講孟余話 / 盡心上 首章
存其心、養其性、所以事天也、此一節ハ前節ノ次ヲ云、心ヲ尽スト云ヘハ此上モナキコト也、然トモ是大聖堯舜周孔ノ上ノ事ナレハ、遽ニ至リ難キ故、先其次一段ヲ云ハヽ存心ナリ、存ハ注ニ謂操而不舍、此心ヲ放散セヌ如ク、日夜朝暮膺ニ服シテ居ルコトナリ、此功ノ積ル上ハ、遂ニ心ヲ尽スニ至ルナリ、養性ハ子ヲ養ノ養ト同シ、子ヲ養フニハ、懷ニ入レテ煖メ、乳ヲ呑セテ飽セ、病ノ生セヌ如クニ色々樣々ニ心ヲ用ヒテ長育スルコト也、苟モ吾カ性ヲ長育スル、愛兒ヲ養フ如クスル時ハ、遂ニ性ヲ知ルニ至ル也、事天ト云ハ理へ事ルコトナリ、事ハ事君事父ノ事ノ如シ、理ヲ大切ニシテ是ニ承ケ順ヒ、假初ニモ理ニ違ハヌ様ニ心掛ルコト、君父ニ事ルト同シコトナリ、此功熟スル時ハ知天ニ至ルナリ、故ニ存ト云、養ト云、事ト云ハ、皆前節ノ尽スト云、知ルト云ノ次也、盖シ事ト云ヘハ天ト我ト二ナリ、知ト云ヘハ天ト我ト一ナリ、此說朱註ト少シ異也、余臆度ヲ以テ是ヲ云ノミ、又曾テ王陽明ノ傳習錄ヲ読ミシニ、其說亦斯ノ如クアリシヤト覚ユ、他日其書ニ就テ考フヘシ、
新字:存其心、養其性、所以事天也、此一節ハ前節ノ次ヲ云、心ヲ尽スト云ヘハ此上モナキコト也、然トモ是大聖堯舜周孔ノ上ノ事ナレハ、遽ニ至リ難キ故、先其次一段ヲ云ハヽ存心ナリ、存ハ注ニ謂操而不舎、此心ヲ放散セヌ如ク、日夜朝暮膺ニ服シテ居ルコトナリ、此功ノ積ル上ハ、遂ニ心ヲ尽スニ至ルナリ、養性ハ子ヲ養ノ養ト同シ、子ヲ養フニハ、懐ニ入レテ煖メ、乳ヲ呑セテ飽セ、病ノ生セヌ如クニ色々様々ニ心ヲ用ヒテ長育スルコト也、苟モ吾カ性ヲ長育スル、愛児ヲ養フ如クスル時ハ、遂ニ性ヲ知ルニ至ル也、事天ト云ハ理へ事ルコトナリ、事ハ事君事父ノ事ノ如シ、理ヲ大切ニシテ是ニ承ケ順ヒ、仮初ニモ理ニ違ハヌ様ニ心掛ルコト、君父ニ事ルト同シコトナリ、此功熟スル時ハ知天ニ至ルナリ、故ニ存ト云、養ト云、事ト云ハ、皆前節ノ尽スト云、知ルト云ノ次也、盖シ事ト云ヘハ天ト我ト二ナリ、知ト云ヘハ天ト我ト一ナリ、此説朱註ト少シ異也、余臆度ヲ以テ是ヲ云ノミ、又曽テ王陽明ノ伝習録ヲ読ミシニ、其説亦斯ノ如クアリシヤト覚ユ、他日其書ニ就テ考フヘシ、
書き下し
「其の心を存し、其の性を養ふは、天に事ふる所以なり」。此の一節は前節の次を云ふ。心を尽くすと云へば此の上もなきことなり。然れども是れ大聖堯舜周孔の上の事なれば、遽かに至り難き故、先づ其の次一段を云はば存心なり。存は注に「操りて舎てざるを謂ふ」、此の心を放散せぬ如く、日夜朝暮膺に服して居ることなり。此の功の積る上は、遂に心を尽くすに至るなり。養性は子を養ふの養と同じ。子を養ふには、懐に入れて煖め、乳を呑ませて飽かせ、病の生ぜぬ如くに色々様々に心を用ひて長育することなり。苟も吾が性を長育する、愛児を養ふ如くする時は、遂に性を知るに至るなり。天に事ふと云ふは理へ事ふることなり。事は君に事へ父に事ふの事の如し。理を大切にして是れに承け順ひ、仮初にも理に違はぬ様に心掛くること、君父に事ふると同じことなり。此の功熟する時は天を知るに至るなり。故に存と云ひ、養と云ひ、事と云ふは、皆前節の尽くすと云ひ、知ると云ふの次なり。蓋し事ふと云へば天と我と二なり、知ると云へば天と我と一なり。此の説朱註と少し異なり、余臆度を以て是れを云ふのみ。又曾て王陽明の伝習録を読みしに、其の説亦斯くの如くありしやと覚ゆ。他日其の書に就きて考ふべし。
現代語訳
