講孟余話 / 盡心上 第四十二章
此章專ラ以道殉乎人者ノ非ヲ云フ、道ハ吾身ニ存ス、故ニ身ハ道ノ宅ナリ、道ヲ以テ人ニ殉スルトハ、道ヲ抱タル身ヲ持ナカラ、人ニ曲從阿諛シ、非ニ陷リ惡ニ沒スルコトニテ、左スレハ吾身ノ道カ他人ノ爲ニ滅ヒ死スル故ニ、道カ人ノ殉死トナルナリ、是以道殉乎人ノ義ナリ、仁斎云ク、道外無身、身外無道、故非以道殉身、則以身殉道、雖時有治否、而身之與道未嘗相離也ト、此說身ト道トノ間、說得テ明白也、別ニ議論ニ及ハス、只道ト身ト一物ト成テ外道邪魔ヲ防禦スヘシ、本文殉乎人ノ意ヲ反シテイフ、大要ニテ云ハヽ、道ハ身ノ本尊ニテ、身ノ尊キ所以ハ道ニアリ、身ハ道ノ伽藍ニテ、道ノ安置スル所ハ身ナリ、如何ナル大伽藍アリテモ、本尊ナケレハ伽藍ト云ヘカラズ、如何ナル難有本尊ニテモ、水ニ流シ火ニ投シテハ、灰塵トナリ泥沙ニ埋ルヽノミ、故ニ本尊ヲ守護スルハ伽藍ニ如ハナシ、道ヲ守護スルハ身ニ如ハナシ、道ノ身ト離レテ相濟マサルハ、猶本尊ト伽藍トノ如シ、
新字:此章専ラ以道殉乎人者ノ非ヲ云フ、道ハ吾身ニ存ス、故ニ身ハ道ノ宅ナリ、道ヲ以テ人ニ殉スルトハ、道ヲ抱タル身ヲ持ナカラ、人ニ曲従阿諛シ、非ニ陥リ悪ニ没スルコトニテ、左スレハ吾身ノ道カ他人ノ為ニ滅ヒ死スル故ニ、道カ人ノ殉死トナルナリ、是以道殉乎人ノ義ナリ、仁斎云ク、道外無身、身外無道、故非以道殉身、則以身殉道、雖時有治否、而身之与道未嘗相離也ト、此説身ト道トノ間、説得テ明白也、別ニ議論ニ及ハス、只道ト身ト一物ト成テ外道邪魔ヲ防禦スヘシ、本文殉乎人ノ意ヲ反シテイフ、大要ニテ云ハヽ、道ハ身ノ本尊ニテ、身ノ尊キ所以ハ道ニアリ、身ハ道ノ伽藍ニテ、道ノ安置スル所ハ身ナリ、如何ナル大伽藍アリテモ、本尊ナケレハ伽藍ト云ヘカラズ、如何ナル難有本尊ニテモ、水ニ流シ火ニ投シテハ、灰塵トナリ泥沙ニ埋ルヽノミ、故ニ本尊ヲ守護スルハ伽藍ニ如ハナシ、道ヲ守護スルハ身ニ如ハナシ、道ノ身ト離レテ相済マサルハ、猶本尊ト伽藍トノ如シ、
書き下し
此の章専ら「道を以て人に殉ずる者」の非を云ふ。道は吾が身に存す、故に身は道の宅なり。道を以て人に殉ずるとは、道を抱きたる身を持ちながら、人に曲従阿諛し、非に陥り悪に没することにて、左すれば吾が身の道が他人の為に滅び死する故に、道が人の殉死となるなり。是れ「道を以て人に殉ず」の義なり。仁斎云く、「道の外に身なく、身の外に道なし。故に道を以て身に殉ずるに非ずんば、則ち身を以て道に殉ず。時に治否ありと雖も、而して身の道と、未だ嘗て相離れず」と。此の説、身と道との間、説き得て明白なり。別に議論に及ばず、只道と身と一物と成りて外道邪魔を防禦すべし。本文「人に殉ず」の意を反して云ふ。大要にて云はば、道は身の本尊にて、身の尊き所以は道にあり。身は道の伽藍にて、道の安置する所は身なり。如何なる大伽藍ありても、本尊なければ伽藍と云ふべからず。如何なる難有き本尊にても、水に流し火に投じては、灰塵となり泥沙に埋もるるのみ。故に本尊を守護するは伽藍に如くはなし、道を守護するは身に如くはなし。道の身と離れて相済まざるは、猶本尊と伽藍との如し。
現代語訳
