武士道 / 第六章 禮儀・誠を語ると礼を守ると
試みに日本人に向ひ、誠を語ると、禮を守ると孰か重きやと問はヾ、彼れ必ずや、全く米人に相反するの辭を以て答とせんと云ふものあり。其說の當否は姑らく之を置き、次章『至誠』を說くの項下に於て之に論及するものあらん。、
新字:試みに日本人に向ひ、誠を語ると、礼を守ると孰か重きやと問はヾ、彼れ必ずや、全く米人に相反するの辞を以て答とせんと云ふものあり。其説の当否は姑らく之を置き、次章『至誠』を説くの項下に於て之に論及するものあらん。、
書き下し
試みに日本人に向ひ、誠を語ると、礼を守ると、いづれか重きやと問はば、彼れ必ずや、全く米人に相反するの辞を以て答とせんと云ふものあり。其説の当否はしばらく之を置き、次章『至誠』を説くの項下に於て、之に論及するものあらん。
現代語訳
試みに日本人に向かって、誠を語ることと礼を守ることのどちらが重いかと問えば、彼は必ずアメリカ人とはまったく反対の答えをするだろう、と言う人がいます。その説が当たっているかどうかはひとまず置いて、次章で至誠を説くところで論じることにしましょう。
解説
第六章の結びで、次章への問いが投げられます。誠と礼、どちらを取るか。日本人は礼を取るだろうと外国人は言う、という他者からの見立てを紹介したうえで、当否は次章に預ける。答えを先に出さず、問いの形で章をまたぐ構成です。礼を論じた章が、礼が誠を欠いたらどうなるかという疑いで閉じられるのは、この本の自己点検の姿勢を示しています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
誠礼衝突問い章立て
関連する章句
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『弁名』誠誠は、中心より発して、思慮勉強を待たざる者を謂ふなり。纔かに誠ならんと欲すれば則ち思慮勉強に渉る。故に誠は得て為すべからざる者なり。故に先王・孔子の教へは、忠信有りて誠無し。其の以て教へと為すべからざるを以てなり。其の伝記に見ゆる者は、曲礼に曰く、「禱祠祭祀、鬼神に供給するは、礼に非ざれば誠ならず荘ならず」と。是れ誠は天地の徳なり、鬼神の徳なり。故に禱祠祭祀には誠を貴ぶ。然れども誠は得て為すべからざる者なり。礼に由りて之を行へば、自然に誠至る。故に爾云ふ。
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『武士道』第七章 至誠信實・礼に過ぐれば諂いとなる礼もし誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば諂ひとなる』と。又た菅公が誠の歌に、『心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん』とあるは、ポローニアスが、『自から已に誠なるべし。さらば人に誠無き能はず』との訓言に比するに、義はなはだ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動かさずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に騁するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトン学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。
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『武士道』第七章 至誠信實・虚言を吐くと礼を失すると固より神明に誓ひ、刀に盟ふの事ありたりと雖、未だ彼の欧米に於けるが如く、其起証の流れて妄語となり、又た神を侮るの放言となりたるの例を見ず。時としては又た実に血誓血判をなすことありしと雖、此行為に関しては、読者は予の説明を俟たずして、試みにゲーテの『ファウスト』に、血は異様の液体なりと云ひ、血を以て誓ふを読まば、即ち自から釈然として明かなるものあらん。近時、米国一文士の説を為すことあり。曰く、普通の日本人に問ふに、虚言を吐くと、礼を失すると、いづれか可なるやを以てせば、彼は言下に答へて『虚言を吐く』を可とすと云ふべしと。けだし此説の言責者たるピーリー博士は、是非相半ばせるものと云ふべし。ただに尋常一般の日本人のみならず、又た士人と雖、なお且つ此れと等しき答をなすなるべし。
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『家道訓』巻之六・用財下一貧しき人は、貨財を以て礼とせず。老いたる人の、筋力を以て礼とせざるが如し。もし貧賤ならざる人は、贈物を以て其誠をあらはす。是古人のなせる所、礼の道なり。父母兄弟親戚朋友或は恩をうけし人には、贈物を以て其の誠をあらはし、其の情を通ずべし。古人、貧しきは束脩をおくり、富めるは玉帛をおくる。吝なる人は、財を惜みて礼なし。おくるべき人におくらず、是吝嗇なるは、不仁にして誠なきによれり。いかんとなれば、我が子には多く財をつひやせどもをしまず。是愛ふかければなり。しかれば財ををしみて贈答の礼なきは、不仁よりおこる。いはんや贈物にさほど財のつひえなし、
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『五常訓』巻之四・礼倹とは其心真実にして、かざり偽無きを云ふ。是礼の本なり。如此倹にして真実にかざり無ければ、本たちて、末おのづから生ず。又礼の内にて、取わき父母兄弟などの死せる時、喪に居るは、尤せつなる時にて、つつしんで心を用ふべき事なり。喪に居るに、其死をいたみ哀むは、喪の礼の本なり。しかるに外の飾さかんにして、作法はそなはれども、心に哀の誠なきは、是本なきなり。かく有らんより、唯いたみ哀あつくして、外の法はおろそかならんこそ優るべけれ。凡礼は、先心の誠実なるを本とすれば、本なくして、末のみ修らんより、しかじ、本立ちて末おろそかなるには。是本末そなはらずして、偏なれども、外のかざりのみ多くして、内心に本とすべき誠なきには、遥かにまされり。
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『初学訓』巻之五一古人の神にいのりしは、君父のために祈り、又、わがあやまりを改め善に遷りて、心に誠あり、敬あり、其上、礼正しくて、祭るべき正神にいのりし故、其福をうけたり。理もなく礼もなく、祈るまじき神にへつらひ祈りしにあらず。われに預らずして、祭るまじき社を淫祠といふ。淫祠は福なしといへり。家を守る神にあらざれば、祈りても利生なしとなり。わが君につかへずして、他の君につかふるが如し。道にかなひて、いのるべき神に祈らば、其験有りなん。道なくて祈らば、神は非礼をうけ給はざれば、祈るとも験あるべからず。