「その心を保ち、その性を養うのは、天に仕える方法である」。この一節は前の節の次の段階を言う。心を尽くすといえばこの上ないことである。しかしこれは大聖人の堯・舜・周公・孔子の上のことなので、にわかには至りがたい。そこでまずその次の一段を言えば、心を保つことである。存は朱子の注に「しっかり持って手放さないこと」とあり、この心を散らさないように、日夜朝晩、胸にしっかり抱いていることである。この努力を積み重ねれば、ついには心を尽くすに至る。性を養うの養は、子を養うの養と同じである。子を養うには、懐に入れて温め、乳を飲ませて満腹にさせ、病気にならないようにいろいろと心を配って育てる。もし自分の性を、かわいい子を養うように育てるなら、ついには性を知るに至る。天に仕えるとは、理に仕えることである。仕えるは、君に仕え父に仕えるの仕えると同じである。理を大切にしてそれを受けて従い、かりそめにも理にそむかないよう心がけることは、君や父に仕えるのと同じである。この努力が熟せば、天を知るに至る。だから保つ・養う・仕えるは、みな前の節の尽くす・知るの次の段階なのである。思うに、仕えるといえば天と自分は二つであり、知るといえば天と自分は一つである。この説は朱子の注と少し異なり、私の推測で言うだけである。またかつて王陽明の『伝習録』を読んだとき、その説もこのようであったと覚えている。いずれその書について確かめよう。
解説
この章句が説くこと
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『講孟余話』盡心上 首章然れども心の一杯を尽くすと云ひても、其の一杯の所何程と云ふことを知らざればならざること故、其の性を知ると云ふ。性とは人の生れ付き持ち出なり、所謂仁義礼智の性なり。此の性は善にして悪なき者にて、聖人も我と同じき者なり。人此の様の性を具ふると云ふことを真に落着する時は、知の字深く見るべし、性中天下の善皆備はることを知る、故に心の一杯を尽くすこと出来るなり。又此の性を知る時は天を知る。天とは蒼々の天を云ふに非ず、天は即ち理なり。真に性を知り真に心を尽くす時は、天下の理復た此の外にあることなし。故に天下の理悉く物となるなり。王陽明云ふ、「知は知府・知県の知の如し。知府となれば、一府の事大小となく、皆吾が分内の事、知県となれば、一県の事大小となく皆吾が分内の事なり」と。此の説絶妙。天を知れば天下の理皆吾が物となり、性を知れば自己の性分皆吾が物となるなり。性を知らざれば自己善性ありと云へども、吾が物とならず。余是に於て深く感ずることあり。人此の性あり此の心あり、然れば此の天も亦吾が分外の事に非ず、吾が一身の抱負亦豈に盛大雄偉ならずや。然れども尽くさず知らざるに至りては、一裸虫にして草木禽獣の一類たるを免かれず。然る時は盛大雄偉の抱負、性と云ひ、心と云ふ者、皆持ち腐りとなるなり。豈に甚だ惜しむべからざらんや。是れを思はば、学問行事、豈に一日として廃怠すべけんや。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「釈する所の『大学』古本に、其の本体の知を致すと謂うは、此れ固より孟子の『心を尽くす』の旨なり。朱子も亦た虚霊知覚を以て此の心の量と為す。然れども『心を尽くす』は『性を知る』に由り、『知を致す』は『物を格す』に在り」と。「心を尽くすは性を知るに由り、知を致すは物を格すに在り」。此の語は然り。然り而して吾子の意に推本すれば、則ち其の是の語を為す所以の者は、尚お未だ明らかならざる有り。朱子は「心を尽くし、性を知り、天を知る」を以て「物格り知致る」と為し、「心を存し、性を養い、天に事う」を以て「意を誠にし、心を正し、身を修む」と為し、「殀寿貳(うたが)わず、身を修めて以て俟つ」を以て「知至り仁尽き、聖人の事」と為す。鄙人の見の若きは、則ち朱子と正に相い反す。夫れ「心を尽くし、性を知り、天を知る」者は、生知・安行、聖人の事なり。「心を存し、性を養い、天に事う」者は、学知・利行、賢人の事なり。「殀寿貳わず、身を修めて以て俟つ」者は、困知・勉行、学者の事なり。豈に専ら「心を尽くし性を知る」を以て知と為し、「心を存し性を養う」を以て行と為すべけんや。