この章はもっぱら「道を人のために殉じさせる者」の誤りを言っている。道は自分の身の中にある。だから身は道の住まいである。道を人のために殉じさせるとは、道を抱いた身を持ちながら、人に曲げて従いへつらい、誤りに陥り悪に沈むことで、そうなれば自分の身にある道が他人のために滅び死ぬので、道が人のための殉死となる。これが「道をもって人に殉ず」の意味である。伊藤仁斎は言う。「道の外に身はなく、身の外に道はない。だから道を身に殉じさせるのでなければ、身を道に殉じさせる。世に治乱はあっても、身と道とは一度も離れたことがない」。この説は、身と道の関係を明白に説いている。ほかに議論するまでもない。ただ道と身が一つになって、邪な道や悪魔を防ぐべきである。本文は「人に殉ず」の意味を裏返して言っている。要するに、道は身の本尊であって、身が尊いゆえんは道にある。身は道の伽藍であって、道を安置する所は身である。どんな大伽藍があっても、本尊がなければ伽藍とは言えない。どんなにありがたい本尊でも、水に流し火に投げ込めば、灰や塵となり、泥や砂に埋もれるだけだ。だから本尊を守るには伽藍に勝るものはなく、道を守るには身に勝るものはない。道と身が離れては成り立たないのは、ちょうど本尊と伽藍のようなものである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
孔子家語・觀周孔子、老聃に見えて問いて曰わく、「甚だしいかな、道の今に於いて行い難きや。吾れ比ごろ道を執りて、今委質して以て當世の君に求むるも受けられざるなり。道、今に於いて行い難きなり。」老子曰わく、「夫れ說く者は辯に流れ、聽く者は辭に亂さる。此の二者の如くんば、則ち道は以て忘る可からざるなり。」
-
孟子・告子章句上孟子曰く、「魚は我が欲する所なり。熊掌も亦た我が欲する所なり。二者兼ぬるを得可からずんば、魚を舍てて熊掌を取る者なり。生も亦た我が欲する所なり。義も亦た我が欲する所なり。二者兼ぬるを得可からずんば、生を舎てて義を取る者なり。生も亦た我が欲する所なれども、欲する所生より甚だしき者有り。故に苟くも得るを為さざるなり。死も亦た我が惡む所なれども、惡む所死より甚だしき者有り。故に患も辟けざる所有るなり。如し人の欲する所をして生より甚だしきもの莫からしめば、則ち凡そ以て生を得可き者は、何ぞ用いざらんや。人の惡む所をして死より甚だしき者莫からしめば、則ち凡そ以て患いを辟く可き者は、何ぞ為さざらんや。是に由れば則ち生くるも、而も用いざること有るなり。是に由れば則ち以て患いを辟く可きも、而も為さざること有るなり。是の故に欲する所、生より甚だしき者有り、惡む所、死より甚だしき者有り。獨り賢者のみ是の心有るに非ざるなり。人皆之れ有り。賢者は能く喪うこと勿きのみ。一簞の食、一豆の羹も、之を得れば則ち生き、得ざれば則ち死す。嘑爾(コ・ジ)として之を與うれば、道を行くの人も受けず。蹴爾として之を與うれば、乞人も屑(いさぎよい)しとせざるなり。萬鍾は則ち禮義を辨ぜずして之を受く。萬鍾は我に於て何をか加えん。宮室の美・妻妾の奉・識る所の窮乏者の我に得るが為か。鄉には身の死するが為にして受けず。今は宮室の美の為に之を為す。鄉には身の死するが為にして受けず。今は妻妾の奉の為に之を為す。鄉には身の死するが為にして受けず。今は識る所の窮乏者の我に得るが為にして之を為す。是れ亦た以て已む可からざるか。此を之れ其の本心を失うと謂う。」
-
史記 伯夷列伝伯夷・叔斉は孤竹の君の二子なり。父、叔斉を立てんと欲す。父卒するに及び、叔斉、伯夷に譲る。伯夷曰く、「父の命なり」と、遂に逃げ去る。叔斉も亦た立つを肯ぜずして之を逃る。国人、其の中子を立つ。是に於いて伯夷・叔斉、西伯昌の善く老を養ふを聞き、盍ぞ往きて帰せざらん、と。至るに及び、西伯卒す。武王、木主を載せ、号して文王と為し、東して紂を伐つ。伯夷・叔斉、馬を叩へて諫めて曰く、「父死して葬らず、爰に干戈に及ぶは、孝と謂ふ可きか。臣を以て君を弑するは、仁と謂ふ可きか」と。左右、之を兵せんと欲す。太公曰く、「此れ義人なり」と、扶けて之を去らしむ。武王、已に殷の乱を平らげ、天下、周を宗とす。而るに伯夷・叔斉は之を恥ぢ、義として周の粟を食らはず、首陽山に隠れ、薇を采りて之を食らふ。餓ゑて且に死せんとするに及び、歌を作る。其の辞に曰く、「彼の西山に登り、其の薇を采る。暴を以て暴に易へ、其の非を知らず。神農・虞・夏、忽焉として没わる。我、安にか適きて帰せん。于嗟、徂かん、命は之れ衰へたり」と。遂に首陽山に餓死す。
