講孟余話 / 告子下 第八章
此章ハ前章、三王、五覇、今之諸侯ノ事ヲ云ニ因テ、遂ニ孟子志ヲ得天下ニ行フノ大体ヲ示スナリ、天子ノ地方千里、諸侯ノ地方百里、是周ノ定制ナリ、而シテ春秋ヨリ戰國ニ及ヒ、諸侯皆大ハ小ヲ呑ミ、强ハ弱ヲ并セ、孟子ノ時ニ至リ、大諸侯九國各千里ノ地ヲ有ス、梁惠王上篇第七章ニ云ク、海內之地、方千里者九、陳氏云ク、齊楚燕秦趙魏韓宋中山ナリ、孟子ヲシテ志ヲ得、天下ニ行ハシメハ、必ツ先ツ政ヲ発シ仁ヲ施シ、國中ヲシテ庶冨教ノ実アラシメ、然ル後諸侯ニ諭シ、橫歛暴稅ヲ禁シ、隣境侵蝕ノ地ヲ還サシメ、滅国ヲ興シ、絕世ヲ継ク、而シテ其諭ニ違フ者アレハ、罪ヲ鳴シテ是ヲ討スルノミ、是其大体ナリ、古人或ハ此章ヲ疑テ爲シ難キノ事トシ、謂ラク此時百里ノ制ヲ踰ルノ国比々皆是ナリ、假令王者起ルコトアリトモ、安ンソ能一々ニ是ヲ削除スルコトヲ得ンヤト、因テ漢代ノ推私恩、分子弟邑ノ事ヲ引テ此章ヲ解シ、謂ラク五百里千里ノ大国モ、漸々ニ附庸支封ヲ多クシ、其國力ヲ分ツナラント、是レ國運ノ季叔ヲ小補スルニハ良策ナレトモ、豈王者大有爲ノ畧ヲ語ルニ足ランヤ、
新字:此章ハ前章、三王、五覇、今之諸侯ノ事ヲ云ニ因テ、遂ニ孟子志ヲ得天下ニ行フノ大体ヲ示スナリ、天子ノ地方千里、諸侯ノ地方百里、是周ノ定制ナリ、而シテ春秋ヨリ戦国ニ及ヒ、諸侯皆大ハ小ヲ呑ミ、強ハ弱ヲ并セ、孟子ノ時ニ至リ、大諸侯九国各千里ノ地ヲ有ス、梁恵王上篇第七章ニ云ク、海内之地、方千里者九、陳氏云ク、斉楚燕秦趙魏韓宋中山ナリ、孟子ヲシテ志ヲ得、天下ニ行ハシメハ、必ツ先ツ政ヲ発シ仁ヲ施シ、国中ヲシテ庶冨教ノ実アラシメ、然ル後諸侯ニ諭シ、横歛暴税ヲ禁シ、隣境侵蝕ノ地ヲ還サシメ、滅国ヲ興シ、絶世ヲ継ク、而シテ其諭ニ違フ者アレハ、罪ヲ鳴シテ是ヲ討スルノミ、是其大体ナリ、古人或ハ此章ヲ疑テ為シ難キノ事トシ、謂ラク此時百里ノ制ヲ踰ルノ国比々皆是ナリ、仮令王者起ルコトアリトモ、安ンソ能一々ニ是ヲ削除スルコトヲ得ンヤト、因テ漢代ノ推私恩、分子弟邑ノ事ヲ引テ此章ヲ解シ、謂ラク五百里千里ノ大国モ、漸々ニ附庸支封ヲ多クシ、其国力ヲ分ツナラント、是レ国運ノ季叔ヲ小補スルニハ良策ナレトモ、豈王者大有為ノ略ヲ語ルニ足ランヤ、
書き下し
此の章は前章、三王・五覇・今の諸侯の事を云ふに因りて、遂に孟子志を得て天下に行ふの大体を示すなり。天子の地方千里、諸侯の地方百里、是れ周の定制なり。而して春秋より戦国に及び、諸侯皆大は小を呑み、強は弱を并せ、孟子の時に至り、大諸侯九国各々千里の地を有す。梁恵王上篇第七章に云く、「海内の地、方千里なる者九」。陳氏云く、斉・楚・燕・秦・趙・魏・韓・宋・中山なり。孟子をして志を得て天下に行はしめば、必ず先づ政を発し仁を施し、国中をして庶・富・教の実あらしめ、然る後諸侯に諭し、横斂暴税を禁じ、隣境侵蝕の地を還さしめ、滅国を興し、絶世を継ぐ。而して其の諭に違ふ者あれば、罪を鳴らして是を討ずるのみ。是れ其の大体なり。古人或は此の章を疑ひて為し難きの事とし、謂へらく此の時百里の制を踰ゆるの国比々皆是れなり、仮令王者起ることありとも、安んぞ能く一々に是を削除することを得んやと。因りて漢代の「私恩を推し、子弟に邑を分つ」の事を引きて此の章を解し、謂へらく五百里千里の大国も、漸々に附庸支封を多くし、其の国力を分つならんと。是れ国運の季叔を小補するには良策なれども、豈に王者大有為の略を語るに足らんや。
現代語訳
この章は、前の章で三王・五覇・今の諸侯のことを言ったのを受けて、孟子が志を得て天下に行うときの大筋を示したのである。天子の領地は千里四方、諸侯の領地は百里四方、これが周の定めた制度である。ところが春秋から戦国にかけて、諸侯はみな大は小を呑み、強は弱を併せ、孟子の時代には大諸侯九か国がそれぞれ千里の地を持っていた。梁恵王上篇第七章に「天下の地で千里四方のものが九つある」と言う。陳氏によれば、斉・楚・燕・秦・趙・魏・韓・宋・中山である。孟子に志を得させて天下に行わせたなら、必ずまず政治を起こし仁を施し、自国に人口・富・教育の実をそなえさせ、そのうえで諸侯に諭して、無法な取り立てや重税を禁じ、隣国から侵し取った土地を返させ、滅んだ国を再興させ、絶えた家を継がせるだろう。