吾子は驟かに此の言を聞き、必ず又た以て大いに駭(おどろ)くと為さん。然れども其の間、実に疑うべき者無し。一たび吾子の為に之を言わん。夫れ心の体は、性なり。性の原は、天なり。能く其の心を尽くさば、是れ能く其の性を尽くすなり。『中庸』に云う、「惟だ天下の至誠のみ、能く其の性を尽くすと為す」と。又た云う、「天地の化育を知り、諸を鬼神に質して疑い無きは、天を知るなり」と。此れ惟だ聖人にして而る後に能く然り。故に曰く、「此れ生知・安行、聖人の事なり」と。其の心を存する者は、未だ其の心を尽くす能わざる者なり。故に須らく之を存するの功を加うべし。必ず之を存すること既に久しくして、存するを待たずして自ら存せざる無く、然る後に以て進みて尽くすを言うべし。蓋し「天を知る」の「知」は、「知州」「知県」の「知」の如し。「知州」は則ち一州の事、皆な己が事なり。「知県」は則ち一県の事、皆な己が事なり。是れ天と一と為る者なり。「天に事う」は則ち子の父に事え、臣の君に事うるが如し。猶お天と二と為るなり。天の我に命ずる所以の者は、心なり、性なり。吾は但だ之を存して敢えて失わず、之を養いて敢えて害せず。「父母、全くして之を生む。子、全くして之を帰す」者の如きなり。故に曰く、「此れ学知・利行、賢人の事なり」と。「殀寿貳わず」に至りては、則ち其の心を存する者と又た間有り。其の心を存する者は、未だ其の心を尽くす能わずと雖も、固より已に善を為すに一心なり。時に存せざる有らば、則ち之を存するのみ。今、之をして「殀寿貳わず」ざらしむるは、是れ猶お殀寿を以て其の心を貳うる者なり。猶お殀寿を以て其の心を貳わば、是れ其の善を為すの心、猶お未だ一なる能わざるなり。之を存するも尚お未だ可ならざる所有り。而して何ぞ之を尽くすと云うべけんや。今、且つ之をして殀寿を以て其の善を為すの心を貳わざらしむ。若し「死生殀寿は、皆な定命有り。吾は但だ善を為すに一心にして、吾が身を修めて以て天命を俟つのみ」と曰わば、是れ其の平日、尚お未だ天命有るを知らざるなり。「天に事う」は天と二と為ると雖も、然れども已に真に天命の在る所を知る。但だ惟だ之を恭敬奉承するのみ。「之を俟つ」と云う者の若きは、則ち尚お未だ真に天命の在る所を知る能わず。猶お俟つ所有る者なり。故に「命を立つる所以なり」と曰う。立つとは「創立」の「立」なり。「徳を立て」「言を立て」「功を立て」「名を立つ」の類の如し。凡そ立つと言う者は、皆な是れ昔、未だ嘗て有らずして今、始めて之を建立するの謂いなり。孔子の所謂る「命を知らずんば、以て君子と為る無し」なり。故に曰く、「此れ困知・勉行、学者の事なり」と。今、「心を尽くし性を知り天を知る」を以て「物を格し知を致す」と為し、初学の士の尚お未だ其の心を貳わざる能わざる者をして、遽かに之に責むるに聖人の生知・安行の事を以てせば、風を捕らえ影を捉うるが如く、茫然として其の心を措く所を知る莫し。幾何ぞ「天下を率いて路せしむ」に至らざらんや。今世の致知・格物の弊も亦た居然として見るべし。吾子の所謂る「外を務め内を遺れ、博くして要寡し」とは、乃ち亦た是れ過ならずや。此れ学問の最も緊要の処なり。此に於て差わば、将に往くとして差わざる無からんとす。此れ鄙人の天下の非笑を冒し、其の身の罪戮に陥るを忘れ、呶呶として其れ言うも、其の已むを容れざる所以なり。
