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講孟余話 / 盡心上 第九章

凢士タル者何程困窮スルト云トモ、遂ニ士ノ覚悟ハ失ハス、又顕達スルト云トモ、富貴ニ淫シテ平生ノ志ヲ亡失スルコトナク、治ヲ致シ民ヲ澤シ民ノ素望ニ協フ也、余當今ヲ歴觀スルニ、達不離道者少ナシ、貧賤ノ際少壯ノ日、書ヲ挾ミ經ヲ講スル時ノ議論ト、庿堂ニ登リ政事ニ從フノ功業ト、大抵ハ相當ラス、然トモ是必ス已ヲ得サルノ由モアルヘケレハ、吾必シモ論セス、但シ窮不失義ニ至テハ、切ニ吾カ身上ノ事也、勵マサルヘケンヤ、吾甲寅以來身ヲ關スルニ木ヲ以テシ体ヲ縛スルニ索ヲ以テス、檻輿三百里ヲ走リ、狴犴六百日ヲ涉ル、今日禁錮稍紓フト云トモ、足門徑ヲ出テス、親近ノ外敢テ他人ニ接セス、亦窮ト云ヘシ、然トモ其志ニ至テハ松本一邑ニ一二ノ奇傑ヲ生シ、以テ忠孝ノ首天下ノ唱トナランコトヲ欲ス、果シテ義ヲ失ハサルカ、亦失フコト多キカ、自ラ信スルコト能ハス、故ニ孟子ヲ把テ玩索シテ其當否ヲ質サント欲ス、

新字:凢士タル者何程困窮スルト云トモ、遂ニ士ノ覚悟ハ失ハス、又顕達スルト云トモ、富貴ニ淫シテ平生ノ志ヲ亡失スルコトナク、治ヲ致シ民ヲ沢シ民ノ素望ニ協フ也、余当今ヲ歴観スルニ、達不離道者少ナシ、貧賤ノ際少壮ノ日、書ヲ挟ミ経ヲ講スル時ノ議論ト、庿堂ニ登リ政事ニ従フノ功業ト、大抵ハ相当ラス、然トモ是必ス已ヲ得サルノ由モアルヘケレハ、吾必シモ論セス、但シ窮不失義ニ至テハ、切ニ吾カ身上ノ事也、励マサルヘケンヤ、吾甲寅以来身ヲ関スルニ木ヲ以テシ体ヲ縛スルニ索ヲ以テス、檻輿三百里ヲ走リ、狴犴六百日ヲ渉ル、今日禁錮稍紓フト云トモ、足門径ヲ出テス、親近ノ外敢テ他人ニ接セス、亦窮ト云ヘシ、然トモ其志ニ至テハ松本一邑ニ一二ノ奇傑ヲ生シ、以テ忠孝ノ首天下ノ唱トナランコトヲ欲ス、果シテ義ヲ失ハサルカ、亦失フコト多キカ、自ラ信スルコト能ハス、故ニ孟子ヲ把テ玩索シテ其当否ヲ質サント欲ス、

書き下し

凡そ士たる者、何程困窮すると云へども、遂に士の覚悟は失はず、又顕達すると云へども、富貴に淫して平生の志を亡失することなく、治を致し民を沢し民の素望に協ふなり。余当今を歴観するに、達して道を離れざる者少なし。貧賤の際・少壮の日、書を挟み経を講ずる時の議論と、廟堂に登り政事に従ふの功業と、大抵は相当らず。然れども是れ必ず已むを得ざるの由もあるべければ、吾必ずしも論ぜず。但し窮して義を失はざるに至りては、切に吾が身上の事なり、励まざるべけんや。吾甲寅以来、身を関するに木を以てし、体を縛するに索を以てす。檻輿三百里を走り、狴犴六百日を渉る。今日禁錮稍紓ぶと云へども、足門径を出でず、親近の外敢へて他人に接せず、亦窮と云ふべし。然れども其の志に至りては、松本一邑に一二の奇傑を生じ、以て忠孝の首め天下の唱へとならんことを欲す。果して義を失はざるか、亦失ふこと多きか、自ら信ずること能はず。故に孟子を把りて玩索して其の当否を質さんと欲す。

現代語訳

およそ士たる者は、どれほど困窮しても、ついに士としての覚悟を失わず、また栄達しても、富貴におぼれてふだんの志を失うことがなく、よく治めて民に恵みを与え、民の日ごろの望みにかなうのである。私が今の世を見渡すと、栄達して道を離れない者は少ない。貧しく身分の低い時や若い日に、書物を抱えて経書を講じていた時の議論と、朝廷に上って政治に携わってからの功業とが、たいていは一致しない。しかしこれにはきっとやむを得ない事情もあるだろうから、私は必ずしも論じない。ただ、困窮しても義を失わないということに至っては、まさに私自身の身の上のことである。励まずにいられようか。私は安政元年(甲寅)以来、身を木の枷で閉じ込められ、体を縄で縛られた。檻の駕籠で三百里を運ばれ、牢獄に六百日を過ごした。今は禁錮が少しゆるんだとはいえ、足は門の小道から出ず、近親のほかはあえて他人に会わない。これもまた困窮と言うべきである。しかしその志に至っては、松本の一村に一人二人の傑出した人物を生み、忠孝の先駆けとして天下を導く者にしたいと願っている。はたして義を失っていないのか、それとも失うことが多いのか、自分では確信できない。だから『孟子』を手に取って味わい調べ、その当否を確かめたいと思うのである。

解説

松陰は「達して道を離れず」については、若い日の議論と出世後の行いが一致しない人が多いと見つつ、あえて深く責めません。そのかわり「窮して義を失はず」こそ自分の身の上のことだと言い、下田で捕らえられて以来の檻送と六百日の入獄、今も家の外に出られない謹慎の身を語ります。それでも志は、松本村から傑物を出して天下の先駆けにすることにある。ただ自分が本当に義を失っていないかは自分では分からないから、孟子に照らして確かめたい、と結ぶ謙虚さが印象的です。のちの松下村塾の志が、この時すでに語られています。

この章句が説くこと

窮達志松下村塾謹慎義

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