-
孟子・公孫丑章句下孟子、臣為るを致して歸る。王就いて孟子を見て曰く、「前日、見んことを願いて得可からず。同朝に侍するを得て甚だ喜べり。今、又寡人を棄てて歸る。識らず、以て此に繼いで見るを得可きか。」對えて曰く、「敢て請わざるのみ。固より願う所なり。」他日、王、時子に謂いて曰く、「我、中國にして孟子に室を授け、弟子を養うに萬鍾を以てし、諸大夫國人をして、皆矜式する所有らしめんと欲す。子盍ぞ我が為に之を言わざる。」時子、陳子に因りて以て孟子に告げしむ。陳子、時子の言を以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「然り。夫の時子惡くんぞ其の不可なるを知らんや。如し予をして富を欲せしめば、十萬を辭して萬を受く。是れ富を欲すと為さんか。季孫曰く、『異なるかな子叔疑。己をして政を為さしむ。用いられざれば則ち亦た已まん。又其の子弟をして卿為らしむ。人亦た孰か富貴を欲せざらん。而して獨り富貴の中に於いて、龍斷を私する有り。』古の市為るや、其の有る所を以て其の無き所に易う者なり。有司は、之を治むるのみ。賤丈夫有り。必ず龍斷を求めて之に登り、以て左右望して市利を罔せり。人皆以て賤しと為す。故に從って之を征す。商を征するは、此の賤丈夫自り始まる。」
-
孟子・離婁章句下孟子曰く、「人為さざる有り、而る後以て為す有る可し。」
-
孟子・滕文公章句下陳代曰く、「諸侯を見ざるは、宜(ほとんど)ど小なるが若く然り。今、一たび之を見ば、大は則ち以て王たらしめ、小は則ち以て霸たらしめん。且つ志に曰く、『尺を枉げて尋を直くす。』宜ど為す可きが若し。」孟子曰く、「昔、齊の景公田す。虞人を招くに旌を以てす。至らず。將に之を殺さんとす。『志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れず。』孔子奚をか取れる。其の招きに非ざれば往かざるを取れるなり。其の招きを待たずして往くが如きは何ぞや。且つ夫れ尺を枉げて尋を直くすとは、利を以て言うなり。如し利を以てせば、則ち尋を枉げ尺を直くして利あらば、亦た為す可きか。昔者、趙簡子、王良をして嬖奚と乘らしむ。終日にして一禽をも獲ず。嬖奚反命して曰く、『天下の賤工なり。』或ひと以て王良に告ぐ。良曰く、『請う之を復びせん。』彊いて後に可く。一朝にして十禽を獲たり。嬖奚反命して曰く、『天下の良工なり。』簡子曰く、『我、女と乘ることを掌らしめん。』王良に謂う。良可かず。曰く、『吾、之が為に我が馳驅を範すれば、終日一をも獲ず。之が為に詭遇すれば、一朝にして十を獲たり。詩に云う、其の馳することを失わざれば、矢を舍ちて破るが如し、と。我、小人と乘ることを貫わず。請う辭せん。』御者すら且つ射る者と比するを羞づ。比して禽獸を獲ること丘陵の若しと雖も、為さざるなり。道を枉げて彼に從うが如きは何ぞや。且つ子過てり。己を枉ぐる者は、未だ能く人を直くする者有らざるなり。」
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る