講孟余話 / 盡心上 第二十五章
此章、上章成章ノ意ヲ承テ其工夫ヲ云フ、雞鳴而起、孳々爲善、一語至レリ盡セリ、成章ノ工夫此外復タ一事アルコトナシ、此章善ト利トノ別、又下章楊墨ノ說ヲ起ス也、楊子ハ利ニ似タリ、墨子ハ善ニ似タリ、註或問、雞鳴而起、若未接物、如何爲善、程子曰、只主於敬、便是爲善、是等ノ說最モ空論ニシテ著実ヲ闕ク、本文孳々ノ二字ヲ善ク觀ルヘシ、註ニモ勤勉ノ意トアリ、空々茫々ノ意ニ非ス、凢ソ有志ノ士ハ、片時モ空々茫々ノ間ナシ、夢寐ノ間ト云トモ、傳說周公ヲ見ルニ至ル、况ヤ已ニ起キテ尙空々茫々物ニ接セサルヲ疑ンヤ、且人家早旦尤モ忙シキ者ニテ、内則ニモ盥嗽櫛ヨリ父母舅姑ヲ拜スルニ至ル迄、許多ノ事アルヲミテ知ルヘシ、
新字:此章、上章成章ノ意ヲ承テ其工夫ヲ云フ、鶏鳴而起、孳々為善、一語至レリ尽セリ、成章ノ工夫此外復タ一事アルコトナシ、此章善ト利トノ別、又下章楊墨ノ説ヲ起ス也、楊子ハ利ニ似タリ、墨子ハ善ニ似タリ、註或問、鶏鳴而起、若未接物、如何為善、程子曰、只主於敬、便是為善、是等ノ説最モ空論ニシテ著実ヲ闕ク、本文孳々ノ二字ヲ善ク観ルヘシ、註ニモ勤勉ノ意トアリ、空々茫々ノ意ニ非ス、凢ソ有志ノ士ハ、片時モ空々茫々ノ間ナシ、夢寐ノ間ト云トモ、伝説周公ヲ見ルニ至ル、況ヤ已ニ起キテ尚空々茫々物ニ接セサルヲ疑ンヤ、且人家早旦尤モ忙シキ者ニテ、内則ニモ盥嗽櫛ヨリ父母舅姑ヲ拝スルニ至ル迄、許多ノ事アルヲミテ知ルヘシ、
書き下し
此の章、上章成章の意を承けて其の工夫を云ふ。「雞鳴にして起き、孳々として善を為す」、一語至れり尽くせり。成章の工夫此の外復た一事あることなし。此の章善と利との別、又下章楊墨の説を起こすなり。楊子は利に似たり、墨子は善に似たり。註の或問に、「雞鳴にして起き、若し未だ物に接せずんば、如何にして善を為さん。程子曰く、只敬を主とす、便ち是れ善を為すなり」。是等の説最も空論にして著実を闕く。本文孳々の二字を善く観るべし。註にも勤勉の意とあり、空々茫々の意に非ず。凡そ有志の士は、片時も空々茫々の間なし。夢寐の間と云へども、伝説・周公を見るに至る。況んや已に起きて尚空々茫々物に接せざるを疑はんや。且つ人家早旦尤も忙しき者にて、内則にも盥嗽櫛より父母舅姑を拝するに至る迄、許多の事あるを観て知るべし。
現代語訳
この章は、前の章の「形を成す」の意味を受けて、その工夫を言っている。「鶏が鳴けば起きて、せっせと善を行う」。この一句で言い尽くされている。形を成すための工夫は、このほかにもう一つのこともない。この章は善と利の区別を述べ、また次の章の楊朱・墨子の説を引き出している。楊朱は利に似て、墨子は善に似ている。朱子の注の問答に「鶏が鳴いて起きたとき、まだ物事に接していなければ、どうやって善を行うのか。程子は言う、ただ敬を主とすれば、それがそのまま善を行うことだ」とある。こうした説は最も空論で、地に足がついていない。本文の「孳々」の二字をよく見るべきだ。注にも「勤勉の意」とあって、ぼんやりしているという意味ではない。およそ志ある人は、片時もぼんやりしている間はない。眠って夢を見ている間でさえ、伝説や周公を夢に見るほどである。まして起きてからなお、ぼんやりと物事に接しない時があるなどと疑うだろうか。それに、家の中は早朝が最も忙しいもので、礼記の内則に、口をすすぎ髪をくしけずることから、父母や舅姑に挨拶するまで、多くの事柄があることを見れば分かる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「鶏鳴にして起き、孳孳として善を為す者は、舜の徒なり。鶏鳴にして起き、孳孳として利を為す者は、跖の徒なり。舜と跖との分を知らんと欲せば、他無し、利と善との間なり。」
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『大和俗訓』巻之七・躬行下一君子は、朝夕つとめて善を行ふ。小人は、朝夕つとめて利を行ふ。君子小人ともに、つとめ行ふといへども、其志は、利と善とかはれり。善に志すは聖人の徒なり。利に志すは盗蹠が徒なりと、孟子のたまへり。利とは、財利をむさぼるのみにあらず、我ひとり勝手よきやうに、便利をはかるも、利心なり。是私なり。私を行へば、必人に害あり。人に害あれば、必わが身の禍となる。善を行はん人は、必先利心を去るべし。利を心にさしはさんでする善は、誠の善にあらず。
