今ノ吏タル者、亦壯强ノ時ニ當テハ、或ハ果断剛直ノ風モアリ、賄賂ヲ絕シ請託ヲ拒メトモ、年未タ老ナラサルニ、志操已ニ弛廃シテ、上ニ媚態ヲ献シ、下ニ私惠ヲ衒ヒ、廉ナル者ハ漸ク貪、儉ナル者ハ漸ク奢、復タ臂ヲ攘ケ車ヲ下ルノ英勢ヲ見ス、是亦馮婦ノ愧ル所也、然ラハ則馮婦実ニ侮リ易カラサル也、而ルニ孟子ノ言、遂ニ千秋ノ鉄案トナリテ、衆皆馮婦ヲ笑ハサルハナシ、今余馮婦ノ爲ニ千秋ノ宿寃ヲ洗フ、世ノ士タル者固ヨリ亦吾ヲ笑ハンノミ、余嘗テ知ル所ノ一武夫ノ爲メニ馮婦ノ事ヲ語ル、其人憮然トシテ云ク、我ノ如キヤ、力善ク二十五貫目ヲ荷ヒ、飯ヲ食フコト一升ニ下ラス、今已ニ五十歲、往々人ノ爲ニ往昔ヲ語リ、或ハ人爲ニ力ト食トヲ誇示セント欲シ、或ハ疝癪ヲ引出スコト数々ナリ、是眞ニ馮婦ノ爲サル所也、戒愼セサルヘケンヤト、今ノ士吏此章ヲ読ム者、誰能ク此武夫ニ及ハンヤ

新字:今ノ時果シテ馮婦周処ノ如キ者アラハ、余従テ鞭ヲ執ルト云トモ、甘スル所ナリ、而シテ世遂ニ此人ナキヲ嘆スルノミ、抑方今ノ士ナル者、其少壮ノ時ニ当テ、或ハ武伎勇力ヲ錬磨シ踏水攀山ノ労ヲ顧ミサレトモ、年未タ強ナラサルニ、意気已ニ衰茶シテ、頗ル袴ノ劈積ヲ付ケ、頗ル鬢ヲ薄フシ髻ヲ細メ、修飾ヲ事トシ、文柔ヲ学フ、復タ臂ヲ攘ケ車ヲ下ルノ英気ヲ見ズ、是馮婦ノ愧ル所也、方今ノ吏タル者、亦壮強ノ時ニ当テハ、或ハ果断剛直ノ風モアリ、賄賂ヲ絶シ請託ヲ拒メトモ、年未タ老ナラサルニ、志操已ニ弛廃シテ、上ニ媚態ヲ献シ、下ニ私恵ヲ衒ヒ、廉ナル者ハ漸ク貪、倹ナル者ハ漸ク奢、復タ臂ヲ攘ケ車ヲ下ルノ英勢ヲ見ス、是亦馮婦ノ愧ル所也、然ラハ則馮婦実ニ侮リ易カラサル也、而ルニ孟子ノ言、遂ニ千秋ノ鉄案トナリテ、衆皆馮婦ヲ笑ハサルハナシ、今余馮婦ノ為ニ千秋ノ宿冤ヲ洗フ、世ノ士タル者固ヨリ亦吾ヲ笑ハンノミ、余嘗テ知ル所ノ一武夫ノ為メニ馮婦ノ事ヲ語ル、其人憮然トシテ云ク、我ノ如キヤ、力善ク二十五貫目ヲ荷ヒ、飯ヲ食フコト一升ニ下ラス、今已ニ五十歳、往々人ノ為ニ往昔ヲ語リ、或ハ人為ニ力ト食トヲ誇示セント欲シ、或ハ疝癪ヲ引出スコト数々ナリ、是真ニ馮婦ノ為サル所也、戒慎セサルヘケンヤト、今ノ士吏此章ヲ読ム者、誰能ク此武夫ニ及ハンヤ

