孔子家語 / 觀周
孔子見老聃而問焉,曰:「甚矣,道之於今難行也。吾比執道,而今委質以求當世之君而弗受也。道於今難行也。」老子曰:「夫說者流於辯,聽者亂於辭。如此二者,則道不可以忘也。」
新字:孔子見老聃而問焉,曰:「甚矣,道之於今難行也。吾比執道,而今委質以求当世之君而弗受也。道於今難行也。」老子曰:「夫説者流於弁,聴者乱於辞。如此二者,則道不可以忘也。」
書き下し
孔子、老聃に見えて問いて曰わく、「甚だしいかな、道の今に於いて行い難きや。吾れ比ごろ道を執りて、今委質して以て當世の君に求むるも受けられざるなり。道、今に於いて行い難きなり。」老子曰わく、「夫れ說く者は辯に流れ、聽く者は辭に亂さる。此の二者の如くんば、則ち道は以て忘る可からざるなり。」
現代語訳
孔子は老聃に会って尋ねた。「ひどいものです、今の世で道を行うことの難しさは。私は近頃、道を守って身を捧げ、当世の君主に用いられようとしましたが、受け入れられませんでした。今の世では道はまったく行われないのです。」老子は言った。「説く者は弁舌の巧みさに流され、聞く者は言葉の多さに惑わされる。こうした事情がある以上、道そのものを見失わないようにすることが大切なのだ。」
解説
道を実践しようとしても世に受け入れられない孔子の嘆きに対し、老子は、説く側の弁舌が巧みすぎると本質からずれ、聞く側も言葉の多さに惑わされて真意を見失うと指摘します。だからこそ、たとえ世に用いられなくとも、道そのものを見失わず保ち続けることが肝要だと説いています。理念や信念を語る言葉が巧みになりすぎると、かえって本質が伝わりにくくなるという指摘は、弁舌や情報発信力が重視される現代においても、伝える技術と伝えるべき中身のどちらを優先すべきかを考えさせる示唆に富んでいます。
この章句が説くこと
老子道弁舌世に用いられず信念
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