呻吟語 / 内篇・問學・仰ぎて之を思ひ、夜以て日に繼ぐ
自天子以至於庶人,自堯、舜以至於途之人,必有所以汲汲皇皇者,而後其德進,其業成。故曰:雞鳴而起,舜、跖之徒皆有所孳孳也。無所用心,孔子憂之曰:「不有博奕者乎?」懼無所孳孳者,不舜則跖也。今之君子縱無所用心,而不至於為跖,然飽食終日,惰慢彌年,既不作山林散客,又不問廟堂急務,如醉如癡,以了日月。《易》所謂「君子進德修業,欲及時也」,果是之謂乎?如是而自附於清品高賢,吾不信也。孟子論歷聖道統心傳,不出憂勤惕勵四字。其最親切者,曰:「仰而思之,夜以繼日;幸而得之,坐以待旦。」此四語不獨作相,士、農、工、商皆可作座右銘也。
新字:自天子以至於庶人,自堯、舜以至於途之人,必有所以汲汲皇皇者,而後其徳進,其業成。故曰:雞鳴而起,舜、跖之徒皆有所孳孳也。無所用心,孔子憂之曰:「不有博奕者乎?」懼無所孳孳者,不舜則跖也。今之君子縦無所用心,而不至於為跖,然飽食終日,惰慢弥年,既不作山林散客,又不問廟堂急務,如酔如癡,以了日月。《易》所謂「君子進徳修業,欲及時也」,果是之謂乎?如是而自附於清品高賢,吾不信也。孟子論歴聖道統心伝,不出憂勤惕勵四字。其最親切者,曰:「仰而思之,夜以継日;幸而得之,坐以待旦。」此四語不独作相,士、農、工、商皆可作座右銘也。
書き下し
天子より以て庶人に至るまで、堯・舜より以て途の人に至るまで、必ず汲汲皇皇たる所以の者有りて、而る後に其の德進み、其の業成る。故に曰く、雞鳴きて起き、舜・跖の徒皆な孳孳たる所有り、と。心を用ふる所無きは、孔子之を憂へて曰く、「博奕なる者有らずや」と。孳孳たる所無き者は、舜ならずんば則ち跖なるを懼るればなり。今の君子は縱ひ心を用ふる所無くして、跖と為るに至らずと雖も、然れども飽食終日、惰慢彌年、既に山林の散客と作らず、又た廟堂の急務を問はず、醉へるが如く癡なるが如く、以て日月を了る。孟子の歷聖の道統心傳を論ずるは、憂勤惕勵の四字を出でず。其の最も親切なる者は曰く、「仰ぎて之を思ひ、夜以て日に繼ぐ。幸ひにして之を得れば、坐して旦を待つ」と。
現代語訳
天子から庶人まで、堯舜から道行く人まで、必ずせわしく励む何かがあって、その後に徳が進み業が成ります。だから、鶏が鳴けば起き、舜も盗跖の徒もみな励むところがあった、と言うのです。心を用いるところが無い者を、孔子は憂えて、囲碁や双六でもあるだろうと言いました。励むところが無ければ、舜にならないなら盗跖になると恐れたからです。今の君子は心を用いるところが無くても盗跖にはなりませんが、一日中飽食し、年じゅう怠り緩み、山林の隠者にもならず、朝廷の急務も問わず、酔ったように呆けたように日月を終えます。孟子が歴代の聖人の道統の心伝を論ずるとき、憂え勤め恐れ励むという四字を出ません。最も切実なのは、仰いで考え夜を日に継ぎ、幸いにして得られたら座って夜明けを待つ、という言葉です。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・修身・晝の為す所、夜にして之を思ふ古の士民は、各おの其の業に安んじ、精神を策勵し、心事を點檢す。晝の為す所、夜にして之を思ひ、又た明日の為す所を思ふ。君子は其の德に汲汲とし、小人は其の業に汲汲とす。日に累ね月に進み、旦に興き晏く息ひ、敢へて一息の惰慢の氣有らず。今や然らず。百畝の家は力作に親しまず、一命の士は常業を治めず、浪談邪議して笑ひを聚め歡を覓む。噫、是れ亦た名づけて人と為すなり。後艱の踵り至るに惑ひ無きなり。
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『呻吟語』内篇・修身・惟だ憂ふる故に勤め、惟だ惕る故に勵む恒言に「疏懶勤謹」、此の四字は每に相因る。懶は疏を生じ、謹は自ら勤む。聖賢の身は豈に生まれながらにして逸を惡み勞を好まんや。天下皆な惰慢なれば則ち百務廢弛して亂亡之に隨ふを知ればなり。先正云ふ、古の聖賢は未だ嘗て怠惰荒寧を以て懼れと為し、勤勵して息まず自ら強めずんばあらず、と。惟だ憂ふる故に勤め、惟だ惕る故に勵む。
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『呻吟語』内篇・修身・勤勵故に精明、惰慢故に昏蔽古の人は勤勵し、今の人は惰慢なり。勤勵すれば故に精明にして、德日に修まる。惰慢なれば故に昏蔽して、欲日に肆なり。是を以て聖人は憂勤惕勵を貴ぶ。
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『呻吟語』内篇・存心・一念好き處に向かひて想へば、便ち是れ舜邊の人或ひと問ふ、「雞鳴きて起き、若し未だ物に接せずんば、如何にして善を為さん」と。程子曰く、「只だ敬を主とすれば、便ち是れ善なり」と。愚謂へらく、惟だ聖人のみ未だ物に接せざる時、何をか思ひ何をか慮らん。賢人以下は、睡り覺むる時、合下便ち一個の念頭を動かす。或いは昨日已に行ひし事、或いは今日當に行ふべき事、便ち心上に來たる。只だ這の念頭の如何を看よ。如し一念好き處に向かひて想へば、便ち是れ舜邊の人。若し一念好からざる處に向かひて想へば、便ち是れ跖邊の人。若し念中は是れ善なれども、本意に卻つて為にする所有らば、這れ又是れ舜中の跖なり。漸く來たり漸く去りて、還た跖邊に向かひて去らん。此れ是れ務頭の工夫なり。此の時己に克つこと更に容易しと覺え、點檢すること更に精明なりと覺ゆ。所謂「惡を去るは纖微に在り、善を持するは根本に在り」なり。
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『呻吟語』内篇・問學・不自滿假の四字堯・舜・禹・湯・文・武は全て「不自滿假」の四字より做し出だす。孔子に至りては、平生謙退沖虛、過ちを引きて自ら責む。只だ世間に無窮の道理有り、自家に未だ盡くさざるの分量有るを看著するのみ。聖人の心は蓋し此の如し。但だ人は堯・舜に非ず、誰か氣質無からん。稍しく偏り、造詣未だ至らず、識見未だ融せず、體驗未だ到らず、物欲未だ忘れざる底の過失は、只だ是れ自家平生の足らざる所の者なり。再び肯へて口中より說き出だして、以て自ら勉め自ら責めず、亦た肯へて別人に向かひて招認して、以て相勸め相規するを求めず。
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『呻吟語』内篇・問學・堯舜の事功、孔孟の學術「堯・舜の事功、孔・孟の學術」、此の八字は君子終身の急務なり。或るひと問ふ、「堯・舜の事功、孔・孟の學術は、何處にか手を下さん」と。曰く、「天地萬物を以て一體と為す、此れは是れ孔・孟の學術なり。天下萬物をして各おの其の所を得しむ、此れは是れ堯・舜の事功なり。總べ來たれば是れ一個の念頭なり」と。