講孟余話 / 盡心上 第三十九章
此章本義明白辨ヲ待タス、余嘗テ滕文公下篇第八章ニ於テ割記シテ、征ヲ去テノ喩トス、今又勤学ノ士ニ就学一喩ヲ発セン、凡ソ讀書ノ功ハ晝夜ヲ舍テズ、寸陰ヲ惜ミテ是ヲ勵ムニ非レハ、其功ヲ見ルコトナシ、玆ニ一書生アリ、我勤学ニ倦メリ、將サニ学ヲ廃セント欲スト、其師之ニ教ヘテ曰ク、全ク廃センヨリ、遊惰心ニ任セテ、時ニ其間ヲ得ハ讀書スヘシト、余必ス傍ヨリ掎シテ云ハン、学ヲナシテ斯ノ如キハ、遂ニ功見ルコトナシ、全ク廃スルノ勝レルニ如カズト、若シ一弟子アリ、入テハ孝、出テハ悌、躬行ノ餘力ヲ以テ、二三日間時ニ或ハ書ヲ読ミ学ヲ講セハ、余將サニ其志ヲ憐ンテ益々是ヲ勵マシ、一日ヲ加フト云トモ已ムニ勝レリト云ントス、而シテ遂ニ読書ノ功ヲ得ン者ハ、前ノ一書生ニ在ラスシテ、後ノ一弟子ニアルコト必セリ、此類萬事ニ就テ熟考シ、欲終之而不可得ト莫之禁而弗爲者トノ別ヲ知ルヘシ、特リ居喪ノ礼然ルノミニアラズ
新字:此章本義明白弁ヲ待タス、余嘗テ滕文公下篇第八章ニ於テ割記シテ、征ヲ去テノ喩トス、今又勤学ノ士ニ就学一喩ヲ発セン、凡ソ読書ノ功ハ昼夜ヲ舎テズ、寸陰ヲ惜ミテ是ヲ励ムニ非レハ、其功ヲ見ルコトナシ、玆ニ一書生アリ、我勤学ニ倦メリ、将サニ学ヲ廃セント欲スト、其師之ニ教ヘテ曰ク、全ク廃センヨリ、遊惰心ニ任セテ、時ニ其間ヲ得ハ読書スヘシト、余必ス傍ヨリ掎シテ云ハン、学ヲナシテ斯ノ如キハ、遂ニ功見ルコトナシ、全ク廃スルノ勝レルニ如カズト、若シ一弟子アリ、入テハ孝、出テハ悌、躬行ノ余力ヲ以テ、二三日間時ニ或ハ書ヲ読ミ学ヲ講セハ、余将サニ其志ヲ憐ンテ益々是ヲ励マシ、一日ヲ加フト云トモ已ムニ勝レリト云ントス、而シテ遂ニ読書ノ功ヲ得ン者ハ、前ノ一書生ニ在ラスシテ、後ノ一弟子ニアルコト必セリ、此類万事ニ就テ熟考シ、欲終之而不可得ト莫之禁而弗為者トノ別ヲ知ルヘシ、特リ居喪ノ礼然ルノミニアラズ
書き下し
此の章本義明白、弁を待たず。余嘗て滕文公下篇第八章に於て割記して、征を去るの喩へとす。今又勤学の士に就きて一喩を発せん。凡そ読書の功は昼夜を舎てず、寸陰を惜しみて是れを励むに非ざれば、其の功を見ることなし。玆に一書生あり、「我勤学に倦めり、将に学を廃せんと欲す」と。其の師之に教へて曰く、「全く廃せんよりは、遊惰心に任せて、時に其の間を得ば読書すべし」と。余必ず傍らより掎して云はん、「学をなして斯くの如きは、遂に功見ることなし、全く廃するの勝れるに如かず」と。若し一弟子あり、入りては孝、出でては悌、躬行の余力を以て、二三日間時に或いは書を読み学を講ぜば、余将に其の志を憐んで益々是れを励まし、「一日を加ふと雖も已むに勝れり」と云はんとす。而して遂に読書の功を得ん者は、前の一書生に在らずして、後の一弟子にあること必せり。此の類万事に就きて熟考し、「之を終へんと欲して得べからず」と「之を禁ずる莫くして為さざる者」との別を知るべし。特り居喪の礼然るのみにあらず。
現代語訳
この章の本来の意味は明白で、説明を要しない。私は以前、滕文公下篇第八章で書き留めて、税の取り立てをやめるたとえとした。今度は学問に励む者について一つたとえを出そう。およそ読書の成果は、昼も夜も休まず、寸刻を惜しんで励まなければ、見ることができない。ここに一人の書生がいて、「私は勉強に飽きた。学問をやめようと思う」と言う。その師がこう教える。「すっかりやめるよりは、気ままに遊びながら、時に暇があれば本を読みなさい」。私なら必ず横から引き止めて言うだろう。「そんな学び方をしていては、ついに成果は見られない。すっかりやめたほうがましだ」と。もし一人の弟子がいて、家では孝行し、外では目上を敬い、自分の行いを尽くした余力で、二、三日に一度、ときどき本を読み学問を講じるならば、私はその志を憐れんでますます励まし、「一日加えるだけでも、やめるよりはまさっている」と言うだろう。そしてついに読書の成果を得る者は、前の書生ではなく、後の弟子であることは確かだ。この類のことを万事について熟考し、「やり遂げたいのにできない者」と「誰も止めないのにしない者」の区別を知るべきである。喪に服する礼だけがそうなのではない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之四善く学ぶ者は、志倦まず、心盈たず。一善の聞かず、一理の知らざること、歉然として飲食の飽かざるが如し。此れ何に繇りて然るや。誠に道は限り無くして、事は尽くること無きを以てなり。君子の平居無事の時に当たりては、大率衆人と異なること無し。艱難多事に遇ひて、而る後に其の才器の蘊蓄する所、優れて且つ長ずることを見る。所謂盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つに足ること無きなり。
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『慎思録』巻之六古来本邦の文学の士、往往詩文を作為することを喜ぶ。其の工夫甚だ苦し。然れども其の文字多しと雖も、中華の作に似ず、作文の法度無き者多し。惜しむべし、箇の無益の閑労擾を做し、枉げて心力を費やすことを。若し果たして道を求むるの志有らば、断じて此に到らじ。
