講孟余話 / 盡心上 総論
此篇首ノ数章、皆精微ノ論ナリ、宜シク心ヲ潜メテ味フヘシ盡其心者、知其性也、知其性則知天矣、尽其心トハ、心一杯ノ事ヲ行尽スコトナリ、力ヲ尽スト云ヘハ、十五貫目持ツ力アル者ハ十五貫目ヲ持チ、二十貫目持ツ力アル者ハ二十貫目ヲ持ツコトナリ、是ヲ以テ考フヘシ、今人未タ嘗テ心ヲ尽サス、故ニ其一杯ノ所ヲ知ルコト能ハス、若シ是ヲ尽ス時ハ、堯ノ民ヲ治メ、舜ノ父ニ事ヘ、孔子ノ道ヲ明ニスル、皆心ノ外ニ非ス、唯心ノ一杯ヲ尽スノミ、若シ少シク行ヲ修メ、少シク事ヲ勤メ、少シク忠シ、少シク孝シテ、自ラ云ク我善ク吾心ヲ尽スト云ハヽ、大ニ吾心ニ負クト云ヘシ、一事ヨリ二事、三事ヨリ百事、千事ト、事々類ヲ推シテ是ヲ行ヒ、一日ヨリ二日、三日ヨリ百日、千日ト、日々功ヲ加ヘテ是ヲ積マハ、豈遂ニ心ヲ尽スニ至ラサランヤ、宜シク先ツ一事ヨリ一日ヨリ始ムヘシ、
新字:此篇首ノ数章、皆精微ノ論ナリ、宜シク心ヲ潜メテ味フヘシ尽其心者、知其性也、知其性則知天矣、尽其心トハ、心一杯ノ事ヲ行尽スコトナリ、力ヲ尽スト云ヘハ、十五貫目持ツ力アル者ハ十五貫目ヲ持チ、二十貫目持ツ力アル者ハ二十貫目ヲ持ツコトナリ、是ヲ以テ考フヘシ、今人未タ嘗テ心ヲ尽サス、故ニ其一杯ノ所ヲ知ルコト能ハス、若シ是ヲ尽ス時ハ、堯ノ民ヲ治メ、舜ノ父ニ事ヘ、孔子ノ道ヲ明ニスル、皆心ノ外ニ非ス、唯心ノ一杯ヲ尽スノミ、若シ少シク行ヲ修メ、少シク事ヲ勤メ、少シク忠シ、少シク孝シテ、自ラ云ク我善ク吾心ヲ尽スト云ハヽ、大ニ吾心ニ負クト云ヘシ、一事ヨリ二事、三事ヨリ百事、千事ト、事々類ヲ推シテ是ヲ行ヒ、一日ヨリ二日、三日ヨリ百日、千日ト、日々功ヲ加ヘテ是ヲ積マハ、豈遂ニ心ヲ尽スニ至ラサランヤ、宜シク先ツ一事ヨリ一日ヨリ始ムヘシ、
書き下し
此の篇首の数章、皆精微の論なり、宜しく心を潜めて味ふべし。「其の心を尽くす者は、其の性を知るなり。其の性を知れば則ち天を知る」。其の心を尽くすとは、心一杯の事を行ひ尽くすことなり。力を尽くすと云へば、十五貫目持つ力ある者は十五貫目を持ち、二十貫目持つ力ある者は二十貫目を持つことなり。是れを以て考ふべし。今人未だ嘗て心を尽くさず、故に其の一杯の所を知ること能はず。若し是れを尽くす時は、堯の民を治め、舜の父に事へ、孔子の道を明らかにする、皆心の外に非ず、唯心の一杯を尽くすのみ。若し少しく行を修め、少しく事を勤め、少しく忠し、少しく孝して、自ら云く我善く吾が心を尽くすと云はば、大いに吾が心に負くと云ふべし。一事より二事、三事より百事・千事と、事々類を推して是れを行ひ、一日より二日、三日より百日・千日と、日々功を加へて是れを積まば、豈に遂に心を尽くすに至らざらんや。宜しく先づ一事より一日より始むべし。
現代語訳
この篇の初めの数章は、みな精密で深い議論である。心を落ち着けて味わうべきである。「その心を尽くす者は、その性を知る。その性を知れば天を知る」。その心を尽くすとは、心いっぱいの事をやり尽くすことである。力を尽くすと言えば、十五貫目を持つ力のある者は十五貫目を持ち、二十貫目を持つ力のある者は二十貫目を持つことである。これを手がかりに考えるとよい。今の人はまだ一度も心を尽くしたことがない。だから自分のいっぱいの所を知ることができない。もしこれを尽くすなら、堯が民を治め、舜が父に仕え、孔子が道を明らかにしたことも、みな心の外のことではなく、ただ心のいっぱいを尽くしただけなのである。もし少しばかり行いを修め、少しばかり仕事に励み、少しばかり忠を尽くし、少しばかり孝を行って、自分は心をよく尽くしていると言うなら、それは大いに自分の心にそむくことである。一つの事から二つの事、三つの事から百・千の事へと、事ごとに類を広げて行い、一日から二日、三日から百日・千日へと、日々努力を加えて積み重ねるなら、どうしてついに心を尽くすに至らないことがあろうか。まずは一つの事から、一日から始めるのがよい。
解説
この章句が説くこと
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『講孟余話』盡心上 首章然れども心の一杯を尽くすと云ひても、其の一杯の所何程と云ふことを知らざればならざること故、其の性を知ると云ふ。性とは人の生れ付き持ち出なり、所謂仁義礼智の性なり。此の性は善にして悪なき者にて、聖人も我と同じき者なり。人此の様の性を具ふると云ふことを真に落着する時は、知の字深く見るべし、性中天下の善皆備はることを知る、故に心の一杯を尽くすこと出来るなり。又此の性を知る時は天を知る。天とは蒼々の天を云ふに非ず、天は即ち理なり。真に性を知り真に心を尽くす時は、天下の理復た此の外にあることなし。故に天下の理悉く物となるなり。王陽明云ふ、「知は知府・知県の知の如し。知府となれば、一府の事大小となく、皆吾が分内の事、知県となれば、一県の事大小となく皆吾が分内の事なり」と。此の説絶妙。天を知れば天下の理皆吾が物となり、性を知れば自己の性分皆吾が物となるなり。性を知らざれば自己善性ありと云へども、吾が物とならず。余是に於て深く感ずることあり。人此の性あり此の心あり、然れば此の天も亦吾が分外の事に非ず、吾が一身の抱負亦豈に盛大雄偉ならずや。然れども尽くさず知らざるに至りては、一裸虫にして草木禽獣の一類たるを免かれず。然る時は盛大雄偉の抱負、性と云ひ、心と云ふ者、皆持ち腐りとなるなり。豈に甚だ惜しむべからざらんや。是れを思はば、学問行事、豈に一日として廃怠すべけんや。
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