講孟余話 / 告子下 首章
然トモ本文立言ノ意ハ、礼ト云ハ歯決ナキヲ問ハズ、盡心上、放飯流歠、而問無齒決、是之謂不知務、又曲礼ニ濡肉齒決、乾肉不齒決、純ノ儉ニ從フ論語子罕、麻冕、礼也、今也、純儉吾從衆ノ類ナルコト固ナリ、唯語病アルノミ、但シ親迎ノ義ニ至テハ追考ヲ要スヘシ、礼中ニモ輕重アリ、食色皆各輕重アリ、物皆然リ、是ヲ以テ一本ノ義ヲ喩ルヘシ、滕文公上末章、天之生物也、使之一本、而夷子二本故也、君臣父子ノ五倫モ、遇フ所隨フ所ニ依テ輕重アリ、此レノ輕キ者ヲ以テ彼ノ重キ者ニ比セハ、彼固ヨリ重シ、彼ノ輕キ者ヲ以テ此レノ重キ者ニ比セハ、此レ固ヨリ重シ、故ニ輕キ者常輕アルコトナシ、時有テ重シ、重キ者常重アルコトナシ、時有テ輕シ、是亦權ノ義、時中ノ義ナリ、合セ考フヘシ
新字:然トモ本文立言ノ意ハ、礼ト云ハ歯決ナキヲ問ハズ、尽心上、放飯流歠、而問無歯決、是之謂不知務、又曲礼ニ濡肉歯決、乾肉不歯決、純ノ倹ニ従フ論語子罕、麻冕、礼也、今也、純倹吾従衆ノ類ナルコト固ナリ、唯語病アルノミ、但シ親迎ノ義ニ至テハ追考ヲ要スヘシ、礼中ニモ軽重アリ、食色皆各軽重アリ、物皆然リ、是ヲ以テ一本ノ義ヲ喩ルヘシ、滕文公上末章、天之生物也、使之一本、而夷子二本故也、君臣父子ノ五倫モ、遇フ所随フ所ニ依テ軽重アリ、此レノ軽キ者ヲ以テ彼ノ重キ者ニ比セハ、彼固ヨリ重シ、彼ノ軽キ者ヲ以テ此レノ重キ者ニ比セハ、此レ固ヨリ重シ、故ニ軽キ者常軽アルコトナシ、時有テ重シ、重キ者常重アルコトナシ、時有テ軽シ、是亦権ノ義、時中ノ義ナリ、合セ考フヘシ
書き下し
然れども本文立言の意は、礼と云ふは歯決なきを問はず、尽心上、「放飯流歠して、歯決なきを問ふ、是れを之れ務めを知らずと謂ふ」。又曲礼に「濡肉は歯決し、乾肉は歯決せず」純の倹に従ふ、論語子罕、「麻冕は礼なり。今や純は倹なり、吾は衆に従はん」の類なること固よりなり。唯語病あるのみ。但し親迎の義に至りては追考を要すべし。礼中にも軽重あり、食色皆各軽重あり、物皆然り。是を以て一本の義を喩るべし。滕文公上末章、「天の物を生ずるや、之をして一本ならしむ、而るに夷子は二本なる故なり」。君臣父子の五倫も、遇ふ所随ふ所に依りて軽重あり。此れの軽き者を以て彼の重き者に比せば、彼固より重し。彼の軽き者を以て此れの重き者に比せば、此れ固より重し。故に軽き者常に軽きことなし、時有りて重し。重き者常に重きことなし、時有りて軽し。是れ亦権の義、時中の義なり。合せ考ふべし。
現代語訳
とはいえ、本文が言おうとしている意味は、ここでの礼とは、肉を歯で噛み切るかどうかを問うような小さな礼であって(尽心上「大口で飯をかきこみ汁をすすりながら、肉を歯で噛み切らないかを問う。これを務めを知らないという」。また『礼記』曲礼に「柔らかい肉は歯で噛み切り、干し肉は噛み切らない」)、純の倹約に従うこと(『論語』子罕「麻の冠が礼にかなうが、今は絹で倹約だから、私は皆に従おう」)のたぐいであることは、もちろんである。ただ言い方に難があるだけである。ただし親迎の意味については、さらに考える必要がある。礼の中にも軽重があり、食にも色にもそれぞれ軽重がある。物はみなそうである。これによって「一本」の意味を悟るべきである(滕文公上末章「天が物を生じるとき、根本を一つにさせた。それなのに夷子は根本を二つにしている」)。君臣・父子などの五倫も、出会う場面、従う相手によって軽重がある。こちらの軽いものをあちらの重いものと比べれば、あちらが重いのは当然である。あちらの軽いものをこちらの重いものと比べれば、こちらが重いのは当然である。だから軽いものが常に軽いということはなく、時によって重くなる。重いものが常に重いということはなく、時によって軽くなる。これもまた権(はかり)の意味、時中(時にかなう)の意味である。合わせて考えるべきである。
解説
この章句が説くこと
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『翁問答』下卷之末体充曰、淳于髡曰く、男女授受するに親らせざるは礼か、孟子曰く、礼なり、曰く、嫂溺るれば則ち之を援くるに手を以てせんか、曰く、嫂溺るるを援けざるは是れ豺狼なり、男女授受するに親らせざるは礼なり、嫂溺るるときに之を援くるに手を以てするは権なり、曰く、今天下溺る、夫子の援けざるは何ぞや、曰く、天下溺るれば之を援くるに道を以てし、嫂溺るれば之を援くるに手を以てす、子は手もて天下を援けんと欲するか、孟子の此章を考見れば、経と権と差別あるべきと存候はいかゞ。師の曰、漢儒の経に反して道に合ふを権と為すの説は、此の章を見誤たる者なり此章の礼は礼法を指ていへり、礼法は天下万民日用通行のために平生急務の事ばかりを定たまふものなれば、非常の変事には礼法なし、道は大虚に充満して身をはなれざるものなれば、もとより平常日用の道も礼法なり、また非常の変に処する義も道なり権は此道の総名なる故に、礼法も本権なれ共事の模様定りて迹あるによつて権と名けがたき故に法と名づけたり、
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『講孟余話』盡心上 第二十六章権の一字是れ中を執るの法にして、全章の帰宿なり。余常に謂へらく、聖人の道は人倫を明らかにするにあり、明らかにするの工夫は是れ権の功なり。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五つの物、親・義・別・序・信の五つの事、是れ人倫なれば、後漢の趙苞の如く、三国の徐庶の如く、不幸にして人倫の変に遇ひたる時は、軽重を衡り、或いは仕を辞して親に随ひ、或いは国に殉じて家を顧みざる、皆時と勢とに因りて義を生ずる、是れ権なり。故に徒らに忠孝の道を学びて、権の字に心付かざれば、不忠不孝に陥ること多し。余常に是れを憂ふ。故に古今人倫の変に遇ひて、或いは善く権して其の義を全うし、或いは権すること能はずして其の義を闕く類の事蹟を類輯して一書となし、略論断を加へて、自ら観省に備へんと欲す、未だ及ぶに暇あらず。然れども已に変と云へば千差万別、始めより定体なし、又一言の尽くす所に非ず。且つ往古の死例を以て、将来の万変を制せんとするは迂闊拘泥の至りならずや。云く、「故きを温ねて新しきを知る」は孔門の学則なり。死例を活用すれば、思ひを広め智を発するの一助ともなるべし。其の要に至りては、欒共子の所謂(小学内篇通論引)「之の在る所は則ち死を致す」の意に原づきて是れを思はば、権の義に於て思ひ已に半ばに過ぎん。第二十七章。
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