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講孟余話 / 告子下 第十二章

君子不亮、惡乎執、亮ハ註ニ與諒同トアリ、諒ハ論語ニ匹夫匹婦之爲諒憲問ノ註ニ、小信トアリ、又君子貞而不諒衞靈公ノ註ニ、不択是非而必於信トアリ、然レハ小事ニ拘リ、是非ノ分ナク、必ズ信ヲ失ハヌ様ニスルコトニテ、善ヲ尽セルノ德ト云ニハ非ズ、固ヨリ大人者、言不必信、行不必果、惟義所在、離婁下篇第十一章抔ノ地位ニ及フヘキニ非ス、然トモ此章ノ旨ハ、孔子陳ニ在シテ魯ノ狂狷ヲ思ヒ、又其剛毅木訥ヲ仁ニ近シト宣フノ意ニシテ、人ノ生質ニ就テ其学ニ進ムヘキコトヲ云ナリ、全ク成德ヲ語ルニ非ス、故ニ其意謂ラク、人ハ小事ニテモ是非善惡ナク必ツ信ヲハ失ハヌト云片意地者ニ非レハ、何事モ苟且ノミニシテ、執持スル所ハナキ者也、世ニハ一種ノ片意地者アリ、俗人ハ偏屈者ト笑ヘトモ、是祐誠ニ甲斐々々シキ持方アル人ト云ヘシトナリ、執ノ字固執拘泥ノ事ニモ用ユ、尽心上篇ノ子莫執中ノ執是也、又操持堅固ナル所ニモ用ユ、離婁下篇ノ湯執中ノ第二十章執是也、是等ノ所文字ニ固執セス、直ニ義理ヲ以テ見通スヘシ、伊藤氏ハ張子ノ說ヲ取ル、云ク君子不必於信者、惡其執一而不通也、因テ孔子曰、非敢爲佞也、疾固也、憲問孟子曰、所惡執一者、爲其賊道也、擧一而廃百也尽心ヲ引キ証トス、此說ニ從ヘハ君子亮ナラサルハ、執ルコトヲ悪ンテナリト訓スヘシ、是レ盖シ亮執ノ二字ニ固執シタル說ナルヘシ、然トモ義理固ヨリ通ス、兩存シテ可ナリ

新字:君子不亮、悪乎執、亮ハ註ニ与諒同トアリ、諒ハ論語ニ匹夫匹婦之為諒憲問ノ註ニ、小信トアリ、又君子貞而不諒衛霊公ノ註ニ、不択是非而必於信トアリ、然レハ小事ニ拘リ、是非ノ分ナク、必ズ信ヲ失ハヌ様ニスルコトニテ、善ヲ尽セルノ徳ト云ニハ非ズ、固ヨリ大人者、言不必信、行不必果、惟義所在、離婁下篇第十一章抔ノ地位ニ及フヘキニ非ス、然トモ此章ノ旨ハ、孔子陳ニ在シテ魯ノ狂狷ヲ思ヒ、又其剛毅木訥ヲ仁ニ近シト宣フノ意ニシテ、人ノ生質ニ就テ其学ニ進ムヘキコトヲ云ナリ、全ク成徳ヲ語ルニ非ス、故ニ其意謂ラク、人ハ小事ニテモ是非善悪ナク必ツ信ヲハ失ハヌト云片意地者ニ非レハ、何事モ苟且ノミニシテ、執持スル所ハナキ者也、世ニハ一種ノ片意地者アリ、俗人ハ偏屈者ト笑ヘトモ、是祐誠ニ甲斐々々シキ持方アル人ト云ヘシトナリ、執ノ字固執拘泥ノ事ニモ用ユ、尽心上篇ノ子莫執中ノ執是也、又操持堅固ナル所ニモ用ユ、離婁下篇ノ湯執中ノ第二十章執是也、是等ノ所文字ニ固執セス、直ニ義理ヲ以テ見通スヘシ、伊藤氏ハ張子ノ説ヲ取ル、云ク君子不必於信者、悪其執一而不通也、因テ孔子曰、非敢為佞也、疾固也、憲問孟子曰、所悪執一者、為其賊道也、挙一而廃百也尽心ヲ引キ証トス、此説ニ従ヘハ君子亮ナラサルハ、執ルコトヲ悪ンテナリト訓スヘシ、是レ盖シ亮執ノ二字ニ固執シタル説ナルヘシ、然トモ義理固ヨリ通ス、両存シテ可ナリ