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『呻吟語』内篇・存心・一念好き處に向かひて想へば、便ち是れ舜邊の人或ひと問ふ、「雞鳴きて起き、若し未だ物に接せずんば、如何にして善を為さん」と。程子曰く、「只だ敬を主とすれば、便ち是れ善なり」と。愚謂へらく、惟だ聖人のみ未だ物に接せざる時、何をか思ひ何をか慮らん。賢人以下は、睡り覺むる時、合下便ち一個の念頭を動かす。或いは昨日已に行ひし事、或いは今日當に行ふべき事、便ち心上に來たる。只だ這の念頭の如何を看よ。如し一念好き處に向かひて想へば、便ち是れ舜邊の人。若し一念好からざる處に向かひて想へば、便ち是れ跖邊の人。若し念中は是れ善なれども、本意に卻つて為にする所有らば、這れ又是れ舜中の跖なり。漸く來たり漸く去りて、還た跖邊に向かひて去らん。此れ是れ務頭の工夫なり。此の時己に克つこと更に容易しと覺え、點檢すること更に精明なりと覺ゆ。所謂「惡を去るは纖微に在り、善を持するは根本に在り」なり。
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『呻吟語』内篇・問學・仰ぎて之を思ひ、夜以て日に繼ぐ天子より以て庶人に至るまで、堯・舜より以て途の人に至るまで、必ず汲汲皇皇たる所以の者有りて、而る後に其の德進み、其の業成る。故に曰く、雞鳴きて起き、舜・跖の徒皆な孳孳たる所有り、と。心を用ふる所無きは、孔子之を憂へて曰く、「博奕なる者有らずや」と。孳孳たる所無き者は、舜ならずんば則ち跖なるを懼るればなり。今の君子は縱ひ心を用ふる所無くして、跖と為るに至らずと雖も、然れども飽食終日、惰慢彌年、既に山林の散客と作らず、又た廟堂の急務を問はず、醉へるが如く癡なるが如く、以て日月を了る。孟子の歷聖の道統心傳を論ずるは、憂勤惕勵の四字を出でず。其の最も親切なる者は曰く、「仰ぎて之を思ひ、夜以て日に繼ぐ。幸ひにして之を得れば、坐して旦を待つ」と。
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『講孟余話』盡心下 第三十三章此の章、「動容周旋礼に中る」より、「言語必ず信なり」に至る迄、凡そ四事、皆聖人の行事、勉強作為を仮らずして自然に出づるを云ふ。即ち上の二十五章に所謂「大にして之れを化する、之れを聖と謂ふ」と云ふ者なり。朱子曰く、「思はず勉めず、従容として道に中るは、人力の能く為す所に非ず」と。張子曰く、「大は為すべきなり、化は為すべからざるなり、之れを熟するに在るのみ」と(並びに二十五章の註)。唯だ此の四事を目的として勉強すべし、作為するも亦妨げなし。張子の「熟之」の二字尤も妙とす。
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『講孟余話』盡心上 第三十九章此の章本義明白、弁を待たず。余嘗て滕文公下篇第八章に於て割記して、征を去るの喩へとす。今又勤学の士に就きて一喩を発せん。凡そ読書の功は昼夜を舎てず、寸陰を惜しみて是れを励むに非ざれば、其の功を見ることなし。玆に一書生あり、「我勤学に倦めり、将に学を廃せんと欲す」と。其の師之に教へて曰く、「全く廃せんよりは、遊惰心に任せて、時に其の間を得ば読書すべし」と。余必ず傍らより掎して云はん、「学をなして斯くの如きは、遂に功見ることなし、全く廃するの勝れるに如かず」と。若し一弟子あり、入りては孝、出でては悌、躬行の余力を以て、二三日間時に或いは書を読み学を講ぜば、余将に其の志を憐んで益々是れを励まし、「一日を加ふと雖も已むに勝れり」と云はんとす。而して遂に読書の功を得ん者は、前の一書生に在らずして、後の一弟子にあること必せり。此の類万事に就きて熟考し、「之を終へんと欲して得べからず」と「之を禁ずる莫くして為さざる者」との別を知るべし。特り居喪の礼然るのみにあらず。
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