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講孟余話 / 盡心上 第十三章

君子所過者化、所存者神、過化存神ノ妙ト云コト宋儒ノ常言也、余試ニ是ヲ云ハン、凢ソ天事議論モ理窟モ皆徒事也、唯妙処ハ妙ニアリ、漢ノ成元間ノ制詔ハ如何ニモ難有事計リニテ、少モ文景ニ替ルコトナケレトモ、天下衰微シテ遂ニ王氏ニ奪レタリ、其如クニテ声音笑貌ハ何程恭儉ヲ尽シテ、人ヲ服スルコトナラヌ也、是皆妙処ニ非ル故也、余乙卯ノ歲野山獄ニ在テ、自ラ揣ラス、勿体ナクモ、崇文公ノ著シ玉フ世子告文ヲ講ス、囚徒十一人及番人獄卒ニ至ルマテ、皆感激流涕セサルハナシ、且公ノ世子ノ時ノ事ヲ知ルニ及ヘル者、各、公ノ德民心ニ感孚スルノ狀ヲ說クコト悉セリ、同囚井上某、三田尻人ニシテ、當時世子殿ノ陳僧タリ、泣テ曰ク、予殿中ニ仕ルト云トモ、未タ曾テ世子此著アルコトヲ知ラス、今則チ獄ニ下リ是ヲ聞クコトヲ得ル、何ノ幸ソヤ、三田尻ハ當時民変ノ由テ起ル、初メ変ノ未タ起ラサル、苛虐ノ政ニ堪兼レハ、父老集議シテ曰ク、数年ノ後吾カ世子職ヲ継給ハヽ、吾儕蘇生ノ時アルヘシ、夫マテ辛抱スヘシト、斯ノ如キ者亦已ニ久シ、而シテ遂ニ一二奸民ノ誤ル所トナリ、彼大変ヲ煽スルナリ、若シ三田尻ノモヲシテ、當時此文ヲ聞クコトヲ得セシメハ、當サニ号哭声ヲ失フヘシト、時ニ冨永モ亦云ク、公ノ德誰カ傳ヘテ誰カ喩トス、而シテ二国ノ民、邊鄙ノ老婆愚婦ニ至ル迄感戴セサル者ナシ、余ハ小郡人ナリ、小郡ノ民感戴ノ狀ハ備ニ知レリ、後余亦又相嶋ニ流サル、嶋人ト云トモ、言、公ノ德ニ及ヘハ感激セサルハナシ、今猶然リ、是眞ニ其故ヲ知ルコトナシト、寅愚是ニ於テ始テ過化存神ノ妙、中々議論理窟ノ及フ所ニ非サルヲ悟レリ

新字:君子所過者化、所存者神、過化存神ノ妙ト云コト宋儒ノ常言也、余試ニ是ヲ云ハン、凢ソ天事議論モ理窟モ皆徒事也、唯妙処ハ妙ニアリ、漢ノ成元間ノ制詔ハ如何ニモ難有事計リニテ、少モ文景ニ替ルコトナケレトモ、天下衰微シテ遂ニ王氏ニ奪レタリ、其如クニテ声音笑貌ハ何程恭倹ヲ尽シテ、人ヲ服スルコトナラヌ也、是皆妙処ニ非ル故也、余乙卯ノ歳野山獄ニ在テ、自ラ揣ラス、勿体ナクモ、崇文公ノ著シ玉フ世子告文ヲ講ス、囚徒十一人及番人獄卒ニ至ルマテ、皆感激流涕セサルハナシ、且公ノ世子ノ時ノ事ヲ知ルニ及ヘル者、各、公ノ徳民心ニ感孚スルノ状ヲ説クコト悉セリ、同囚井上某、三田尻人ニシテ、当時世子殿ノ陳僧タリ、泣テ曰ク、予殿中ニ仕ルト云トモ、未タ曽テ世子此著アルコトヲ知ラス、今則チ獄ニ下リ是ヲ聞クコトヲ得ル、何ノ幸ソヤ、三田尻ハ当時民変ノ由テ起ル、初メ変ノ未タ起ラサル、苛虐ノ政ニ堪兼レハ、父老集議シテ曰ク、数年ノ後吾カ世子職ヲ継給ハヽ、吾儕蘇生ノ時アルヘシ、夫マテ辛抱スヘシト、斯ノ如キ者亦已ニ久シ、而シテ遂ニ一二奸民ノ誤ル所トナリ、彼大変ヲ煽スルナリ、若シ三田尻ノモヲシテ、当時此文ヲ聞クコトヲ得セシメハ、当サニ号哭声ヲ失フヘシト、時ニ冨永モ亦云ク、公ノ徳誰カ伝ヘテ誰カ喩トス、而シテ二国ノ民、辺鄙ノ老婆愚婦ニ至ル迄感戴セサル者ナシ、余ハ小郡人ナリ、小郡ノ民感戴ノ状ハ備ニ知レリ、後余亦又相嶋ニ流サル、嶋人ト云トモ、言、公ノ徳ニ及ヘハ感激セサルハナシ、今猶然リ、是真ニ其故ヲ知ルコトナシト、寅愚是ニ於テ始テ過化存神ノ妙、中々議論理窟ノ及フ所ニ非サルヲ悟レリ

