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近思録 / 巻7 出処

問家貧親老、應舉求仕、不免有得失之累。何修可以免此?伊川先生曰:此只是志不勝氣。若志勝、自無此累。家貧親老、須用祿仕。然「得之不得爲有命」。曰:在己固可。爲親奈何?曰:爲己爲親、也只是一事。若不得、其如命何?孔子曰:「不知命、無以爲君子。」人苟不知命、見患難必避、遇得喪必動、見利必趨、其何以爲君子?或謂科舉事業、奪人之功、是不然。且一月之中、十日爲舉業、餘日足可爲學。然人不志此、必志於彼。故科舉之事、不患妨功、惟患奪志。橫渠先生曰:世祿之榮、王者所以錄有功、尊有德。愛之厚之、示恩遇之不窮也。爲人後者、所宜樂職勸功、以服勤事任。長廉遠利、以似述世風。而近代公卿子孫、方且下比布衣、工聲病、售有司。不知求仕非義、而反羞循理爲無能。不知蔭襲爲榮、而反以虛名爲善繼。誠何心哉?不資其力而利其有、則能忘人之勢。人多言安於貧賤、其實只是計窮力屈、才短不能營畫耳。若稍動得、恐未肯安之。須是誠知義理之樂於利欲也、乃能。天下事大患只是畏人非笑。不養車馬、食麄衣惡、居貧賤、皆恐人非笑。不知當生則生、當死則死。今日萬鍾、明日棄之。今日富貴、明日饑餓。亦不䘏。「惟義所在。」

新字:問家貧親老、応舉求仕、不免有得失之累。何修可以免此?伊川先生曰:此只是志不勝気。若志勝、自無此累。家貧親老、須用禄仕。然「得之不得為有命」。曰:在己固可。為親奈何?曰:為己為親、也只是一事。若不得、其如命何?孔子曰:「不知命、無以為君子。」人苟不知命、見患難必避、遇得喪必動、見利必趨、其何以為君子?或謂科舉事業、奪人之功、是不然。且一月之中、十日為舉業、余日足可為学。然人不志此、必志於彼。故科舉之事、不患妨功、惟患奪志。横渠先生曰:世禄之栄、王者所以録有功、尊有徳。愛之厚之、示恩遇之不窮也。為人後者、所宜楽職勧功、以服勤事任。長廉遠利、以似述世風。而近代公卿子孫、方且下比布衣、工声病、售有司。不知求仕非義、而反羞循理為無能。不知蔭襲為栄、而反以虚名為善継。誠何心哉?不資其力而利其有、則能忘人之勢。人多言安於貧賤、其実只是計窮力屈、才短不能営画耳。若稍動得、恐未肯安之。須是誠知義理之楽於利欲也、乃能。天下事大患只是畏人非笑。不養車馬、食麄衣悪、居貧賤、皆恐人非笑。不知当生則生、当死則死。今日万鍾、明日棄之。今日富貴、明日饑餓。亦不䘏。「惟義所在。」

書き下し

問ふ、家貧しく親老い、挙に応じ仕を求むるに、得失の累有るを免れず。何を修めてか以て此を免るべき。伊川先生曰く、此れ只是れ志気に勝たざるなり。若し志勝たば、自ら此の累無し。家貧しく親老いたれば、須らく禄仕を用ふべし。然れども「之を得ると得ざるとは命有りと為す」。曰く、己に在りては固より可なり。親の為には奈何せん。曰く、己の為と親の為と、也只是れ一事なり。若し得ざれば、其れ命を如何せん。孔子曰く、「命を知らざれば、以て君子為ること無し。」人苟も命を知らざれば、患難を見れば必ず避け、得喪に遇へば必ず動き、利を見れば必ず趨る、其れ何を以てか君子為らんや。或ひと謂ふ、科挙の事業は、人の功を奪ふと、是れ然らず。且つ一月の中、十日を挙業と為さば、余日は学を為すに足るべし。然れども人此に志さざれば、必ず彼に志す。故に科挙の事、功を妨ぐるを患へず、惟だ志を奪ふを患ふ。横渠先生曰く、世禄の栄は、王者の功有るを録し、徳有るを尊ぶ所以なり。之を愛し之を厚くし、恩遇の窮まらざるを示すなり。人の後為る者は、宜しく職を楽しみ功を勧め、以て勤事の任に服すべき所なり。廉を長じ利を遠ざけ、以て世風を似述すべし。而るに近代の公卿の子孫、方に且つ下りて布衣に比し、声病を工にし、有司に售る。仕を求むるの義に非ざるを知らずして、反つて理に循ふを羞ぢて無能と為す。蔭襲の栄たるを知らずして、反つて虚名を以て善く継ぐと為す。誠に何の心ぞや。其の力を資らずして其の有を利せざれば、則ち能く人の勢を忘る。人多く貧賤に安んずと言ふ、其の実は只是れ計窮まり力屈し、才短くして営画すること能はざるのみ。若し稍動き得ば、恐らくは未だ肯へて之に安んぜず。須らく是れ誠に義理の利欲より楽しきを知りて、乃ち能くすべし。天下の事の大患は只是れ人の非笑を畏るるなり。車馬を養はず、麄を食ひ悪を衣、貧賤に居る、皆人の非笑を恐る。当に生くべくんば則ち生き、当に死すべくんば則ち死し、今日万鍾、明日之を棄て、今日富貴、明日饑餓するを知らず。亦䘏へず。「惟だ義の在る所のみ。」

