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講孟余話 / 盡心上 第二十九章

且曲藝ヲ以テ見ルヘシ、書画ヲ学者ハ、終身書画ヲ学ヒテ愈々己ノ不足ヲ知ル、若シ我ハ王羲之也、我ハ顧愷之ナリト云テ、已ニ其極処ニ至ルトシ、廃絶セハ、妄人ト云ヘシ、故ニ泉ニ及フト云テモ、学問ノ極處ニ至レハ事已ニ畢ルト云ニハアラス、学記ニモ学然後知其不足ト云ヘリ、学ヘハ学フ程、益高ク益堅キノ味ヲ知ルナリ、然トモ井ヲ掘ルハ水ヲ得ルカ爲ナリ、学ヲ講スルハ道ヲ得ルカ爲ナリ、水ヲ得サレハ、掘ルコト深シト云トモ、井トスルニ足ラス、道ヲ得サレハ、講スルコト勤ムト云トモ、学トスルニ足ラス、因テ知ル、井ハ水ノ多少ニ在テ、掘ルノ淺深ニ在ラス、学ハ道ノ得否ニ在テ、勤ムルノ厚薄ニ在ラサルコトヲ

新字:且曲芸ヲ以テ見ルヘシ、書画ヲ学者ハ、終身書画ヲ学ヒテ愈々己ノ不足ヲ知ル、若シ我ハ王羲之也、我ハ顧愷之ナリト云テ、已ニ其極処ニ至ルトシ、廃絶セハ、妄人ト云ヘシ、故ニ泉ニ及フト云テモ、学問ノ極処ニ至レハ事已ニ畢ルト云ニハアラス、学記ニモ学然後知其不足ト云ヘリ、学ヘハ学フ程、益高ク益堅キノ味ヲ知ルナリ、然トモ井ヲ掘ルハ水ヲ得ルカ為ナリ、学ヲ講スルハ道ヲ得ルカ為ナリ、水ヲ得サレハ、掘ルコト深シト云トモ、井トスルニ足ラス、道ヲ得サレハ、講スルコト勤ムト云トモ、学トスルニ足ラス、因テ知ル、井ハ水ノ多少ニ在テ、掘ルノ浅深ニ在ラス、学ハ道ノ得否ニ在テ、勤ムルノ厚薄ニ在ラサルコトヲ

書き下し

且つ曲芸を以て見るべし。書画を学ぶ者は、終身書画を学びて愈々己の不足を知る。若し「我は王羲之なり、我は顧愷之なり」と云ひて、已に其の極処に至るとし、廃絶せば、妄人と云ふべし。故に泉に及ぶと云ひても、学問の極処に至れば事已に畢ると云ふにはあらず。学記にも「学びて然る後に其の足らざるを知る」と云へり。学べば学ぶ程、益々高く益々堅きの味を知るなり。然れども井を掘るは水を得るが為なり、学を講ずるは道を得るが為なり。水を得ざれば、掘ること深しと云へども、井とするに足らず。道を得ざれば、講ずること勤むと云へども、学とするに足らず。因りて知る、井は水の多少に在りて、掘るの浅深に在らず。学は道の得否に在りて、勤むるの厚薄に在らざることを。

現代語訳

さらに、技芸で考えてみるとよい。書や絵を学ぶ者は、一生学び続けて、ますます自分の不足を知る。もし「私は王羲之だ」「私は顧愷之だ」と言って、もう極みに達したとしてやめてしまえば、思い上がった者というべきだ。だから「泉に届く」と言っても、学問の極みに至ればもう事は終わりだ、という意味ではない。礼記の学記にも「学んでのちに自分の足りないことを知る」とある。学べば学ぶほど、ますます高く、ますます堅いという味わいが分かってくるのである。とはいえ、井戸を掘るのは水を得るためであり、学問をするのは道を得るためである。水が出なければ、どれほど深く掘っても井戸とは言えない。道を得なければ、どれほど熱心に学んでも学問とは言えない。そこで分かる。井戸の値打ちは水の多い少ないにあって、掘った深さにあるのではない。学問の値打ちは道を得たかどうかにあって、努力の多さにあるのではないことを。

解説

前半で続けることを説いた松陰は、ここで二つのことを付け加えます。一つは、書の王羲之や絵の顧愷之のような名人の域に達したと思った途端に人は止まる、学べば学ぶほど自分の不足が見えるのが本当の学びだということ。もう一つは、井戸の値打ちは掘った深さではなく水が出たかどうかで決まるように、学問の値打ちも努力の量ではなく道を得たかどうかで決まるということです。続けることと、何のために続けるのかを見失わないこと。その両方がそろって初めて学問になる、という指摘です。

この章句が説くこと

学問目的謙虚不足成果

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