書き下し

「君子亮ならずんば、悪にか執らん」。亮は註に「諒と同じ」とあり。諒は論語に「匹夫匹婦の諒を為すや」憲問の註に「小信」とあり、又「君子は貞にして諒ならず」衛霊公の註に「是非を択ばずして信に必す」とあり。然れば小事に拘り、是非の分なく、必ず信を失はぬ様にすることにて、善を尽せるの徳と云ふには非ず。固より「大人は言必ずしも信ならず、行必ずしも果ならず、惟義の在る所のままにす」離婁下篇第十一章などの地位に及ぶべきに非ず。然れども此の章の旨は、孔子陳に在して魯の狂狷を思ひ、又其の剛毅木訥を仁に近しと宣ふの意にして、人の生質に就きて其の学に進むべきことを云ふなり。全く成徳を語るに非ず。故に其の意謂へらく、人は小事にても是非善悪なく必ず信をば失はぬと云ふ片意地者に非ざれば、何事も苟且のみにして、執持する所はなき者なり。世には一種の片意地者あり、俗人は偏屈者と笑へども、是れぞ誠に甲斐甲斐しき持方ある人と云ふべしとなり。執の字は固執拘泥の事にも用ふ、尽心上篇の「子莫中を執る」の執是れなり。又操持堅固なる所にも用ふ、離婁下篇の「湯中を執る」第二十章の執是れなり。是等の所、文字に固執せず、直ちに義理を以て見通すべし。伊藤氏は張子の説を取る、云く「君子信に必せざるは、其の一を執りて通ぜざるを悪むなり」と。因りて孔子曰く「敢へて佞を為すに非ず、固を疾むなり」憲問、孟子曰く「一を執るを悪む所の者は、其の道を賊ふが為なり、一を挙げて百を廃すればなり」尽心を引き証とす。此の説に従へば、「君子亮ならざるは、執ることを悪んでなり」と訓ずべし。是れ蓋し亮・執の二字に固執したる説なるべし。然れども義理固より通ず、両存して可なり。

現代語訳

「君子が信を守らなければ、何を拠り所とするのか」。亮は朱子の注に「諒と同じ」とある。諒は、『論語』憲問篇の「凡人が小さな信義を守る」の注に「小さな信」とあり、衛霊公篇の「君子は正しさを守るが、小さな信義にはこだわらない」の注に「是非を選ばずに必ず約束を守ること」とある。とすれば、小さな事にこだわって是非の区別なく、必ず約束を違えないようにすることであって、善を尽くした徳というのではない。もちろん「大人は言葉が必ずしも約束どおりでなく、行いが必ずしもやり遂げるものでなく、ただ義のあるところに従う」(離婁下篇第十一章)などの境地に及ぶものではない。しかしこの章の趣旨は、孔子が陳にいて魯の狂者・狷者(志の高い者と節を守る者)を思い、また剛毅木訥(意志が強く飾り気がない)を仁に近いと言われた意味と同じで、人の生まれつきの性質に即して学問に進むべきことを言うのであり、完成した徳を語っているのではまったくない。だからその意味は、人は小さな事でも是非善悪を問わず必ず約束を守るという片意地な者でなければ、何事もその場しのぎで、しっかり守るものがない者だ、ということである。世には一種の片意地者がいて、俗人は偏屈者と笑うが、これこそ実に頼もしい心の持ち方のある人だというのである。執の字は、固執してこだわる意味にも使い、尽心上篇の「子莫は中を執る」の執がそれである。またしっかり守り持つ意味にも使い、離婁下篇第二十章の「湯は中を執る」の執がそれである。こうした所は文字にこだわらず、すぐに道理で見通すべきである。伊藤仁斎は張載の説を取り、「君子が必ずしも約束にこだわらないのは、一つに固執して融通がきかないのを嫌うからだ」と言い、それゆえ孔子の「口がうまいのではない、頑固を憎むのだ」(憲問篇)、孟子の「一つに固執するのを憎むのは、道を損なうからであり、一つを挙げて百を捨てるからだ」(尽心篇)を証拠として引いている。この説に従えば「君子が小さな信にこだわらないのは、固執を憎むからだ」と読むべきである。これはおそらく亮・執の二字にこだわった説であろう。しかし道理はもとより通じるので、両説とも残しておいてよい。

解説

孟子の「君子亮ならずんば悪にか執らん」は、信を守らなければ人は何を拠り所にするのか、という短い一句です。松陰は、ここでいう信は是非を問わずに約束を守る「小さな信」で、完成した徳ではないと認めつつ、それでも小事まで約束を違えない片意地な人のほうが、何事もその場しのぎの人よりずっと頼もしいと読みます。孔子が狂者・狷者に望みをかけたのと同じく、人の生まれつきの強さを学問の出発点として評価するのです。伊藤仁斎の別の読みも退けず「両存して可なり」と結ぶ柔らかさにも注目したいところです。

この章句が説くこと

信約束片意地狂狷伊藤仁斎

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