講孟余話 / 盡心上 第二十三章
是レ上章養老ノ說ヲ承ケテ、民政ヲ論スル也、易其田疇トハ、民ニ農業ヲ出精サセ、田畠ヲ荒サセヌコト也、薄其稅斂トハ、取箇ヲ輕クスルコト也、民出精スルトモ、取箇重クテハ民ノ成立ツヘキ樣ナシ、取箇輕ケレハ、民モ自ラ勵ミテ出精スル者也、余老農ノ言ヲ聞ク、精農ハ田畠ノ端々ヲ善ク易ム、端々ハ僅カ一二尺宛ニテモ甚廣シ、惰農ハ中計リ耕シテ端々ヲ荒ス、是ヲ以テ同テ百畝ノ田モ、農ノ精惰ニ因テ夥シク饒歉アルコトナリト、余謂ラク、是レ易其田疇ノ觧トスヘシ、食之以時ハ、民ニ飮食ノ侈ヲサセヌコト也、用之以礼トハ、民ニ萬事過分ナルコトヲサセヌコト也、田疇能ク易リ、稅歛又輕クトモ、民間奢侈ニシテ過分ノ事多ケレハ、貧弱トナル基也、其極ハ田疇モ荒レ、輕キ稅歛モ重ク覚ユル也、此四ノ者ハ民政ノ始ニシテ、此四ツ已ニ行ルレハ、倉廩実而知礼節、衣食足而知栄辱ノ理ニテ、民不仁ナル者ナキニモ至ルヘシ、是ヲ行ハスシテ書面ノ下知ヲ以テ民ヲ有難カラセ、聖経佛典ヲ借テ民ヲ服サセントスルハ、末ナルカナ、末ナルカナ
新字:是レ上章養老ノ説ヲ承ケテ、民政ヲ論スル也、易其田疇トハ、民ニ農業ヲ出精サセ、田畠ヲ荒サセヌコト也、薄其税斂トハ、取箇ヲ軽クスルコト也、民出精スルトモ、取箇重クテハ民ノ成立ツヘキ様ナシ、取箇軽ケレハ、民モ自ラ励ミテ出精スル者也、余老農ノ言ヲ聞ク、精農ハ田畠ノ端々ヲ善ク易ム、端々ハ僅カ一二尺宛ニテモ甚広シ、惰農ハ中計リ耕シテ端々ヲ荒ス、是ヲ以テ同テ百畝ノ田モ、農ノ精惰ニ因テ夥シク饒歉アルコトナリト、余謂ラク、是レ易其田疇ノ觧トスヘシ、食之以時ハ、民ニ飲食ノ侈ヲサセヌコト也、用之以礼トハ、民ニ万事過分ナルコトヲサセヌコト也、田疇能ク易リ、税歛又軽クトモ、民間奢侈ニシテ過分ノ事多ケレハ、貧弱トナル基也、其極ハ田疇モ荒レ、軽キ税歛モ重ク覚ユル也、此四ノ者ハ民政ノ始ニシテ、此四ツ已ニ行ルレハ、倉廩実而知礼節、衣食足而知栄辱ノ理ニテ、民不仁ナル者ナキニモ至ルヘシ、是ヲ行ハスシテ書面ノ下知ヲ以テ民ヲ有難カラセ、聖経仏典ヲ借テ民ヲ服サセントスルハ、末ナルカナ、末ナルカナ
書き下し
是れ上章養老の説を承けて、民政を論ずるなり。「其の田疇を易む」とは、民に農業を出精させ、田畠を荒させぬことなり。「其の税斂を薄くす」とは、取箇を軽くすることなり。民出精するとも、取箇重くては民の成り立つべき様なし。取箇軽ければ、民も自ら励みて出精する者なり。余老農の言を聞く、「精農は田畠の端々を善く易む。端々は僅か一二尺宛にても甚だ広し。惰農は中計り耕して端々を荒らす。是れを以て同じく百畝の田も、農の精惰に因りて夥しく饒歉あることなり」と。余謂へらく、是れ「其の田疇を易む」の解とすべし。「之を食ふに時を以てす」は、民に飲食の侈りをさせぬことなり。「之を用ふるに礼を以てす」とは、民に万事過分なることをさせぬことなり。田疇能く易まり、税斂又軽くとも、民間奢侈にして過分の事多ければ、貧弱となる基なり。其の極は田疇も荒れ、軽き税斂も重く覚ゆるなり。此の四つの者は民政の始めにして、此の四つ已に行はるれば、「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」の理にて、民不仁なる者なきにも至るべし。是れを行はずして、書面の下知を以て民を有難がらせ、聖経仏典を借りて民を服させんとするは、末なるかな、末なるかな。
現代語訳
これは前の章の「老人を養う」説を受けて、民政を論じているのである。「田畑をよく耕させる」とは、民に農業に精を出させ、田畑を荒れさせないことである。「税を軽くする」とは、年貢を軽くすることである。民が精を出しても、年貢が重ければ民は暮らしが立たない。年貢が軽ければ、民も自分から励んで精を出すものだ。私は年老いた農民の言葉を聞いたことがある。「よく働く農民は田畑の端々までよく耕す。端々はわずか一、二尺ずつでも合わせればとても広い。怠ける農民は真ん中ばかり耕して端々を荒らす。だから同じ百畝の田でも、農民が勤勉か怠惰かで、ひどく豊作と不作の差が出るのだ」と。私は、これを「田畑をよく耕させる」の解釈とすべきだと思う。「時に応じて食べさせる」とは、民に飲食のぜいたくをさせないことである。「礼にかなって用いさせる」とは、民に何事も分を越えたことをさせないことである。田畑がよく耕され、年貢も軽くても、民間がぜいたくで分不相応なことが多ければ、貧しくなる元になる。そのあげくには田畑も荒れ、軽い年貢も重く感じるようになる。この四つは民政の出発点であり、この四つが行われれば、「倉が満ちて礼節を知り、衣食が足りて栄誉と恥を知る」の道理によって、民に不仁な者がいなくなるまでになるだろう。これを行わずに、文書の命令で民をありがたがらせ、聖人の経典や仏典を借りて民を従わせようとするのは、なんと末のことか、なんと末のことか。
解説
この章句が説くこと
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