書き下し

今の時果して馮婦・周処の如き者あらば、余従ひて鞭を執ると云へども、甘んずる所なり。而して世遂に此の人なきを嘆ずるのみ。抑々方今の士なる者、其の少壮の時に当たりて、或いは武技勇力を練磨し、踏水攀山の労を顧みざれども、年未だ強ならざるに、意気已に衰茶して、頗る袴の劈積を付け、頗る鬢を薄うし髻を細め、修飾を事とし、文柔を学ぶ。復た臂を攘げ車を下るの英気を見ず、是れ馮婦の愧づる所なり。方今の吏たる者、亦壮強の時に当たりては、或いは果断剛直の風もあり、賄賂を絶ち請託を拒めども、年未だ老ならざるに、志操已に弛廃して、上に媚態を献じ、下に私恵を衒ひ、廉なる者は漸く貪り、倹なる者は漸く奢り、復た臂を攘げ車を下るの英勢を見ず、是れ亦馮婦の愧づる所なり。然らば則ち馮婦実に侮り易からざるなり。而るに孟子の言、遂に千秋の鉄案となりて、衆皆馮婦を笑はざるはなし。今余馮婦の為に千秋の宿冤を洗ふ、世の士たる者固より亦吾を笑はんのみ。余嘗て知る所の一武夫の為めに馮婦の事を語る。其の人憮然として云く、「我の如きや、力善く二十五貫目を荷ひ、飯を食ふこと一升に下らず。今已に五十歳、往々人の為に往昔を語り、或いは人の為に力と食とを誇示せんと欲し、或いは疝癪を引き出すこと数々なり。是れ真に馮婦の為さざる所なり、戒慎せざるべけんや」と。今の士吏此の章を読む者、誰か能く此の武夫に及ばんや。

現代語訳

今の世にもし馮婦や周処のような者がいたら、私はその人に従って鞭を執る御者になってもかまわない。けれども世にはついにこういう人がいないのを嘆くばかりである。そもそも今の武士たる者は、若く壮んな時には、武芸や勇力を磨き、水を渡り山をよじ登る苦労もいとわないが、まだ四十にもならないうちに、意気はもうしぼんでしまい、袴にしきりに折り目をつけ、鬢を薄く剃り髷を細く結って身なりを飾ることばかりにかまけ、柔弱な文事を学ぶ。もう腕まくりして車から降りるような英気は見られない。これは馮婦が恥じるところである。今の役人たる者も、壮んな時には、決断が速く剛直な風があって、賄賂を断ち頼みごとを拒むこともあるが、まだ老いもしないうちに、志や節操はもう緩みきって、上にはこびへつらい、下には私的な恩恵をひけらかし、清廉だった者はしだいに貪欲になり、倹約だった者はしだいに奢侈になって、もう腕まくりして車から降りるような勢いは見られない。これもまた馮婦が恥じるところである。そうであれば、馮婦はまことに侮れない人物である。それなのに孟子の言葉がついに千年の定論となって、人々はみな馮婦を笑わない者はない。いま私は馮婦のために千年来の冤罪を晴らす。世の武士たちはもちろん私を笑うだけであろう。私はかつて、知り合いの一人の武士に馮婦のことを語った。その人はがっかりしたように言った。「私などは、二十五貫目を担ぐ力があり、飯は一升を下らずに食べたものだ。いまもう五十歳になるが、しばしば人に昔話をし、あるいは人に力自慢や大食いを見せようとして、腹痛やしゃくを起こすことがたびたびある。これこそ本当に馮婦のしなかったことだ。戒め慎まないでいられようか」と。今の武士や役人でこの章を読む者のうち、誰がこの武士に及ぶことができようか。

解説

松陰は馮婦擁護をさらに進め、今の武士や役人こそ馮婦に恥じるべきだと言います。若い頃は武芸に励み賄賂を拒んでいた者が、まだ壮年のうちに身なりを飾り、上にへつらうようになる。いざという時に腕まくりして立ち上がる気概が失われている、というのです。そして、知人の老武士が馮婦の話を聞き、昔の力自慢を人に見せて体を壊す自分こそ馮婦のしないことだと省みた逸話で結びます。年齢とともに気概を失うことへの警告と、自分を省みる謙虚さの両方を描いた、味わいのある一節です。

この章句が説くこと

気概老い初心馮婦自省

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