講孟余話 / 盡心上 首章
殀壽不貳、脩身以俟之、所以立命也、殀壽ハ命ノ短長ナリ、命ノ短長ニ於テ疑貳ノ心ノ心ヲ生セス、唯々脩身以俟之トハ、吾心力ノ及フ丈ケハ尽シテ、其餘ハ命ニ任セ置クナリ、然レハ命ヲ立ルトテ、命ヲ人爲ヲ以テ害スルニ至ラス、是ニ因テ思フコトアリ、往歲余病アリ、数々三分利良哲方ヘ往キ治ヲ求ム、時ニ良哲カ家ノ屏風ニ、盡人事以俟天命ト云語ノアリタルヲ覚フ、當時予始テ此語ノ鑿療ノ事ニ就テ発明スヘキヲ知ル、盖シ死生有命ト云テ疾療セス、医療スルト云トモ、攝生藥餌ニ心ヲ用スシテ死ヲ致ス者アリ、是ハ殀壽不貳トハ云ヘキナレ共、脩身俟命ト云ヘカラス、又医療攝生至ラサル処ナクシテ、壽命ノ尽ルニ至テ、甚シク未練ノ心ヲ生シ、醜態ヲ発スルハ、身ヲ脩メスシテ命ヲ俟ツニハ異ナレ共、殀壽不貳ノ義ヲ知サルノ極ト云ヘシ、浮居清狂種痘ノ詩ニ、謾言洋法妙於神、引痘絕無天折人、不識死生元有命、枉移牛膿種人身、余謂ラク、種痘ノ類ハ皆人事ヲ尽スノ一端ニテ、此良術ヲ廃シテ死生有命ト云ハ、身ヲ脩メズシテ命ヲ俟ツニ近シ、他日ヲ俟テ清狂ト此義ヲ論セント欲ス、
新字:殀寿不貳、脩身以俟之、所以立命也、殀寿ハ命ノ短長ナリ、命ノ短長ニ於テ疑貳ノ心ノ心ヲ生セス、唯々脩身以俟之トハ、吾心力ノ及フ丈ケハ尽シテ、其余ハ命ニ任セ置クナリ、然レハ命ヲ立ルトテ、命ヲ人為ヲ以テ害スルニ至ラス、是ニ因テ思フコトアリ、往歳余病アリ、数々三分利良哲方ヘ往キ治ヲ求ム、時ニ良哲カ家ノ屏風ニ、尽人事以俟天命ト云語ノアリタルヲ覚フ、当時予始テ此語ノ鑿療ノ事ニ就テ発明スヘキヲ知ル、盖シ死生有命ト云テ疾療セス、医療スルト云トモ、摂生薬餌ニ心ヲ用スシテ死ヲ致ス者アリ、是ハ殀寿不貳トハ云ヘキナレ共、脩身俟命ト云ヘカラス、又医療摂生至ラサル処ナクシテ、寿命ノ尽ルニ至テ、甚シク未練ノ心ヲ生シ、醜態ヲ発スルハ、身ヲ脩メスシテ命ヲ俟ツニハ異ナレ共、殀寿不貳ノ義ヲ知サルノ極ト云ヘシ、浮居清狂種痘ノ詩ニ、謾言洋法妙於神、引痘絶無天折人、不識死生元有命、枉移牛膿種人身、余謂ラク、種痘ノ類ハ皆人事ヲ尽スノ一端ニテ、此良術ヲ廃シテ死生有命ト云ハ、身ヲ脩メズシテ命ヲ俟ツニ近シ、他日ヲ俟テ清狂ト此義ヲ論セント欲ス、
書き下し
「殀寿貳はず、身を脩めて以て之れを俟つは、命を立つる所以なり」。殀寿は命の短長なり。命の短長に於て疑貳の心を生ぜず、唯々「身を脩めて以て之れを俟つ」とは、吾が心力の及ぶ丈けは尽くして、其の余は命に任せ置くなり。然れば命を立つるとて、命を人為を以て害するに至らず。是れに因りて思ふことあり。往歳余病あり、数々三分利良哲方へ往きて治を求む。時に良哲が家の屏風に、「人事を尽くして以て天命を俟つ」と云ふ語のありたるを覚ゆ。当時予始めて此の語の医療の事に就きて発明すべきを知る。蓋し「死生命有り」と云ひて療せず、医療すると云へども、摂生薬餌に心を用ひずして死を致す者あり。是れは殀寿貳はずとは云ふべけれども、身を脩めて命を俟つと云ふべからず。又医療摂生至らざる処なくして、寿命の尽くるに至りて、甚しく未練の心を生じ、醜態を発するは、身を脩めずして命を俟つには異なれども、殀寿貳はずの義を知らざるの極と云ふべし。浮屠清狂の種痘の詩に、「謾りに言ふ洋法は神よりも妙なりと、引痘絶えて夭折の人無し。識らず死生元命有るを、枉げて牛膿を移して人身に種う」と。余謂へらく、種痘の類は皆人事を尽くすの一端にて、此の良術を廃して死生命有りと云ふは、身を脩めずして命を俟つに近し。他日を俟ちて清狂と此の義を論ぜんと欲す。
現代語訳
「若死にか長生きかに迷わず、身を修めて天命を待つのが、命を立てる方法である」。殀寿とは命の短い長いである。命の長短について迷う心を起こさず、ただ「身を修めてそれを待つ」とは、自分の心と力の及ぶかぎりは尽くして、その残りは天命に任せておくことである。そうすれば、命を立てるといっても、人の作為で命を損なうことにはならない。これについて思うことがある。以前私は病気をして、たびたび医師の三分利良哲のもとへ治療を求めに行った。そのとき良哲の家の屏風に「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があったのを覚えている。その時、私は初めてこの言葉を医療のことに当てはめて理解すべきだと知った。思うに「死生は天命だ」と言って治療せず、あるいは治療しても養生や薬に気を配らずに死を招く者がいる。これは若死にか長生きかに迷わないとは言えるが、身を修めて天命を待つとは言えない。また治療も養生も行き届いた末に寿命が尽きるとき、ひどく未練の心を起こして見苦しいふるまいをするのは、身を修めずに天命を待つのとは違うが、若死にか長生きかに迷わないという意味を知らないことの極みである。僧月性(清狂)の種痘の詩に「西洋の医法は神業よりも優れているとむやみに言い、種痘によって若死にする人がいなくなったと言う。死生がもともと天命であることを知らず、無理に牛の膿を人の身に植えつけている」とある。私が思うに、種痘のたぐいはみな人事を尽くすことの一端であり、この良い術を捨てて死生は天命だと言うのは、身を修めずに天命を待つのに近い。いずれ機会を待って、清狂とこの意味を論じたいと思う。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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言志四録・言志晩録 第百九十一条 苦悩の一半を省く人事の期せざる所に赴くは、究に人力に非ず。人家の貧富の如きは、天に係る有り、人に係る有り。然れども其の人に係る者も、竟に亦天に係る。世に処して能く此の理を知らば、苦悩の一半を省かんのみ。
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『初学訓』巻之三一万の事、皆天命なれば、人の力及びがたし。不幸なりとも、天命をやすんじて、うれふべからず。されども、人事をば尽すべし。人事を尽すとは、わが身を慎みて、行ふべき道をつとめ行ひ、過を改め善に遷りて、禍に遭ふべき罪咎なからんことを求むるをいふ。病ある者の、つつしみてよく保養するも、亦人力を尽すなり。是人力のつとめによりて、天命を得る理あり。此の如くにして、其上は、天命にまかせて楽むべし、うれへて心を苦むべからず。
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