そしてその諭しに背く者があれば、罪を明らかにして討つだけである。これがその大筋である。昔の人の中にはこの章を疑って、実行しがたいこととし、この時代には百里の制度を超える国はどこもそうであり、たとえ王者が起こっても、どうして一つ一つ削ることができようか、と言う者がいた。そこで漢代の「私的な恩を広げて子弟に領地を分ける」政策を引いてこの章を解し、五百里、千里の大国も、だんだんと付属の小国や分家を増やして、その国力を分けるのだろう、と言った。これは国の運命が衰えた末の世を少し補うには良策だが、どうして王者が大いに事を為す計略を語るに足りようか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 孫子呉起列伝楚の悼王、素より起の賢なるを聞き、至れば則ち楚に相とす。法を明らかにし令を審らかにし、不急の官を捐て、公族の疏遠なる者を廃し、以て戦闘の士を撫養す。要は兵を彊くし、馳説の従横を言ふ者を破るに在り。是に於いて南は百越を平らげ、北は陳・蔡を并せ、三晋を卻け、西は秦を伐つ。諸侯、楚の彊きを患ふ。故に楚の貴戚尽く呉起を害せんと欲す。悼王死するに及び、宗室大臣、乱を作して呉起を攻む。呉起、走りて王の尸に之きて之に伏す。起を撃つの徒、因りて呉起を射刺し、并せて悼王に中つ。悼王既に葬られ、太子立ち、乃ち令尹をして尽く呉起を射て并せて王の尸に中つる者を誅せしむ。起を射るに坐して宗を夷げられて死せし者七十余家。
-
『韓非子』孤憤第十一智術の士は明察にして、聴用せらるれば、且に重人の陰情を燭さんとす。能法の士は勁直にして、聽用せらるれば、且に重人の姦行を矯めんとす。
-
『韓非子』問田第四十二亂主闇上の患禍を憚らずして、必ず以て民萌の資利を齊えんと思うは、仁智の行なり。...亂主闇上の患禍を憚りて、死亡の害を避け、...は、貪鄙の為なり。
-
『韓非子』孤憤第十一是れ智法の士と當塗の人とは、兩つながら存す可からざるの仇なり。
-
『韓非子』六反第四十六夫れ痤を弾く者は痛み、薬を飲む者は苦し、苦憊の故の為に痤を弾き薬を飲まざれば、則ち身活きず、病已まず。
-
史記 袁盎鼂錯列伝其の弁を以て太子に幸を得、太子の家号して「智嚢」と曰ふ。数(しばしば)孝文の時に上書し、諸侯を削る事、及び法令の更定すべき者を言ふ。書数十たび上るも、孝文聴かず、然れども其の材を奇とし、遷して中大夫と為す。是の時に当たり、太子錯の計策を善しとし、袁盎・諸大功臣多く錯を好まず。景帝即位し、錯を以て内史と為す。錯常に数(しばしば)閒を請ひて事を言ひ、輒ち聴かれ、寵幸九卿を傾け、法令多く更定する所あり。丞相申屠嘉心に便とせず、力未だ以て傷つくる有らず。内史の府は太上廟の壖(ぜん)中に居り、門東に出で、便ならず。錯乃ち両門を穿ちて南に出だし、廟の壖垣を鑿つ。丞相嘉聞き、大いに怒り、此の過ちに因りて奏請して錯を誅せんと欲す。錯之を聞き、即ち夜閒を請ひ、具さに上の為に之を言ふ。丞相事を奏し、因りて錯擅に廟垣を鑿ちて門と為す、廷尉に下して誅せんことを請ふと言ふ。上曰く、「此れ廟垣に非ず、乃ち壖中の垣なり、法に致さず」と。丞相謝す。朝を罷め、怒りて長史に謂ひて曰く、「吾当に先づ斬りて以て聞すべきに、乃ち先づ請ひ、児の売る所と為る、固より誤れり」と。丞相遂に病を発して死す。錯此を以て愈(いよい)よ貴し。遷りて御史大夫と為り、諸侯の罪過を請ひ、其の地を削り、其の枝郡を収めんとす。奏上し、上公卿列侯宗室をして集議せしむ。敢へて難ずる莫く、独り竇嬰之を争ふ。此に由りて錯と卻(げき)有り。錯の更むる所の令三十章、諸侯皆諠譁して鼂錯を疾む。錯の父之を聞き、潁川より来たり、錯に謂ひて曰く、「上初めて即位し、公政を為して事を用ひ、諸侯を侵削し、人の骨肉を別疏す。人口議して多く公を怨む者は、何ぞや」と。鼂錯曰く、「固よりなり。此の如くならずんば、天子尊からず、宗廟安からず」と。錯の父曰く、「劉氏は安けれども、鼂氏は危ふし。吾公を去りて帰らん」と。遂に薬を飲みて死し、曰く、「吾禍の吾が身に及ぶを見るに忍びず」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る