現代語訳

ある人が問うた。家が貧しく親が年老いているので、科挙に応じて仕官を求めているが、合否の得失に心が煩わされるのを免れない。何を修めればこれを免れられるか。伊川先生が言う。これはただ志が気に勝っていないのである。もし志が勝っていれば、おのずとこの煩いはない。家が貧しく親が年老いていれば、俸禄のために仕えることも必要である。しかし「得られるか得られないかは命による」のである。問う者が言った。自分のことならそれでよい。親のためにはどうすればよいのか。答えて言う。自分のためも親のためも、同じ一つの事である。もし得られなければ、命をどうすることができようか。孔子は「命を知らなければ君子とはなれない」と言った。人がもし命を知らなければ、災難を見れば必ず避け、得失に出会えば必ず心が動き、利を見れば必ず走り寄る。それでどうして君子となれようか。ある人は、科挙の受験勉強は人の学問の時間を奪うと言うが、そうではない。一か月のうち十日を受験勉強にあてても、残りの日で学問をするには十分である。しかし人はこちら(学問)に志さなければ、必ずあちら(受験)に志す。だから科挙のことは、時間を妨げるのが心配なのではなく、ただ志を奪うのが心配なのである。横渠先生(張載)が言う。代々の俸禄という栄誉は、王者が功ある者を記録し、徳ある者を尊ぶためのものである。その子孫を愛し厚遇し、恩遇が尽きないことを示すのである。その後継ぎとなった者は、職務を楽しみ功業に励み、勤めの任に服すべきである。清廉を伸ばし利を遠ざけ、代々の家風を受け継ぐべきである。ところが近頃の公卿の子孫は、かえって身を落として庶民と並び、詩文の韻律の技巧を磨いて、試験官に売り込んでいる。仕官を求めることが義ではないと知らず、かえって理に従うことを恥じて無能とみなす。蔭位(父祖の功による任官)の継承が栄誉であることを知らず、かえって虚名によって立派に家を継いだとする。まったくどういう心なのか。他人の力に頼らず、他人の持ち物を利としなければ、人の権勢を忘れることができる。人の多くは貧賤に安んじていると言うが、実際はただ策が尽き力が尽き、才が足りずに算段できないだけである。もし少しでも動けるなら、おそらく安んじてはいないだろう。本当に義理が利欲より楽しいと知ってこそ、はじめてできるのである。天下の事の大きな病は、ただ人に笑われるのを恐れることである。車馬を養わず、粗末なものを食べ粗末な衣を着て、貧賤に暮らすことを、みな人に笑われるのを恐れる。生きるべきときは生き、死ぬべきときは死に、今日は万鍾(ばんしょう、莫大な俸禄)を受けても明日には捨て、今日富貴でも明日には飢える、ということを知らない。そうなっても気にかけない。「ただ義のあるところに従う」のである。

解説

巻七の末尾近く、程頤と張載の語で出処論を締めくくる。家が貧しく親が老いて受験せざるを得ない者に、程頤は仕官そのものは認めつつ、合否に心を乱すのは志が気に負けているからだと答える。親のためと言っても命をどうにもできない点は同じだ、という答えは厳しいが筋が通っている。科挙の勉強は時間を奪うのでなく志を奪うのが怖い、という一句は、目先の試験と本来の学問の関係を言い当てている。張載は世襲の特権を持つ公卿の子孫が、わざわざ詩文の技巧で試験に売り込む風潮を批判し、貧賤に安んじるのも多くは力尽きたからにすぎないと見抜く。人の嘲笑を恐れることが最大の病だという指摘は、周囲の目で進路を決めがちな今の働き方にもそのまま当てはまる。

この章句が説くこと

知命志科挙義非笑

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