書き下し

「君子の過ぐる所の者は化し、存する所の者は神なり」。過化存神の妙と云ふこと宋儒の常言なり。余試みに是れを云はん。凡そ天下の事、議論も理窟も皆徒事なり、唯妙処は妙にあり。漢の成・元の間の制詔は如何にも有難き事ばかりにて、少しも文・景に替ることなけれども、天下衰微して遂に王氏に奪はれたり。其の如くにて声音笑貌は何程恭倹を尽くして、人を服することならぬなり。是れ皆妙処に非ざる故なり。余乙卯の歳野山獄に在りて、自ら揣らず、勿体なくも崇文公の著し玉ふ世子告文を講ず。囚徒十一人及び番人獄卒に至るまで、皆感激流涕せざるはなし。且つ公の世子の時の事を知るに及べる者、各公の徳民心に感孚するの状を説くこと悉せり。同囚井上某、三田尻の人にして、当時世子殿の茶僧たり。泣きて曰く、「予殿中に仕ふと云へども、未だ曾て世子此の著あることを知らず。今則ち獄に下りて是れを聞くことを得る、何の幸ひぞや。三田尻は当時民変の由りて起る所。初め変の未だ起らざる、苛虐の政に堪へ兼ぬれば、父老集議して曰く、数年の後吾が世子職を継ぎ給はば、吾儕蘇生の時あるべし、夫れまで辛抱すべしと。斯くの如き者亦已に久し。而して遂に一二の奸民の誤る所となり、彼の大変を煽するなり。若し三田尻の民をして、当時此の文を聞くことを得せしめば、当に号哭して声を失ふべし」と。時に富永も亦云く、「公の徳誰か伝へて誰か喩とす。而して二国の民、辺鄙の老婆愚婦に至るまで感戴せざる者なし。余は小郡の人なり、小郡の民感戴の状は備に知れり。後余亦又相島に流さる。島人と云へども、言、公の徳に及べば感激せざるはなし。今猶然り。是れ真に其の故を知ることなし」と。寅愚是に於て始めて過化存神の妙、中々議論理窟の及ぶ所に非ざるを悟れり。

現代語訳

「君子が通り過ぎた所の人は感化され、心に留める所は神妙である」。過化存神の妙ということは宋の儒者がつねに言うことである。私は試しにこれを言ってみよう。およそ天下の事は、議論も理屈もみな無駄事であり、ただ妙所は妙にある。漢の成帝・元帝の時代の詔勅は、いかにもありがたいことばかりで、少しも文帝・景帝の時代と変わらなかったが、天下は衰えてついに王莽の一族に奪われた。そのように、声や笑顔でどれほど恭しく慎み深くふるまっても、人を心服させることはできない。これはみな妙所によらないからである。私は安政二年(乙卯)、野山獄にいて、身の程もわきまえず、恐れ多くも崇文公がお書きになった世子への告文を講義した。囚人十一人から番人や獄卒に至るまで、みな感激して涙を流さない者はなかった。そのうえ、公が世子であった時のことを知っている者は、それぞれ公の徳が民の心に感じ通じていた様子を詳しく語った。同囚の井上某は三田尻の人で、当時世子の御殿の茶坊主であった。彼は泣いてこう言った。「私は御殿にお仕えしていたが、世子にこのような著作があることを知らなかった。今、獄に下ってこれを聞くことができるとは、何という幸いか。三田尻は当時、民の騒動が起こった所である。初め騒動がまだ起こらないうち、苛酷な政治に耐えかねると、村の長老たちが集まって相談し、〈数年後に我らの世子がお跡を継がれれば、我々も生き返る時が来よう、それまで辛抱しよう〉と言った。こうしたことはもう長く続いていた。それがついに一人二人の悪い者に誤らされて、あの大騒動をあおることになったのである。もし三田尻の民に、当時この文を聞かせることができていたら、きっと声を上げて泣き、声も出なくなっただろう」と。そのとき富永もまた言った。「公の徳を誰が伝え、誰が教えたというのか。それなのに防長二国の民は、片田舎の老婆や愚かな女に至るまで、感謝して仰がない者はない。私は小郡の者で、小郡の民が感謝する様子はよく知っている。のちに私は相島に流されたが、島の人々でさえ、話が公の徳に及ぶと感激しない者はなかった。今もなおそうである。これは本当に、なぜなのか分からない」と。私はここで初めて、過化存神の妙が、なかなか議論や理屈の及ぶところではないことを悟った。

解説

孟子の「君子の過ぐる所の者は化し、存する所の者は神なり」は、徳ある人の感化は目に見えない不思議な力で広がるという意味です。松陰は、漢の成帝・元帝の詔勅が文面だけは立派でも国を保てなかった例を挙げ、言葉や愛想では人は心服しないと言います。そして野山獄で藩主の告文を講じたとき、囚人から獄卒までが涙し、同囚たちが藩主の徳は誰が教えたわけでもないのに辺地の民まで慕っていると語った体験を記します。理屈では説明できない感化の力を、獄中の実感として捉えた点に、この講説の迫力があります。

この章句が説くこと

感化徳誠野山獄過化存神

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