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『講孟余話』盡心上 総論此の篇首の数章、皆精微の論なり、宜しく心を潜めて味ふべし。「其の心を尽くす者は、其の性を知るなり。其の性を知れば則ち天を知る」。其の心を尽くすとは、心一杯の事を行ひ尽くすことなり。力を尽くすと云へば、十五貫目持つ力ある者は十五貫目を持ち、二十貫目持つ力ある者は二十貫目を持つことなり。是れを以て考ふべし。今人未だ嘗て心を尽くさず、故に其の一杯の所を知ること能はず。若し是れを尽くす時は、堯の民を治め、舜の父に事へ、孔子の道を明らかにする、皆心の外に非ず、唯心の一杯を尽くすのみ。若し少しく行を修め、少しく事を勤め、少しく忠し、少しく孝して、自ら云く我善く吾が心を尽くすと云はば、大いに吾が心に負くと云ふべし。一事より二事、三事より百事・千事と、事々類を推して是れを行ひ、一日より二日、三日より百日・千日と、日々功を加へて是れを積まば、豈に遂に心を尽くすに至らざらんや。宜しく先づ一事より一日より始むべし。
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「其の心を盡くせば、其の性を知るなり。其の性を知れば、則ち天を知る。其の心を存し、其の性を養うは、天に事うる所以なり。殀壽貳せず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり。」
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『慎思録』巻之四学者平日下手の工夫、或いは謂ふ、吾曹放心有りて求むることを知らず。是れ学者の通患なり。須らく存心を以て先と為すべし。其の存心なる者は、其の要主一無適に在り、と。或いは曰く、学者先づ天性の貴きを知りて、道に入るべし。故に徳性を尊び義理を楽しむの工夫を先と為す、と。或いは曰く、常人は私慾蔽固す。故に克己の功、最も宜しく先に在るべし、と。愚謂へらく、三者の工夫各殊なるが如く、且つ畧次第有りと雖も、本自ら一套の工夫なり。故に三者其の一を廃すれば、則ち不可なり。請ふ試みに之を論ぜん。学者功を用ひ手を下すの方は、各其の己に切なる者を以て先と為すべしと雖も、之を要するに只だ是れ仁を求むるに在るのみ。仁を求むるの功は、存心知性克己の外、亦た何の他説か有らん。三説各用処有り、一を欠かんと欲するも、亦た得べからざるのみ。夫れ徳性の物より貴きを知る。故に存心克己の功、須臾も廃すべからず。是れ唐虞三代の聖賢誠敬を説き、孔子求仁を説き、子思戒慎恐懼を説き、孟子放心を収め其の大なる者を立つることを説く所以なり。凡そ聖賢の千言万語、均しく是れ仁を求むることを要するのみ。此の外豈に他説有らんや。存心養性の工夫の中、
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『慎思録』巻之四最も緊切なる者は、亦た己の私欲に克つに在るのみ。蓋し能く養ふ者は、必ず其の害を去る。仁を害する者は、私欲に非ずや。故に徳性を尊び義理を楽しみ、心を存し性を養ひ、私欲を克去して、而る後に仁を求むるの功尽くせり。此の三者は、其の一を廃すべからず。夫れ平日存養の功は廃すべからず。私意已に萌す時は、克たざるべからず。然れども性の貴きを知り義理を楽しむに非ざれば、勉強労苦して、以て存養克治せんと欲すと雖も、只だ是れ強ひて持し拘迫するのみ。中心悦楽して之を為すに非ざれば、豈に能く久しきを得べけんや。之を五穀稼種の功に喩ふ。性の貴きを知りて道を楽しむ者は、五穀の美の庶草より貴きを知りて、之を種芸する者なり。心を存し性を養ふ者は、既に種ゑて而る後に之を培壅灌漑するなり。克己なる者は、之を耘る者なり。夫れ五穀を種芸して、而る後に固より灌漑培壅の功を用ふべし。然り而して藜莠蓬蒿有りて、之が害を為せば、則ち苗の美なる者漸く枯壊して、灌漑培養の功も亦た益無し。故に耘除の功を用ひざるべからず。此れ克己の功の闕くべからざる所以なり。故に曰く、三者其の一を闕けば、則ち不可なり、と。
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