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『文武訓』文訓下一世の中に、生れつきすなほなれども書を読まず、又書は読めど道に志なき人あり、をしむべし。つとめて書を読み、道に志あれども、正学のすぢを知らずして、身ををはるまで大道にうとき人あり。是亦をしむべし。是皆聰明の足らざる故なり。
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『講孟余話』附尾 讀保建大記一條跋。講孟劄記成る。因りて復た瀏覧すること一周、遂に名を講孟余話と改む。蓋し劄は鍼刺なり。凡そ其の記す所、精義を発し、文藻を摛ぶること、鍼の膚を刺して鮮血迸り出づるが如く、鍼の衣を刺して彩線絺繍するが如くにして、而る後以て称名と為すに足るのみ。而して余の此の著、豈に其れ然らんや。余の獄に在るや、囚徒胥ひ居り、其の已に家に帰るや、親戚盍簪す。時に乃ち孟子を把りて之れを講ず。其の訓詁を精しくするに非ず、其の文字を喜ぶに非ず、唯だ其の一憂一楽、一喜一怒、尽く諸を孟子に寓するのみ。故に其の喜楽に当りてや、孟子を講じて、復た益々喜楽し、其の憂怒に当りてや、孟子を講じて、復た益々憂怒す。憂怒の抑ふべからず、喜楽の歇むべからず、話に随ひ話に随ひ、稍積みて巻を成す者、即ち此の著なり。然らば則ち是れ特に講孟の余話のみ、何ぞ劄記と為すことを得んや。余已に囚徒親戚と、其の憂楽を同じくし、其の喜怒を共にす、亦已に足れり。而るに又之れを録して巻を成し以て世に問ふ、太だ贅ならずや。且つ此れを持して経学先生に問はんか、経学先生将に其の雑駁麁豪を罵らんとす。此れを持して文章博士に問はんか、文章博士将に其の鄙俚蕪陋を笑はんとす。然らば則ち当今の世、孰れか問ひ孰れか答へんや。噫、是れ吾が余話の録に已む能はざる所以なり。夫れ天下経学文章を以て教へと為す、蓋し亦久しいかな。経学益々明らかに、文章益々美にして、国威日に細く、外夷日に熾んなり。斯の道の道たる所以の者は、果して何くにか在る。則ち天下吾と憂楽を同じくし喜怒を共にする者、亦何ぞ独り一二の囚徒親戚のみならんや。而るに余屏居して世を謝す、世其の人有りと雖も、相従ひて晤言するに由なし。則ち余話の録、吾益々已む能はざるなり。噫、天下の士、其れ何を以て之れを教へん。安政三年、歳丙辰に次る、季夏の日、二十一回猛士藤寅、諸を松陰の囚室に書す。此の編、業を去年六月十三日に起し、今年六月十三日に卒る。中間或は作り或は輟め、居処已に変じ、会する者又異なり、而して正に期月に当りて、方に乃ち編を成す、亦奇ならずや。寅重ねて書す。
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うひ山ぶみ・注[ロ]かのしなじなある学びのすぢすぢ外の国の事に用ひんよりは、わがみづからの国の事に用ひまほしく思ふ也、その勝劣のさだなどは、姑くさしおきて、まづよその事にのみかゝづらひて、わが内の国の事をしらざらんは、くちをしきわざならざらんや、志を高く大きにたてて云々、すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立テて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よわくては、学問すゝみがたく、倦怠るもの也、主としてよるべきすぢは云々、道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いさゝかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにはあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也、然るに道の事をば、なほざりにさしおきて、たゞ末の事にのみ、かゝづらひをらむは、学問の本意にあらず、さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生れ来つるは、
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「孔子東山に登りて魯を小とし、泰山に登りて天下を小とす。故に海を観る者には水と為し難く、聖人の門に游ぶ者には言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観る。日月明有り、光を容るるところ必ず照らす。流水の物為るや、科に盈たざれば行かず。君子の道に志すや、章を成さざれば達せず。」
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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